藍坊主 | 3月
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3月 2007

虫眼鏡を捨てるものか。

久しぶりに紙とペンで計算式を解いてみました。
小学生か中学生か忘れたけど初歩的な簡単なやつ。
14.1×0.63とか1.372÷0.49とかこんなやつを何十個か。カリカリ淡々とやってみたんだけれども、しかしねぇ見事に間違えますな笑。計算ミスは昔から直らないなぁ。
てゆうかなんで急に計算をしてみたくなったかというと、昨日読み終えたある本の著者(こないだコラムで書いたやたら読むのに時間がかかった本、やっと三巻全部完読できた。。。)が言うには、この世界で最も完璧なのは「数学」だと断定していたからです。俺はこの人の言うことにいちいち感嘆していたので、単純に「ああ、数学ってすげえ」って思い込まされてしまいました。例えば俺が現にここに生きていることや、バラの色が赤くあること、サティのジムノペディを水のようなイメージにたくさんの人が感じることや、拓郎が大食いな人間として生まれてきたこと、そして生き物全てが必ず死ぬこと等々。これらの一番もとになる理由(完全な完璧な第一の根拠)はどこまで考えても確実にはわからないけれど、「三角形は三本の直線から成る」は確実に真実で、誰にも否定できない(らしい笑、たしかに否定できないし他になんとも言いようがない)。なぜだか知らないけど、空間の中だとそれぞれの異なる3つの点は必ず同じ平面上にあってこれを直線で結ぶと三角形になる。これは誰にも否定できない真実です。だから、数学はこの完璧なものを基礎としてどんどん新しい分野に進んでいきながら今も限界を知らず現役で頑張っていられるみたいです。確かに「なんで俺とあなたは違う人格を持っているのか」って考えてもある程度までは答えられるけど(育った環境の影響によるだとか、年齢がそれぞれ違う等々)つきつめていくと根源的には絶対にわからない(なぜ自分が自分でなければならなかったのか{他の誰かとして生まれてきてもよかったのに}、あなたはなぜあなたなのか{君が俺でもよかったのに}、、等々)。そうすると確かに、数学の明らかさに比べたら他のものごとはずっと曖昧に構成されているんだなぁ、と改めて痛感しました。数学ずっと嫌いだったけど、ちょっとかなり尊敬の部類に昇格しています笑。ブラボー!俺は単純だ。
ところがしかあーし、そんな完璧そうな数学にもいまだに謎なことが俺の中であるのです。これは多分おれの数学への理解力が足りないとかそういうことじゃないと思う。たぶん笑。
それはですね、
「三角形はなぜ三本の直線からならなければならないのか」ということ。もっとくわしくいえば「三角形を三本の直線からなると俺が認識するのはどういう理由なのか」ということです。確かに三角形の成り立ちの法則は否定できないけれど、何を根拠に俺はこれを肯定するのかがわからない。そもそも直線とは何なんですかね。この「直線」は一体どこから俺のもとにやってきて俺の思考の基礎に当たり前のように設定されているのかわからんちん。そうすると、基礎中の基礎の計算「1+1=2」も、この必然性がわからなくなってきてしまう。
詭弁でありましょうか笑。しかしそんな疑いをもったとしてもりんごが二個あってそれを拓郎が一個食ったとしたら残りは一個になるから「2-1=1」という生活する中ではとってもやくにたつ数式を否定することなんて『生活レベル』で決してはできません。
あああ。

長くなってきましたがあともうひとつ。これに関してはきっとおれの理解がとどいてないんだろうと思います。

1×2=2。
これは理解できる。1の2倍は2だから。
1×(-2)=-2
これも理解できる。0を中心とした直線の表を作って右に向かう方を+、左を-にすれば簡単に理解できる。
問題はこれ、
ー1×(-2)=2。
なんじゃこりゃぁあああああ笑!!
いまだにすごい不思議なんですよこれ。なんなんだよ。つーか確かに理論的にはわかるんですよ。一個前の形「1×(-2)=-2」に対してその全く同じ性質をもつ「ー」が1の前について×という行為をしたら「理論上」その反対の性質を持たなければならないからそうなるってことは。そしてそうしなければこの「1×(-2)=-2」という式のもつ意味自体が成り立たなくなってしまうというのもわかるんですが、どうして-が+になるんですか笑。この論理形式は未だに謎であります。÷の式になるともっとです、、、、。
けれど数学が世界で一番確実と思われる形を提示してくれるならば、俺はちょっと好きになってみようと思います。けれどやはり音楽が一番です。

YES.norwegian?wood/hozzy

煙突と塔の間にある『空』は?

