藍坊主 | 2月
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2月 2008

氷と水蒸気、結局「水」として同じってのがいかつい。

水面に揺らめく光に、匂いはない。
けど、その光のようなもの、鼻をひくひくさせても匂いを嗅ぎ取れるはずもなく、青臭い生き物の匂いがするだけ、ですが、徒歩10分の釣り堀にては、水の光は目よりも鼻にくる感じがするのですが、そんなの勘違いかも。けど鼻にくるんです。

夕方が夜になる瞬間、そんなもん生まれてこのかた見た事がない。
気がつけばいつも夜で、気がつけば夕方はすっかりあしたに退散してる。
ここ何日かじっと日が沈むあっちの方を、それこそ目が潰れんばかりに、熟視していたのですが、見れば見るほど夜と夕方の境目が分らない。目がかすむし、ヒンヤリしたらもう夜です。

冬→春は、くしゃみがでたらわかります。まだ冬です。暖かくてもだまされません。冬はまだ終わらない。

ベランダから見えるゴミ処理場の煙突は、真夜中になっても、雪が降っても、処理物を処理してるっぽいもくもくをすぱーとだしていますが、この吐き出し方が実にトロトロしていて静かです。日によっては笑ってしまいます。煙突が優しい。夕方は特に。冬は特に。雪の日はアガペー。

月をなぜ月と言うのか。ツキ。わからないからいいのかもしれない、と最近思うようになりました。「月光」よりも「月の光」の方が、イメージとして透明さが増して感じられるような気がするのは、俺だけなのか、他にも思う人がいるのか、もっと一般的にそう思うのか、わからないけれどなんか「月の光」っていいですよね。「月」って響きが羨ましい。hozzyってなんで、なんでアルファベットやねーん!!佐々木健太っていう本名です私。そろそろ名前変えようかな。そもそも名前ってなんなんだい。記号かい。精神かい。愛情かい。それとももっと空気を震わせるようなエネルギーの一種かい。わからん。
つーかムーン。って変な響き。月は月ですよ。日本人の俺にとって。lunoってエスペラント語のは好きですけれども。

あーあーあーあー。おもしろいことをたくさんやりたい。
おもしろいこととつまらないことをちゃんとわけれるひとになりたい。
うんこ食ってうんこしたくない。
糞食っても糞は出るし、みかん食っても糞は出る。
ならばですよ、ならば、うまいもんで糞した方が、ストレスなく、というか、食い物をちゃんと食わねば、我ら人間は、病気になってしまう。倒れる。痛む。苦しむ。死にたくなる。自殺。終わり。嫌ですよそんな、誰だってねえ。嫌だ。
それは一つの方法ではあるけれど、終わりを自ら選ぶのは決して、美しくはないです。
切腹の美、武士道的な日本的な死の美、ここに憧れを持つ人ならば、どうぞ結構、死を生として爆発させて、生を究極的にまで拡張して生ききってください。
三島由紀夫(作家)が切腹した心情を俺は決して理解することができない。彼のファンとしてする必要はあるのかもしれませんが、したくはない。
一体何の話?

洗濯をするとき、洗剤を、まず始めに浴槽の下の方にいれますか?それとも洗濯物の上から洗剤をかけるように溶かし込みますか?

人間はなんて感性的な生き物なんだろう。

YES.humo/hozzy

でろろーん。

今日、下北沢のモザイクに友達のライブを見に行きました。
ライブを見ていた時に、何故か色んな思い出が湧き出てきました。
藤森がモヒカンだった姿とか、ユウイチが作務衣を着ていた姿だとか。
下北沢は藍坊主にとって、とても特別な場所です。
この場所に育てられたと言ってもいいくらいです。特に屋根裏にはお世話になりました。内田さん(当時の店長、現渋谷クロールの頭取)の笑顔が鮮明に浮かんできます。
下北沢はすてきな場所ですな。
歩いているだけで酔ってくるよ。
とっても良い飲み屋がたくさんあって、帰るのが億劫になる。
ガディス(空を作りたくなかったの写真を撮った所)にいこうと思ったんだけど、定休日で閉まっていた笑。残念。このお店はとてもおすすめです。お茶もおいしいいです。

藤森と初めて会ったとき、高校生の頃でした。
ムースでパリパリに固めた短髪で、最高な笑顔で俺に語りかけてくれました(目だけは笑っていなかった)
藤森の高校の文化祭に行ってなんとなく初めて会話をしました。

その後、小田原のシャノアールと言う喫茶店にて、初の、バンド会合が行われるということで(藤森と初めてコピーバンドをするための話し合い)、俺がブラックコーヒーを調子こいて飲んでいたところ、10分遅れで、完全にガン飛ばし状態のモヒカン野郎が階段を下ってきて、初めて発した言葉が「ふざけんなよ、ピッチつながんねーよ」と、しょっぱなからケンカ腰の物言い。怖かったです。
「うろうろしちまったじゃねーかよ」と、終始不機嫌の藤森氏がご機嫌になったのは、その近くのカラオケボックスにて。
「咲けー!!」
と、イエローモンキーの「球根」を熱唱してからは、随分打ち解けて、皆で今後頑張ろうと、大大円にて収まる所に収まりました。

