藍坊主 | 3月
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3月 2008

世界に打ち抜かれた、その瞬間、

俺の「自我」は、解体されそうになった。

仙台のあるラジオ局の控え室にて、椅子の上、腰掛けていた数秒のあいだ。

「自我」とは、「俺」のことであります。
佐々木健太であり、hozzyであるこの、俺。

狂った発言でしょうか。
いやいや、私は正常です。
ただただ真面目です。


つーっ、と部屋と俺が溶け込んで肉迫する。
恐れと、不気味なほどの歓喜に波打つ。
視界は意味をなくし、意味を超える。
俺は俺を失い、一つになる。


がちゃ。


ドアが開いて、スタッフの松下さんが現れて、世界の統一感が戻る。

思わず笑う。

「西田幾多郎は危険だ」

一昨日にユウイチ越しに聞いた、ある人の言葉の意味がわかった。

危険かも。

心がばらばらになっちゃうかも。


ぎゃー。


しかし、その危険は、「何に対して」危険か。

社会?生活?日常?精神?

社会も、生活も、日常も、精神も、
ほんとうの所、俺には、既にして、現実感がなく、はりぼてに感じる。

つかみ所がなく、虚ろだ。

これは、然すると、精神病者の典型であると、知識のある人は言うかもしれない。

ところが俺は、自分が精神を「病んでいる」とは全く思っていない。

しかし、それこそが、「病んでいるのだ」と言われるかもしれない。

俺には、全くそうは、思えない。


ならば、どっちが、正しいのか。


そんな基準は、この次元では、結局の所、どこにも、無いのだ。



俺が、病院に行ったら、「病んでいる」

行かなかったら、「病んでいる」 とは、勿論、診断されない(そんなこと、誰にだって言われる筋合いはない)。


俺は、病院になどは、決して行かない(誰かに、行くな、と言っているわけでは勿論ありません)


自分で、この「膜」と対決し(自分は何かに詰まっている)、制圧して、「病」と呼ばれる機械的な領域があるならばそれを超えて、血のちゃんと通った世界を生きたい。


俺の生に、他人の、強制的判断は不要である。


そもそもにして、この世界は狂っているのだから(そうとしか思えない)、
まともに、生きようとすればするほど困難です。

日に日に実感する。


東北の空気は、やっぱり俺にはぐっとくるみたい。
みなさん、ありがとうございました。

YES.ihatobu/hozzy

狂気。

最近、各地キャンペーンを回らせていただいて、ようやく一息、自宅に帰ってきました。

飛行機、新幹線、タクシー、電車、ありとある乗り物にここ一週間乗っけていただきまして、当分乗り物は結構ですという感じなんですが笑、
それはただ単に体が疲れるからとかいうんじゃなくて、なんていうか、そういう場所だと奇妙な人々からあまり距離をとれなくなって「うむ」となるからなんです(一緒に回ってくれてるスタッフの方々のことではないですよ笑。vapの皆様今回も色々とありがとうございました)

奇妙な人、というとなんか偏見差別的な意味合いが含まれているように響いてしまうかも知れないですが、この奇妙な人から見たら、俺も「奇妙な人」に見えるんだろうなという関係にあたる人たちのことを言いたいのです。

例えば、
電車で、携帯の着信音をピリピリならして、余裕顔で会話しているオジさん。
死ぬほど愛想が悪くてもの凄くスピードをつけながら道路を駆け抜けるタクシー運転手のオジさん。
スポーツ新聞に靴下ビールで、喉の奥の方から「ぐぁーーーー!」とかタンを鳴らしてる新幹線のおじさん。
俺、客なのに、いきなりため口で喋ってくる、店員のおじさん。

いわゆる、おっさんという人々。

なんだかだんだん、ある一定のおっさんの生態系が狂ってる風に見えてるのは俺だけなのでしょうか。
勿論俺も普段イライラすることはありますし、場違いな行動をどかんと起こす不完全な人間ですが、それにしたって、奇妙に見えて仕方が無いことが多い。

同時に、彼らからしたら、俺も奇妙に映るのか、よくすげー目で睨まれたり、背中にぶつぶつ文句を呟かれたりもします。

「ぶっ殺してやる、ぜってーぶっ殺してやる」

って言いながら、つり革にぶらぶらしてるサラリーマン風のおっさんに鳥肌がたったことも事実あります。



なんか、こういうのってどっかで聞いた事ありませんか?