以前ある雑誌のライターさんが言っていた印象的な話を今コラムにあげている写真見て思い出しました。

「こないだ娘がやかんの先端を指差して言ったんですよ。
『おとうさん、この湯気が消えるところはなんていうの?』
って。僕このとき面倒くさくて
『湯気は湯気、湯気が消えるところは湯気が消えるところ!』って当たり前のように言ったんですけど、よくよく考えると面白いですよねー。」

このとき俺は非常に感動しました。「湯気が消えるところ」ってなんて呼べばいいんでしょう?この想像だけでビール三本はいけますね。ほくほくとして消える湯気の境目に湯気と同じだけの意味を見いだせる娘さんにさらにワンカップで2回乾杯。
つーか、このことについて俺もよく考えることがありこの話にえらく共感してしまいました。例えば、『森に降り注いだ後の雨のにおい』に一個のれっきとした名前があってもいいんじゃないのか(もちろん樹々や土の違いによって匂いの質も違ってくるだろうけれども、それを越えた一個の概念として)、むしろ『森に降り注いだ後の雨のにおい』なんてながったらしい表現はいらないんじゃないか(詩的美しさがあるとすればそれは別として)、と何に向かってか誰に向かってかわからんけど提案したくなってしまう。


で、そんなこと考えていると、どんどん自分で勝手に言葉を作って、自分にしか通用しないような言葉ができあがったり(藍坊主ではそれでも緩和しているつもりです)、ぐちゃぐちゃの線ばっかりの夢をみてしまったりしてしまう(非常に恐かった)ようです。しかしそれでもこの世界を見ているのは俺だから(俺なくしては俺が感じる世界はない≒世界は無い)、俺は世界にちゃんと対面しなきゃならんわけです。そしてこの言葉遊びは心のうちにしまっておけば何の問題もないわけで、そんなこんなで生活の中で思いついたときには、いろんなシチュエーションに密かにネーミングを与えています笑。→煙突と塔の間にある「空」は何と呼んで然るべきか(もちろん私を中心とした世界において)。

うううい、北海道の空気はなんと呼ぼう。雪に埋もれたい私は明日札幌へ行ってきます。

YES.ponzu/hozzy

アーヴェー。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、最高だぜ。瞬間、二歩後ろに下がれたような気がした。クソみてえな仮象1(ピーさん。もしくはたまねぎでもいい)をじっくり否定してやった。同時に仮象0(反ピーさん。もしくはたまねぎの反対のやつでもいい『たまねぎの反対』がわかる人がいたら是非教えてください。知りたい)も、だ。貴様らのせいで俺は幻であるべき不安をむしゃむしゃ食べるはめになったんだ。ってワンカップ大関の瓶の底に向かって言ってやった。おーいおーい。しかしお前さんうめえよこの野郎。

俺は素敵なものに対して「くっそ」をよくつけますが(例→たんたん麺食って「くっそうめえ」)、ファックなことに対してももちろん「くそ」をつけます。俺は『水に似た感情』という曲で~消えてしまいたい~と歌っていますが何故あの時あの歌詞が浮かんできたのかよくわかった。虚ろな中でそれよりさらに虚ろなことに目を凝らして僕らは生きているんだもの。消えてしまいたいと思うのも無理ありません。
ああどこいこう。
リトアニアかも。

むしろ戻りたい。

YES.flash/hozzy

3

あさだ。
通勤ラッシュだ。
おはようございます。

YES.coke/hozzy