7月 2007

あの化け物は狂ってやがる。

風の谷のナウシカのアニメになる前の原作、さっき読み終えてぶるっときてます。
今更ながら、こりゃすげえ。
ずーっと前からうちの旧スタッフのユウスケに「読め、絶対!」と薦められていたんだけど、なんかずっと無視してた笑。
いや、すまんミタケ殿。すごい事になっていたよほんと。

アニメ版のやつは何度も何度も見ていたけど、結局原型のほんの一握りしか見ていなかったんですね。奥深い映画だとは思っていたけれど、もっとずっと遠いところにこんなおっかないもんが配置されていたとは知らなんだ。ジョッキリされちゃいました。

巨神兵オーマのポジションには本当にずーんとなりました。空を飛んでいる彼の姿が特に救いようがない印象をびしばし放っているように思えてしまって、過去の回想シーンで巨神兵が集団で空を飛んでいる画は、小さいカットなのに今も強烈に頭の中に残っています。ただの兵器じゃなかったと話の中で仄めかされていたけど、あれは何だったんだろうってどえらく気になっている始末。

巨神兵が「調停者」ってのは彼らの生みの親が彼らにインプットした名目上の役割で、結局世界再生のために作られた「兵器」だったのか、それとも本当に何事かの「調停者」として役割を与えられながら生まれてきた疑似神様みたいなものだったのか、それともまだ想像もつかないような秘密がもっとよく読めば現れてくるのか、ぐるぐると色々想像してしまいます。
でも、どれにしても結局悲しい理由があるような気がするのは否めないし、だからこそこの物語の中でオーマは一番美しく思えました。あと、清浄になった世界に成仏していった皇弟の魂。最後の彼の魂の無邪気さに泣きそうになった。

らんっ、らーらららんらんらん…、らんっ、らーらららーーん…。

あの不気味なシーンのような感触をじっくりと眺められた全七巻でした。

ユパ様に合掌。

YES.daikaishou/hozzy

ヒグラシの声からヒノキの匂いがする件。

然も暗。
然と暗は友達のようで「も」で語り合っている。

ヒロシゲと散歩。
ひぐらしが鳴き始める。
ファミリーマートの横でプールの匂い。
セミは夜には鳴かない。

扇風機の「せ」と「ぷ」の調和が傾く。
るくるく、と云う。

な、な、な、な、な、な、な、
な、な、な、な、な、な、な、
72の200七夏です。
九官鳥の9から2をひいてみる。

スパナのぎらつきから。
汎月論を支持します。
ルニロ。

ここまでの文章を90°傾けてビルに見せる。

シャガールの絵に月の光をかけて食べてみたいと思う。
水を滑らす。
渦巻く泡は虹のカプセル。

ケミカル“ゴッド”ブラザーズ。
セックス“アンチ”ピストルズ。
ブロック“デヴル”パーティー。

「私」と「全て」

全てから私が生まれ。
私から「全て」が生まれ。
そして全てが生まれ。
私が《私》を生んだ。
全ても「全て」も「私」も生んだ私。
全てが私を生んだ後にそれを生んだ私。
親は子に。
子は親に。

回想。

まだ起きないように眠ろう。
「まだ、起きない、ように、眠ろう」
この違和感を人にうち明ける言葉がどこかにある。

森が夏の風でふるえる。

YES.ankone/hozzy

ささくれ。

ぶっちゃけ俺は純粋さというものを基本的に憎む性質です。

純粋さは純粋であればあるほど攻撃力が高くなり、逆に防御力は弱くなるように感じます。

削られた鉛筆の芯のようなこいつに何度深く刺されたか。

逆に俺のは何度折られたことか。

人の純粋さに傷つけられる時が一番ぶっ壊れそうになる。

透明であればあるほど痛いいたい。

しかし憎しみと愛は表裏一体とはよく言ったもんですが、こんだけ自分で怖れている純粋さと言うものに傷つけられること、特に自分も本当に純粋さが高まって防御力が落ちている状態で傷つけられること、これを心のどっかで期待している自分も正直いるので面倒くさい。マゾか笑。いや、サドだ。

 

純粋さを全く持ち合わせない人間なんていないし、勿論俺の中にもあるわけで、要は人間性としてそれが浮かび上がるのはその人その人がそれを擁する多寡によるってことだろうから(失っていないとロマンチックに言った方が良いのかな)、俺は純粋さ自体を憎むというより、純粋さを表面に多くまとって見えるということが鬱陶しく、とても鬱陶しく感じます。

この世界には純粋さを装った不純が多すぎるし、何より仮に本当の純粋さだとしても表面にまとってるのなんて見たくねえ。

純粋さっていうものは俺にとってとにかく面倒くさい。

だから憎くもあり愛しくもあるんだけど。

 

 

北海道、マジいいとこですね。

Air-G様ありがとうございました。

ライブも打ち上げも本当にいい空間を提供して下さって感無量でした。

北海道の人たちの純粋さはとても慎み深い。

なんか滞在中に漠然と感じまして、純粋さっつーのはなんだべと考えてしまい今日は長い前置きを書いてしまった。

つまるところ北海道は素敵だ、と、そういうことです!

 

つーか食いもんうますぎ。

 

YES.ezo!/HOZZY

カランコロン。

水のように薄いブルーのセロファンを越したような夜明けの薄明かり。
きれい。
こんな光加減の映像集があったなあ、となんだか泣きたくなるような気持ちでぼんやりしています。ふと目が覚めてしまいました。

「自然をお前が解った気になるな」
どこからともなくまだ何かの声が自分に向かって喋っています。
昨日の夜聴いていたドビュッシーの月の光も大音量で頭の中に流れています。
まだぼんやりとした頭の中で響くこの声も、今のこのうすら哀しい気持ちとその言葉の体感へのリアリティも、だんだんと目が覚めるに従って霧のように薄れていってしまうんだろうな、と思っていたらまた少し目が覚めてきました。
現に今、文章にしながらさっきのあの純粋な感覚が思考の枠組みに向かってどんどん統制されていっています。半分くらいはもう死んでしまった。こっちに来ると、あっちが偽物のような気になってくる。さっきはこっち側が偽物っぽかったのに。

「自然を俺がどうして解る?」
音階の数も、「夜明け」の光も、窓から見える「緑」の森も、5;35分のこの時間も、この「哀しい」という気持ちも、自然ではない?
人間としてのフィルターを通してしか「ここ」に居られない自分に、本当の意味での「自然」など解るはずも無い。自然は人間の都合で構成されている。「山」なんて意味の枠組みは自然にとって何の意味も必要もない。
この「自然」という言葉の意味さえも人間の都合で存在している。五感のない岩に「自然」なんて言葉が必要でしょうか?いるはずもない。
「解った気になるな」
ごもっともです。
自然本来の姿は「不自然」でなくてはならない。
人間に統制された自然が自然であるなんておかしな話です。

ならば、その本来的自然には人間としての自分には絶対手が届かない?

けれど美しいこの朝は紛れもなく美しい。

人間的解釈で感じる美しさを他の何が必要とするでしょうか。それは俺たちだけに響けば十分だ。うん。スズメはスズメ、ヒトはヒト。

ドビュッシーの曲を聴くといつも人間の範囲を超えた感覚を、どうにかして人間的感覚に変換して表現しようとしているような気がして震えます。超すげえ。

完全に寝ぼけが消え去って、今日のライブのことを考えています。ツアーファイナルどうなるかな。目が覚めた今、もう「自然」なんてどうでもよい笑。
今日のライブを人間として精一杯楽しむのみ。
レモンホールでお会いしましょう。

YES.Clair De Lune/hozzy