『すげー目で睨む、携帯をぴろぴろ、ぶっ殺してやる』


テレビに映ってる評論家風のおっさんたちがよくいう若者像の象徴でしょ。

先生、おっさんたちも十分変です!

って、まあ、若者も凶暴な人は凶暴ですけどね(逆に、おじさんにも良いおじさんはたくさんいる)笑。
要は人間の凶暴性は年齢に振り分けられないってことだと思うのです。
場違いな奴は場違いな奴だし、倫理的な人は倫理的な人だし。
おとなも子供もあまり関係なく、そういう人はそういう人ってこと。

で、そうなると、勿論、責任問題は大人の皆様の方に降り掛かるはずだと思うのですが(なんといっても大人は大人ですからね)、どうもそうじゃない現状、世の中、すっげー大人寄りで、くっそアンフェア。
大抵、「理解できない」「非常識」だと言われるのは若者たちのほうです。そもそも「非常識」を唱える前に大人たちは「常識」とは何かを、その「常識の性質」からして考えたことが一度でもあったのでしょうか。常識ってどうやってできているのか。求めるならば提示しなければならない。その常識とは何なのだ?なぜそれが常識になっているのだ?そもそもあなたが理解している世界像はどんな世界像なのか。
きっと大抵の大人にもはっきりとはわかってはいないはずです。

単純に、大人はずるいなあ、って今になってすっごく思うのですよ。
だってね、子供は子供であるが故に、もちろん青少年少女もですよ、はっきり言って、言葉を持たぬのよ。
あまりある、鋭い感受性がそこにあって、ほとんどの人が、言葉なんかよりもその感覚に、生命力を燃やしている(大人の誰もが昔はそうだったように)。
そして、それが、大人になったら二度と戻らない絶対能力であって、何にも代え難い輝きを放っている。
俺も、また、リアルに高校時代を体感したいもの笑(残念ながら、日々、その記憶は死んでいき、俺もおっさんになっている。いやだん)。
そんな子供たちが、弁が立つ大人にかなう訳が無い。何を言っても言いくるめられて終わり、です(俺もそうだった)。
そんな、青少年少女に向って、「若者の凶暴性は年々、うんぬん、、、、げああああっぺ(タン」)って偉そうに吐きやがる、どこぞの大学教授やら評論家やら、社会学者やら、全く持って弱いものイジメしつつ、なんて感性に乏しく、なんて客観性(本当の意味での)に欠如し、ある意味全体主義ですよ、「大人のためのファシズム」。
狂った犯罪は大人もたっぷりしでかしてるヨ。それこそ歴史的にいって、大昔からずっと、ね。
残酷さは昔の方が実は強烈だったりもする。


ていうかそもそもなんでこんな事書いているかって言うと、

俺ね、帰ってくる時に本屋に寄ったのですが、そこでまたこんな本を見つけてしまったのです。

「他人を見下す若者たち」   

ほう、っと思って手に取ってみたら、これがまたすごくてね。
おもわず買って半分読んでむかついて色々考えさせられて、で、今に至るのです笑。

すげー反面教師的な性格を備えた本だなっと思います。
端的に言って、びっくりするくらい酷い。
俺はあまり他人が作ったものに対してこうやって公に批判を浴びせることはしたくはないのですが、これは、なんだか我慢がならなかった(720円もしたし笑、買うなってのね)

しかも、この著者、大学の教授です。しかも教育心理学が専門の人らしいのです。すごいよねほんと。
むかつきたい人は、読んでみてください。

YES,vap!/hozzy

ひとつでないひとつ。

ガムが俺になっていた。
そのツルっとした緑の粒を噛み始めた瞬間、
見開く空気にくしゃみを打ち、
あいかわらずなんて変な食い物なんなんだと
ガムを妙におかしく思ったのもつかの間、
舌がおいしくなって
さて、曲でも作るか、とギターを弾きだした時には
俺はガムになっていた。

しばし時が流れる。

ガムが再びガムに戻ったのは、俺の口がまずくなってから。
ギター置いて、背伸びをして、
げっぷがでそうででない、たるい後味に、おえっ、てなった後
「ぺっ」って、
それを銀紙に包むと、やっとそれはガムに戻り、
この俺ではなくなったのでした。

