6月 2007

ありがとうございます。

今年も祝いの言葉をたくさんありがとうございます。一年前からもう一年たったのかー。。。と当たり前の事がやけにはっきりした一日でした。誕生日はきりっとしますね。この一年で成し遂げられなかったたくさんの事や、新しく気づいた今まで見えなかった事をもっとゴリゴリと磨いていきたいと思います。ツアー残りもよろしくです。シェーシェー!!

YES.Debussy/hozzy

キコリ。

細かい雨のせいで静かな夜です。私は何だか眠れなくなってきてしまいました。帰りがけに飲んだぬるめのエスプレッソのせいかもしれません。
今、ペンを撫でながらノートを眺めています。何本もの横線のあいだに雨と私の関係についての考えを書き連ねました。箇条書きで簡潔に9番まで。

孤独な人間だと思いますか?
今夜は細かい雨のせいでひどく静かでひとりぼっちなのです。
部屋は四角でかどは硬いです。電気もぼやけている気がします。
薬指の爪の根元にささくれも発見してしまいました。
けれど彼はきっとこう言って笑うでしょう。
「本当に孤独な人間は自分が孤独だなんて気づいちゃいないよ」
そして、ふん、と言って、こう付け加えます。
「ご飯を食べてる最中に“私はご飯を食べている”なんて考える人間がいるかい?」
ひどい言葉です。
けれど彼はそういう人です。

私は孤独をブロックのようにして引き出しにしまっておいています。
そしてそれをこんな雨の夜にだけ空に積み上げて行くのです。
コトリコトリ。
もちろん孤独に形なんてありません。
形のあるものはこの手で触れられるものだけです。
けれど私は形のないそれとどこかで触れ合って確かにどこかで見ている気がします。
それは大きいのもあれば小さいのもあります。
丸いのもあれば長細いのもあります。
だからそれを引っ張ったり削ったりして徐々にブロックに変えていくのです。
小さい欠片のようなものは粘度のようにくっつけてしっかりした一個にします。そんな風にしてブロックを集めていきます。
そしてこんな静かな雨の夜にだけその立方体を積んでいくことを自分に許しているのです。
雨雲の上に浮かぶ小さなブラックホールへの到着を想像しながら。

外は奇妙なほど静かな夜です。
窓が濡れていて、近くの電灯がいつもより遠い所にあるような気がします。
宇宙に浮かんでいるガスのように窓をぼんやりオレンジ色にくすませています。雨はこの世界で一番穏やかな「了解」のように感じます。
「了解」というのも変な気がしますが、
「誰にも疑われず、驚かれず、ただやってきて、去って行く」というような感じの了解です。
まるでわたしにとっての「わたし」という存在のようです。

最近私は、私についてよく考えます。
まるで思春期に逆戻りしたかのような悩みですが、それとはまた違ったもやもやなのです。
それは、私は「私」ではない、ということことなのです。
変な話ですか?
はい。
けれど私には変だとは思えないのです。
それは、人が「私」と言う言葉を使うとき、「私」という言葉はどの人にとっても「私」という意味を持ってしまうからなのです。
私が自分を「私」と言い、あなたも自分を「私」と言う。
世界中の人々と同じ数だけ「私」という人々がいる。
おかしな話です。一体この「私」は人の何を指しているのでしょうか。
どの人の上をも渡り歩く「私」。
なんて本当の意味からかけ離れた言葉なんでしょう。
ぺらぺらと風に飛ぶちり紙のようです。
かといって「キリコ」という両親からもらったこの名前も私ではありません。
「キリコ」は世界中にたくさんいるし、仮に私が父に「ぺるにょんて」なんて変てこな世界で唯一人の名前をつけられたとしても、それは名前という点で「キリコ」と何の違いもありません。
もし私が記憶喪失になって「ぺるにょんて」という自分の名前を失ったとしたらどうなるでしょうか。
なんのことはありません。
記憶を欠きながらも私はそこに存在しています。
「キリコ」でなくても「ぺるにょんて」でなくてもそこに存在している私。
むしろ「キリコ」という名前を受ける対象を存在させている私。
しかも私は「私」ではありません。
では何と呼べばいいのでしょうか?

