藍坊主 | 1月
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1月 2012

キュウユウ。

10年ぶりぐらいに触ったマイギター、ギブソンエクスプローラー。

なんでこいつの存在を忘れてしまっていたのだろう。

謎。

年始に実家帰って思い出すように持って帰ってきた。

良いギターなのにな。宝の持ち腐れだ。

10FEETのTAKUMAさんやメタリカのジェームズヘッドフィールドが使ってる。 

フレットがガスガスに削れてて使いもんになるか不明だけど、ちゃんとアンプに繋いだら音が出るのかワクワクする。

ほんと10年ぶりぐらいに電気通るんじゃないかコレ。

なんでこんなにほっぽらかしにしてたんだ、、、。

おもちゃみたいなくそギターは未だに常用してるのに。

、、、、謎。

そしてギターの裏側に黒いマジックで

『才能はつみかさね』

って書いてあった。

、、、、、、、謎。

YES.explorer/hozzy

ブデズムン。

仏教とは、哲学的実践なのか。
いわゆる宗教、とくくるには狭すぎるように思うし、哲学というには感覚的すぎる。
哲学的な世界観を、日常における実践によって、哲学的思考を実感にもっていく行程が仏教なのだろうか。
学だけでも、行だけでも、成り立たないもの。また、言葉では追いつかない感覚的すぎるもの。
ゆえに、宗教としては非常に不安定なポジションに自らたっている。
時代ごとに様々に解釈が別れ、仏陀の教えなど現代ではほとんど理解などできないであろう。
あるがままをあるがままに至らせる方法など、言葉で伝えるのが一層無理ならば、どうしてその本質が伝わろう。
およそ蓋然的に、本質を得たと思えたものに、師は、法衣と思想を付属させたのだろうか。
経がやたらな数を成しているのも、その証拠のようにも思える。
本当にその本質中の本質が伝わっているのなら、経も一つで十分ではないか。様々な角度から世界の相を眺めたそれが人間たちの真理か。
しかし、仏教の凄いところは、まさにそこ。本質を一という概念にも押し込めない発想法につきる。
本質は如来ただここに帰結するが、現象、いわゆる色や、表現、経は、この世界の無限の相のたずさえに乗っ取り、経も無限に存在するのが当たり前、という思考方法に至ってくるところ。これはインドの土着的なメチャクチャな宗教観とはまた別である(ようするに決して適当なのではなく、仏教は実に感覚と論理の間で、非論理の正当性を説いているのだ)ここが俺のまた、好きなところである。人間という思考の枠をあっさり超えている。キリスト教ならば聖書、イスラムならコーラン、正当な経典は仏教に比したら至極少ない。まさにこれが通常、実に理にかなった人間的理論発想の集約である。『矛盾をだすなかれ』矛盾は神の嫌うところであり、神はいつでも正しく、答えを指し示すものである、とする西洋思想の根幹がここ宗教にこそ反映されている。強い排中律思想。1か0か。イエスかノーか。
しかし、この思考方法を仏教は完全に超えている。イエスかノーかは問題ではない。なぜなら、そもそも矛盾などはこの世界には無いのだ、という思想があるから。突き詰めれば、そもそも「矛盾」などという発想法自体が人間の作為に縛られているから起こる事とする。この世界に人がいなければ、「矛盾」なんて観念も存在しない。ただこのあるがままの世界が存在し、虫や草木が生命を燃やしているだけである。矛盾すること、それは矛盾などではなく。我々人間の思考に住み着いたただの機能的思考法のひとつに他ならない。それを世界のあり方に当てはめると、いわゆる「矛盾」がでるのは至極当然のことである。そもそもその「矛盾」自体がこの世界においては「矛盾的」なのだから。
あらゆる相をこの世界は成しているということ、多であり一であるということ。そこにたどり着くのは容易ではないし、自分のこの解釈もカスみたいなものだろう。しかしながら、これが俺の見る世界、すなわち、この世界に体する実相的感覚なのだ。仏教思想こそ、より人間や、世界の本質に寄り添える、いわゆる宗教的ではない、しかし実践的な救いになりうるんではないかって思ったりしている。

法華経の方便品よりとりあげ、「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相(ゆうぶつよぶつ、ないのうじんぐう、しょほうじっそう)」
諸法実相の項において。
この一偈に込められたもの。現時点で解釈するならば
「この世界(宇宙)は唯、仏(神やいわゆる“仏”という人格的、人間からして人間対象的なものではなく、宇宙存在に対する我々からしたら超越的な原理をさす)であり、仏が在らせているものであり、それ以上でもそれ以下でもなく、遍くその力、それは法則であり、神秘であり、『ただ、世界を「この状態」に存在させている原理』であり、あらゆる物事の法則性や、もののあり方は、様々な仕方をしながら、その原理をあるがままに示している。それは、ただ、それ、である」
多少、色つけるとこんな感じだろうか。
諸法実相は、ハイデガーやウィトゲンシュタインがこの世界がこう在る事に対する純粋な驚き、感動の体験を記した時のものにどこか通ずるものがあるような気がする。

如来=仏。

仏陀、世尊は、如来を識った人。

道元は宗派という概念を強く否定する。まさにその通りだと俺も思う。なぜに仏教に宗派が必要か。寺さえもいらんと思っていたけれど、経の項に触れたときになるほどと思った。が、
現代でまともな仏教者と言うのはどれほでいるのだろうか。宗派に依れば、仏教の本質からはどんどん離れていく気がする。


、、、、、、、と、2007年末に俺は書き留めていたらしいのだが全くもって覚えてねえ(ひさびさ古いノートPC開いたら書いてあった、コいてるな!!)

でもなんかいつか出家してみたい俺としては(藍坊主だけに)、今も変わらない部分があることを感じた。

神社だか寺だかよくわかんない場所で、年の始まりの願をかける。

賽銭投げて願いが叶うかいな!(おれ神社でバイトした事あるからその虚しさを知っている。ラッシュ明けに賽銭ずだぶくろにせっせとつめてたのよ)

それでも俺もおみくじをひき(大吉!!)、家族の健康を祈ったりするのだ。

不思議なり人間。

今年も宜しくです。
素晴らしい2012になりますように。

YES.2012/hozzy