ガムをひたすら噛んでる時、俺はガムを「噛んで」はいない。
俺とガムはただ、一つになっている。

吐きだしたときに、やっとガム噛んでいた事、思い出したのでした。




「ひとつ」なんて言葉にもする前の、純粋なひとつ。

ガム噛んでるときのガムと俺の一体感。

0.1センチもずれることなく、

唯の、素っ裸の、すきまのない、いったい感。


そんな風に生きていたい(なんて難しいことなんだろ)。

活きたい。

行きたい。

そして充足のうちに

逝きたい(イクって響きは色んな意味の言葉をもっているのね。ちなみにオルガズムのイクはどの「いく」なんだろう。英語のカミングに対してやっぱ「行く」なんでしょうかね。ってか真面目に提案することじゃないのかしら)。



今日は久々に午後の光を、

「ちゃんと」

見た気がした。

「見る」前に感じた気がした。

単純に感動したのでした。

YES.pm1523/hozzy

見えないもの、俺たちは見ているのに。

俺、なんでhozzyって自分で改名したのか今日のリハの帰り道に解った。
俺、自分と対話したいの。
真剣に話し合いたいの(ヤバめですか?)。
私、「佐々木健太」っていう者ですが、「佐々木健太」でいたら、佐々木健太がわからんの。

俺たちは自分に名前を持っている。
それって、なんでなのよ。
この「俺」を解りやすくするため?
人に解ってもらいやすくするため?

俺は、佐々木健太である。
しかしながら、佐々木健太は平凡な名前のため、日本の至る所に存在する。
しかし、俺は、ここに、俺、として存在する。
佐々木健太には集約しきれない、「俺」の現実がある。

俺は、「佐々木健太」ではない。
俺は、ここにいる「俺」だ。

同様に、君は、名前を超えた存在だ。

hozzyって、別にhozzyじゃなくてもよかったの。
なんだってよかった。
ただなんとなく、hozzy、にした。

作詞作曲の記述はずっと、「佐々木健太」です、俺の場合ね。
なのに歌う俺、ギター弾く俺はhozzyです。
これは、俺(実は「俺」も日本中にたくさんいる笑。タクロウも「俺」というし、小島よしおも「俺」という。だから、言葉じゃ言い表せない「この、俺」のことを仮に「根っこの人」と呼ぶ)が根本的なところで何を見ているのかを、少しでも明確に感じたいから、こんなふざけた「hozzy」なんて形をとっているのは、その根っこの人がこっちのほうに問題をひり込んでくるから、なのかなと思った。今日、リハの帰り道に、その「根っこのひと」がちょっとはみでてきた。

俺は、中学生の頃から、一歩も進歩していない笑。

わからん、俺が「誰」なのか(真剣です)。

「先生!僕は誰なんでしょうか?」
「あなたは佐々木君でしょ?」
「そうじゃなくて、僕は、一体なんなでしょうか?」
「佐々木君、あなたは佐々木君よ」
「そうじゃないのです。佐々木である前に、僕は、生きているひとつとして、僕は存在しています、僕は何なのですか?」
「やめてよ、ほら、あなたは佐々木君でしょ」
「先生、、、、、、。」

伝わらないのです。
規律にそった教育では、そもそもの、根本的な謎は、開示される術がない。表面的なうわっつらだけの知識が、馬鹿みたいに、うすっぺらに「教育」によって増えていく。これのせいで、余計に本質は見えにくくなってゆく。子供は、大人たちの犠牲者だ。かわいそうだ。

俺がhozzyと自分を指したのは、この、しがらみから抜け出すためだったんだと思った。
佐々木健太で居る限り、佐々木健太である俺自身の存在がわからない。近すぎる故に、見えない。
俺はそもそもhozzyでもなく、佐々木健太でもない。
俺はそんな言葉を超えた何者かである。
同様に、あなたも、あなたの名前を超えた何者かである。

俺、俺、俺ばっかりですいません。
けれどここから始めないといけないのです。

優しさとか、善悪とか、道徳的な事って、自分に立ち返ることができて初めてちゃんとわかる気がする。外にいくら求めてもあやふやもやもやよ。

そんなことを思った。さっき。

YES,unko/hozzy

膜の中にいる感じ。

春がやって参りました。
くしゃみがとまんねー。「アレルギー」って言葉をみるだけで余計にかゆくなる。
「くそ花粉の野郎どもが、麗しき春のぬくもりを、ねちゃねちゃに濁しおってからに、、、」なんて思いたくなるし、「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」なんて嫌な事も鼻水でぐちゃぐちゃになってくるとつい思ってしまうものですが、そもそも別に花粉はなんも悪くないのですね。
こっちです、悪いのはこの私のイカレ体内器官なわけで、花粉は自然界の生命活動の一環、実に正常なサイクルの一部でしかなく、全う過ぎる位まっとう、俺がこんな正論を吐ける位にまっとうである。