野良イヌやトカゲの方があるいは自分の存在についてもっとわかっているのかもしれません。
ネコのようにニャー、と雨の中を走りだしたい気分です。
言葉はただ私たちが感じるかたちについた、単なる呼び名です。
本物は名もなき形そのもののような気がします。
窓から見えるライトに照らされた駐車場は、誰かに切り取られて打ち捨てられたかのように音も無く危うげに立っています。
この雨を「雨」と呼ぶこともなく、この私を「あなた」と呼ぶこともなしにただ立っています。

テーブルの上のプラムがすっぱそうです。

YES,amaotone/hozzy

象。

お台場でやっているグレゴリーコルベールという人の展覧会に行ってきました。写真展というのか映像展というのかとにかく幅が広い芸術展覧会みたいな感じで、会場も日本の建築家が設計した独特な移動式コンテナでできていました。近くで売っていたシシカバブがやけに美味かった。久々食った。で、エントランスを抜けて入場したら民族系のエレクトロニカとゆるやかな照明、床には敷き詰められた石と木の板と、そして天井からは信じられないくらい幻想的な写真が吊るされていました。とりあえずそれ見た瞬間「やべー」の「や」の字もでてこなかった笑。久々唖然として冷たい鳥肌が立ちました。写真なんて専門的には全くわからないド素人の俺が普段見慣れているいわゆる「写真」なるものとは色味も、なんて言ったらいいのかわからないけど捉え方のコンセプトみたいなものも全然違っていて、その画ごとに写し出されていたのは本当にもしどこかに天国があるとしたらこんなところだろうなー、というくらい美しくてファンタスティックな写真ばかりでした。映像も、「よくこんなのとれたな笑」と思わされるくらいにそのアイデアの凄さとグレゴリーさんのただならぬ根性をただただ感じました。すげー綺麗なんだけど、すげー大変だったんだろうなー、と10分くらい観た後辺りからなんやらかんやらいらんことばかり色々考えてしまいました(いささか長かったので笑)。写真集ほしかったけど、ちょいと高かったので無料パンフレットで我慢しました。それでも表紙の写真で十分素敵。荒涼とした世界にすわっている象の前で本を読む子供の写真。夢で見そうだ笑。

最近は映画もたくさん観ました。本も何冊か読み終えました。
前もいつかのコラムで書いたけど村上春樹氏の「ノルウェイの森」が、俺はもうなんでか知らないけど気違いなほど好きみたいで、上巻を4冊下巻を5冊持っています。旅やらツアーやらにでたりすると何故かやたらと読みたくなって何度も買っちゃうんだよね。実はインド行った時もこれだけは持っていきました、服は2着しか持って行かなかったけど笑。で、とうとうあまりにも好きすぎて英訳版にもに手を出してしまい、長い時間かけてようやく今日読み終えました。英文でよんでも素晴らしくセンチメンタルで哀しくてまた泣きそうになりました。何カ所かオリジナルバージョンの時には特に何も感じなかった箇所で、英語だとすごい感動するところがあったりして、新たな「ノルウェイの森」の発見もあって、さらにこの小説の吸引力に拍車がかかってしまいました。言葉が違えば表現が違うのは当たり前なんだけど、それがどういう風に実際そう感じるのかがなんとなくわかったような気がしました、なんてまだまだ言えないペーペーな俺ですが笑、このために英単語帳一冊をちょっと暗記してみたり、英語に詳しい友達に言葉の意味を尋ねてみたり、受験生みたいになってる自分が単純に新鮮で面白かったです。まあそんだけこの小説が俺は好きなんだなー。三島の金閣寺もいいねー、こないだ読み返したらやっぱ好きです。えぐってくる。ぐりぐりしてる。

