藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

さらにむしあつくなってきた。

また随分たってしまったけれど、ツアーありがとうございました。
名古屋、大阪、東京と、ノクティルカが力強く光っていったと思います!
いいツアーだった!

しかし、まさかのファイナル前に入院、、、。

唾石症(だせきしょう)という割とマイナーな病気?にかかり、唾液が出ずにリンパ腺のあたりが馬鹿みたいに腫れて、手術して詰まってる石をとったのでした。

唾液が溜まりすぎてどっかで破裂したらしく、CTだかMRIだかの自分の画像を見せられて、「はうっ」ってなった。

唾が痛いとか馬鹿みたいなのに笑、ほんと痛えんだもの!

でけえカルシウムっぽい白い石が2つ、なりかけのやつが2つ、合計四つ、そして今も奥の方に虎視眈々と一軍入りを狙ってるやつが一個残ってるらしい。

めんどくせえよー。

けどまあとりあえず、いいタイミングで入院できて(ちょうどセミファイナルの大阪終わって帰ってきた日に異変が起きた。そしてファイナルまで運良く二週間ほど空きがあった)、ファイナルを遂げることができたので、石の野郎も空気読んでくれたのかな?って感じでよかったです。

もう症状も安定してるし、明後日たぶん抜糸してもらえると思うので、心配してくれた方々、ありがとうございます、ご飯もおいしいです。

つー感じで、今回のツアーは忘れられないものに仕上がったと思います笑。

すべてのできごとにありがとう!


そして制作にまた力を注いでいってます。

越えてゆくぞい。

YES.yorugata/hozzy

むしあつくなってきた。

遅れましたが、岡山、福岡、ありがとうございました!

ずいぶん久しぶりに行ったけれども、変わらぬテンションで迎えてくれてうれしかったです。

岡山はなんか夕暮れどきがやけに落ち着いた雰囲気がしたんだけど、みんな穏やかってゆうかカリカリしてないってゆうか。懐かしい感じがしてホテルの周りぶらぶらしてた。昔、静岡の山の方に住んでたんだけど、そこでみた真っ赤に焼けた富士山を思い出した。全然岡山市街の方が都会なんだけど笑、なんかねその村のような昔住んでた町が好きだったのだ。みんな優しかったなあ。

博多は、相変わらずの賑やかさで笑、夜中3時過ぎでも回転寿しやってるし、若者たちは楽しそうに夜の街でじゃれ合っていた。街に着いたときもう深夜で、俺はもう疲れてすぐ寝たけど、メンバーやスタッフはラーメン食いいって飲んだらしい。すげえバイタリテー。てえ。
ほんと熱いよ。ユウイチが小田原と同格に好きな街ってのが、あいつ見てるとほんと伝わってくる笑。打ち上げではケーキを出していただき、ありがとうございました。

街のカラーってやっぱあるね。
いいね。

今住んでるとこよりも、しっくりきそうな土地ってあるもんな。
どこでもドアがあったらいいんだけどな。

今週末は、名古屋、大阪!

ワンマンはこれまた久しぶりなので、楽しもう。

よろしく!

YES.mt.fuji/hozzy

おはよう。

30さい。

ひよってられません。

おちついてられません。

生物に対しての知識はなかなか増えないけど、経験はかなり上乗せされた1年だったぞ。

とにかく文字見るより、音楽聴くより、土や水中や生き物の拍動に注意をこらした一年だった、、、(何をやっていたんだろう)