俺の体はいつ頃からか狂い始めて、なんだかわからんが、花粉という大自然を拒否してしまうようになってしまった。いったいどうしたわが体よ笑。
辛いですよね、自然を拒否してしまうってのは。こっちで拒否した瞬間、自然にとってもこちらは異物。まるで自然からはじき出されてもうその一部ではいられない感じです。

アレルギーって、要は過剰反応のことですよね。医者じゃないので詳しいことはよくわからないのですが、普通なら自分にとって敵にならないような無害な相手に極度に攻撃をしかける行為のようです。花粉なんて毒でもなんでもないし、むしろ某ハン○ーガー店の品物の方がひどい毒性をもっている感がありますし、なんでアレルギーの原因の一つが杉なんだとひどく理不尽な感じのイメージがあります。

鼻がまた花粉を吸い込んだみたい。くしゃみ、はなみず。勝手にでてくる。人間ってすげえ。

で、攻撃するってことはそこが平和ではなくなって戦場になるから、結果として交戦後の荒廃した市街のように俺たちの身体上に炎症とか発熱とかになって後からそのツケが表れてくる。喘息やアトピーもアレルギーの一種で、アトピーは軽く、喘息はひどく、患っていた時期がありました。思えば俺はアレルギー症状を以外と抱え込んでいるな笑。喘息はひどかった。生き地獄。患っている方はよくお分かりになっていただけると思います。

杉の花粉さんたち。まさか彼らもこんなに我ら人間たちを苦しめているなんて思ってもないでしょう。ただ命を繋ごうとしているのね。
仮に俺たちを苦しめたくて飛ばしているとしても、なんとなくその理由が直観的に理解されてしまう。俺らひどいですもの、周りの生き物に対して。

杉が生き物であるということの前に、俺らは、俺らの人間的な視点で、彼らを「スギ」として平面化している。
杉は「スギ」である前に、一個の生命、こんなの子供でも直観でわかってる。けれど、私らより逆に子供の方がわかってる節もある。

「杉は生きていますか?」
「生きています!」
「生き物を無闇に殺したらどうですか?」
「いけないと思います!」
「なぜですか?」
「私たちと同じで生きているからです!」

大人に成った俺。今でも、子供と同じ考えに立つにはどうしたらいいんだろうか。

杉は「スギ」である前に、一個の生命。

これをもうちょっと押し進めて、スギの事を考えてみるのが大人の立場としての行動だと、勝手に思いつつ考えてみる。

杉とは、もうなんやかんや前にも書いてきましたが、ここ最近だと随分負のイメージに浸されている。実際、俺は花粉症にひどくいらだっています。やつらが消えれば、あの素晴らしき優しい春がまた俺の心に燦然と降り注いでくるし。蝶々も涙でぼやけず、軽やかなのその羽ばたきの無規則さをしっかり眺める事ができる。なのに春は今ではすっかり不安な季節です(喉もアレルギーで荒れるし)。
杉ってなんて忌々しいんだ。って実際問題相当忌々しいです。生活が楽しくなくなるし(毎日風邪みたいな感じ)。
そんな状態でみる「すぎ」は敵でしかありません。どうにかして花粉を吸い込まないようにマスクをして、部屋は常に空気清浄機を回して、点眼剤は常にポケットに携帯して、、、。
もう面倒くさいことこの上ない。「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」まさにそんな気分にしかならん。けれど、

杉は一個の生命。

この立地点でみることができるから、またなんだか複雑なわけで。あからさまに杉を批判するのもなんか申し訳ない気がするのです。

「杉は杉。されど“杉”ではない」
また面倒くさい方向に流れようとしている私hozzyのそっち側行きたがり症候群、笑。
まあ、聞いておくんなさい。ここに座ってゆっくりしていきなさいな笑。

杉って、俺たち日本人が呼んでいる言葉ですよね。英語だとJapanese?Cedarと呼ぶみたいです。この英語から見るとどうやら日本によく生えてる木のようですな。

杉。

人間、とりわけ俺たち日本人は、針葉樹の、細長い、幹が少し赤みがかった、全体的に三角形の木、見れば誰もが解る明確さで、その葉が濃い緑色の木のことを「杉」と呼びます(こんな書き方すると逆に杉がなんなんだか解らなくなってくる笑。説明なんてしなくても杉は杉として俺たちにはよくそのイメージがわかっている、これすげえ)。