ユウイチは、高校生の頃、俺のヒーローでした。
俺らの地元の俺らの世代にて、彼は随分と名を馳せたギタリストでした。
俺も当時、随分真面目にギターの練習をしていたのですが、彼にあってからは、曲作りに専念することにしました笑。もう、ギターの練習するのが空しくなってしまって、あああーあーあーーと、わけわからん曲を作るに終始していました。学校終わってからの楽しみは唯一、作曲でした。停学になっても曲は作りました。そのとき作ったのがプリティーパンクミュージックでした。

タクロウは、ユウイチ同様、当時俺らの世代で随分派手に表立って目立っていたドラマーでした。彼のライブをその頃何度か密かに見に行っていたのですが、彼は勿論俺のことなど知りません。「よう!」と言っても、「ん?やあ?」と言うくらいな感じ。俺はあまりタクロウさんと話す事ができなかった。つまりは、いつも派手にライブをかましやがってからに、毎回なんだか悔しくなっていて、劣等感に自らを支配されておったのですな。ユウイチとタクロウは同じ学校で、この二人が組んだバンドは文句なしにかっこ良かったです。俺と藤森は1リスナーでした笑。

そんな俺と藤森の当時ウンコみたいだったバンドに、ユウイチとタクロウが今メンバーとして加わっているという今の状態は、奇跡的に凄いことなんです(俺にとってね)。これは俺とか藤森にしかわからん感覚なんだろうけどね。
冷静に当時の事を考えると、なんだか冷や汗が湧き出てくるよ笑。
徹夜でミックスした藤森と俺のデモテープは、藤森の学校でプラスチックの破片になっていた(踏みつぶされて、びよんびよーん。おうおう)。
そんなバンドが今、こうして、皆さんの前で、ライブやら、なんやらできていることは、半端無く奇跡的なことなんだと、改めて考えさせられている、夜の夜です。



YES.sandlot/hozzy

うにゅるーん。

近いものほど限りなく遠い。
遠くを眺める彼にとって、あの真っ白い山よりも、鼻上にかかった眼鏡の方が、ずっと遠い。フルマラソンを走る彼女にとって、そのゴールよりも、さっき飛び越えたスタートラインの方が、ずっと遠い。分刻みに日々を踊る彼にとって、数分先の「予定」よりも、何より近いこの「瞬間」の方が、ずっと遠い。イタリアンに舌鼓を打とうとする彼女にとって、口に放りこまれるそのパスタよりも、正にそれに触れるはずの舌の存在感の方が、ずっと遠い。当たり前になってしまえばなってしまったものほど、その本質はずっとずっと遠い。
息の仕方なんて誰も理屈でなんて分ってないのに芸術的に繰り返している。
「よし、今日も生きるぞ!」なんて決意しなくても、しっかりと俺たちは生命活動を行っている。
そして俺は「俺」を知らずしても、自分を自分として生きていける。生きていけるのよ。なんでなのよ。
こんなに近いものがこれ以上あるかって位近い「自分」そして何よりも限りなく遠い「自分」

「己とは何か?」

自分探し、とか、若い悩み、とか、よく言われるこの台詞ですが、果たしてこれは笑い飛ばして終わりにしていい事なんでしょうか、と、未だにもやもやして眉間の3ミリ位先っぽがぞわぞわして唸る。頭の良い人ほど、このことをうまく処理してる。つまり、不問に処する。問題にしない。俺は問題にしてしまう笑。
「自分」が何なのかなんてわかっていなくたって立派に生きていけるし、むしろそんなこと考えている間に、社会的に生産的なものごとを考えたり発明したり、実際に行動した方が、みんなが幸せになるし、美しい形だし、通常だし、学校の道徳の時間にもそんな話を教職者たちはしていたし。「地域社会に役立ちましょう、語らいよ、団らんよ、佐々木君、相変わらず姿勢がしゃんとしていて、よろしい」
今ではすっかり猫背ですが。
昔はぴっとできていたのです。
しかし「語らい」と「団らん」は先生語録の中でも上位にランクインする、俺の最も嫌いな言葉の2つでした。なんだか極度に嘘くせえ響きなんだもん。「一家団欒」って聞くたびに大人のエゴと言うか作為というかくっさい匂いをガキながらも敏感に嗅ぎとっていました。嫌な子供である。
で、俺は大バカなのか、単に疑い深い性分なのか、どうしても忘れる事ができないのですよ。存在の何たるかとは何たるかについて。
だって、おかしくないですか?
なんでこんな世界がこんな世界の形として存在しているのか。
そして俺は偶然として命を受け取ったのだろうけど(父母にとっては必然かもしれないけれど)、生きたからには生きねばならぬのだが、それは何のためだ。子孫繁栄とか、そんな人為的な解釈にはすっかり馴染めん。それが正当ならば、その子孫繁栄の先には何が在るか(もっと違う何かがあると信じたいし、自分に子供ができたらそう伝えたい)。命をつなぐ事、それはそもそも何なのだ。決して否定的な意味合いで言っているわけではありません。ただ単純に不思議でしょうがなく思うのです。あまりにも不可解で、吸い込まれていく。

YES,danran/hozzy