さあてさてそろそろツアーが始まるぞ。水をたくさん飲んで今回は万全の態勢で臨みますので、よろしくー。

YES.storm?trooper/hozzy

空を作りたくなかった。

いやはや、新曲賛否両論のようですね笑。わたくし的にとても嬉しいです。というか「え?これでいいの‥‥?」っていう意見がなかったら逆に涙がでてきます。だって“普通”に考えたら全然“普通”じゃないもの。だって変じゃん笑!全然メジャーっぽくないし。今回何の摩擦も無く「いいね!」って言われてもそれは全然「良い」じゃない。それは「良い」ふりをした「空っぽ」と同じです(逆に、心の底から良いと思ってくれた方はきっと俺たちの音と信じられないくらいスピーディーな意思疎通があったと思います笑)。拓郎もブログで書いていたけど、藍坊主を聴いてくれる方々を遠ざけたいんじゃなくて更にもっと近づきたいからこその今回の新曲です。裏切るわけないじゃないですか笑、だって今まで通りにやろうと思えばそうやることだってできますのですよ全くもって(違う意味で裏切っていきたいと常に思ってはいますけど)。過去の作品を否定しているわけでもなく、そのスタイルを捨てようとしているわけでもありません。今でも俺の心はパンクソウルで燃えていますよ笑。より昔より慣例に対してアンチになる気持ちはむくむくと育ってきています。パンクとは反体制です。俺は基本そっちよりです。というか、むしろ今回の作品を通して今まで自分たちが作ってきた音楽をもっと愛する事が俺はできるようになりました。事実です。俺が今回も造語を使い、なんやら昔に比べたら解りにくい歌詞を書いて歌っていますが、何も難しいことなんか無い。そのまま、そのままです。言葉にできない物事の重要性とそれを言葉にするナンセンスさを歌っているだけです。例えば、例えばね、俺が青森のりんごをめっちゃ好きだったとします。もう本当に好きで好きでしょうがない。「ああああ!俺は青森りんごが大好きだーーー!!!」ってあなたに叫ぶとして。で、どこまで伝わりますかね、この俺のりんごに対する愛情の大きさが笑。愛情は「好き」「愛してる」「必要だ」「無けりゃ死ぬ」などなど、まあいくらか表現方法はあるけれど、結局おれの中で燃えに燃えているこの愛情の熱は完璧には伝えられない。単純に言って、俺とあなたの「好き」って捉え方も感じ方も違うに決まっているんだし、どこまでいっても俺は俺で、君は君なんです。だから、言葉でコミニケーションする人間としての俺たちは、相手の言葉を自分の感覚に変換して始めて理解し合える。ここが大きな問題なんです。だって、それじゃあ、俺の「好き」は永遠に誰にも『実質上』伝えることができないじゃないか、、、ということ。ほら、言葉で説明していくとどんどん面倒くさくなっていくでしょ笑。この、言葉にしないうちの、感覚や、感情って、とてもとても、一人一人にとって優しくて輝いていて純粋なものだと俺は思うんです。「言葉にできない美しさ」ってよくあるけれど、それってなんか解るでしょ?しゃべると壊れてしまう空気になる前の空気みたいなやつ。それを今回新曲に、「空を作りたくなかった」にパックしたつもりです。つーか、本当はこんなことを補足として書くのって“音楽”としてはとても不純であると思っているんですが、まあ俺たちがいつもぴょんぴょん飛び回ってるんで笑、やっぱ必要なのかなと思いました。解りにくくてごめんなさい。が、これは進化でも、進歩でもなく、闘いなのです。拓郎がいった「誇り」も含めてね。俺には本当に「世界」がねじまがって見える。世界がなんぞやという尺度さえ世界は考えようともしない。おかしいよ。狂ってる。俺は自分が立っている場所をしっかりと明かそうとしている。音楽の美しさと素晴らしさと誠実さに近づこうとしている。つまらん曲をつくってため息ついてわけわからん世界に合わせて自分たちの枠を作って疑いをもつべき所に疑いをもたず畏まって自分を“およそに”確定する、くそくらえだろ、そんなの。俺があの日言った「目指すべき高み」は俺たちが作るべき場所です。世界にある場所では断じて無い。そこは言わせてもらいます笑。包括して、自分たちの音楽を包み込んで、俺は最上級で肯定する。心配しなでください、俺たちは過去を捨てたわけではないのです、国を作っているだけなのですよ笑。不安にさせてしまったあなた。ツアーに絶対来い!きっと安心できると思うよ笑。

YES,sorawotsukuritakunakatta/hozzy