誰もが杉をみれば杉って解るくらいに、杉は明確な形で俺らに見えている。
じゃあ、山にいる山鳩がスギをみたらどうか。
山鳩からみたら、俺たちが杉と呼んでいる木を、勿論「杉」とは呼ばないし、花粉症を発症させる負のイメージとしては見ない。
鳥にはそもそも言語がないのだし(当たり前やん)、もし彼らに言語があるとしても、人間の俺たちには何を喋っているのかはわからないし、鳥が花粉症になったらそれこそ重大な環境問題になってしまいます笑。
けれど、山鳩にはその木が彼らのシステムの中で、生きる環境の中で、あるポジションを占めているのは事実で、彼らにとって杉は人間的な「スギ」ではなくても、自分たちの環境に利用できる生きるための「素材」として見えている(例えば体を休める休憩所として)と、イメージできます。
この山鳩の視点に立ったときに、俺たちの「スギ」っていうイメージはかなり一カ所的なものの見方でしかないと、当然、言えます。
山鳩に限らず、てんとう虫でも、もぐらでも、寄生虫でも、それぞれの立場になったら、それこそ俺たちの立場は大多数の中の一つにしかならない。
いやいや、人間は、そんな生き物たちの何よりも勝って高等で真理に近く、それを追求するものであるがために、もぐらなんかと同じにされたらたまらんよ(その気持ちも非常によくわかる。俺ももぐらと一緒はなんか嫌だし笑)となっても、事実、命をもつもの、生命体というラインにたった時には、俺たちはみんな平等におんなじラインに並んでいる。
そう考えるのが逆に理性的な人間の公正な考え方だと思う。
「人間がナンバー1!」って俺たちが思っていても、モグラにとっては「モグラ(自分)がナンバー1」(俺たちみたいな思考方法では考えないだろうけど)って思っているだろうし、実際、生き物の形を俺たちなんかより必至に生きているエネルギーは感じる。

俺たちはみんな生命と言う同じラインに立っている(子供でも知っている)。おれたちはどんなに頭が良くても、宇宙にまでロケットを飛ばすアグレシヴな性質を持っているとしても、生きている、命を持っているというラインに立ったら、スギもてんとう虫も人間も全く同じ地平に立っている。モグラの気持ちが俺らには解らないように、モグラには俺たち人間の気持ちなどわからない。それは俺たちが脳が発達した高等な生き物である、という浅薄でつまらんせまっくるしい自己欺瞞から生まれてくるモグラを見下した考え方ではなく、モグラも俺らも、生体構造が違うだけで、命をもっているという至上、生きているという条件においては全く持て一緒であるということ。モグラももしかしたら俺たちからは愚鈍に見えているけれど、おそろしく理知的な性質を持っているかもしれない。それはモグラではない俺たちの思考回路からは決してわからない事柄だけれど。

つーわけで杉を「スギ」と呼んで、その言葉に負のイメージ喚起するのはとりわけ我ら人間の日本人の花粉症者に限られているわけで、全世界の他の生命たちにとったら全く別のイメージに映っているだろうこの木は、そもそも自分で「私のことスギと呼んでください!」とも言わず、「げはははは、死ねー人間どもー」なんて悪意を持っているわけでもなく、ただ生きているだけであります。
杉を「スギ」と何気なく呼ぶ事で、同時にそれは彼らの存在を僕らの意識に引き込んで、平面化している。
腹減ったトラが人間とウサギを全く同じ餌としてみるように、俺らは言葉でスギやモグラを同じように殺して心に映している。実際に殺す訳ではありません。かれらの命も死にません。けれど彼らは俺たちの言葉によって死んでしまうのです。
スギは自分のことを「スギ」だなんて一言も言ってないし思ってない、ただ生きている。この「ただ生きている」が、俺たちの言葉にかかると消えてしまう。なんとなく伝わりますか?

杉は杉。されど“杉”ではなく、その言葉の奥がわに生きている、そもそもとして、一個の生命だあああああ。
むずむずするぜ。

なんでこんな話になったんだ笑。杉から言葉へとなんて、まるでニューシングルの宣伝みたいじゃないか笑。
「言葉の森」
とても良い曲ですので、ぜひ皆様聴いてみてください。
そして長々、正義ぶったことを書いてきたのですが、随分と鼻水頭痛がひどくなってきた現在、やはり「杉など燃やしてしまえ」と思ってしまうのは、俺がどうしようもない人間だからでしょうか笑。

杉の生命に敬意を表す事で、なんとか春を乗り越えたい今です。

YES.cedar/hozzy