30になったからには、ここからその感触をまた作るものに混ぜ込んでいけたらと思うんだが、できるかな。どうだろうか。

日の光の移り変わりや、鉄塔の周りに鬱蒼と茂る林の鳥の鳴き声に、音楽聞くよりも深い安らぎを感じてしまう瞬間があることに気づいてしまったことが、正直怖い。

音楽の、俺にとっての絶対的だった音楽の支配力は、いつか消えてしまうんだろうか、、、、、と、思ったりもしたりして。

まあ、人間なんてそんなもんだよな。

いつ死ぬかもわかんねえんだし、いつか絶対誰でも死ぬし。

星も砕けて、日もしぼむ。

まあいっかって。

自分の生き方のすべてに共通するポリシーっつーか、まあ当然だよなって、ずっとガキの頃から受け入れてることがあるんだけど、

「とどまらない」

っつーか

「とどまれない」

っつーか。

飽きやすいだけかもしんねえけど笑、流れていくのが自然すぎる我が魂。

俺の音楽人生はここからどううねっていくのかわからんが、

まだ、作りたい音楽のイメージは、イメージだけはあって、それが2年とか前よりもずっと具体的になっている気がしてならないし、これはとても嬉しいことである。

作りたいものがある。

そしてそれを作れるバンドがある。

最高じゃん。

という感じで、30代。

水のように流れて、形を変えて、願わくばいつも新鮮なわき水のごとく笑、ここからまた、ぐにゃっと人間継続していきたいと思ってますので。

どうぞよろしくお願いします。

週末は久々のライブ。

曲作りばっかやってて引きこもってたんで笑、遠出すんのが楽しみで仕方ねえです。

よろしく。

YES.unknown/hozzy

わ、わ、わー、わー、わおーん。

遅れましたが、新潟&仙台ライブありがとうございました!!

新潟では東横ラーメンを食い。

仙台ではひさびさ深酒をし。

ライブも熱く、みんなどうもありがとうございました!

また月末まで当分ライブがないので、曲作りとかやったりするでしょう。

ちょっと集中して作ったろうと思うので、コラムの更新が少なくなると思います(宣言しちゃってすみません)!

なるべく息抜きに書けたらと思うけど、まあそんな器用なことなかなかできない質なので許してつかあさい。

沈むでしょう。

いってきます。

YES.hoya/hozzy

にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃーにゃ。

ソーラーパネルの配線に触ると、なぜか、

「パインパインパインパイーンつ!ワオっ!!」

の曲が流れるのはなんでなんだろう。

つーかこの曲、なんて曲なのかわからないんだけど、すげー有名なやつ。

どどだだどった、どった、どどたっ、
どどだだどった、にゃにゃんにゃにゃにゃー(にゃー、は本物は英語で歌ってるけど、何言ってるかわかんないからとりあえず、にゃー、でメロディー今書いてる)

どどだだどった、どった、どどたっ、

ってリフの曲。

ぱいんぱいん言ってる曲。

おれ、ミュージシャンなのにこの曲誰だかわかんねえんだけど、すんげえよくきく曲なんだけど、なんて曲だ。

そんで、なんで、ソーラーの配線に触った瞬間にこの曲口ずさみたくなるんだろう、、、、?

昼に「ぱいんぱいん」って歌いたくなって、そのことすっかり忘れて夜に家帰ってきたときに、またソーラーの配線に触った瞬間に「ぱいんぱいん」って、頭の中で歌ってんだよ。

なんでなんだろう、なんでだぱーん。

藍坊主のベストアルバムの時の特典のアナログ音源。

レコード盤。

レコードプレイヤー押し入れから引っ張りだしてあらためて聴いてみたら、すげーよかった。

いい音楽だなっっておもった笑。

レコードって、すっげえ夜に聴くといいな。

あの黒い円盤からなんで音がでてくんのかよくわかんねえんだけど。

PCのデジタルに慣れすぎて寒くなってたところに血液が流れ込んだみたいでかゆい感じ。

近い。

チリチリのノイズが、「忘れないで」にぴったりしてる。

いいな。

ぱいんぱいん。

YES.record/hozzy

何が見えるだろう。

太陽光発電について調べれば調べるほど、原発に代わるレベルでの実用化ってのはまだなかなか難しいもんがあるんだな、、、、、と、思い知らされてしまった。

けれどもまだまだ伸びしろがあるっぽい!(ほんと可能性だけはたっぷりありそうだぞ)、成長を続けてる技術だというのもなんとなくわかってきた。

現段階だと確かに原発レベルの発電量とか、コストの面ではお話にならないかもだけど、大型テレビも今じゃあ信じられないくらいに薄くて安くなって進化してるしな、、、、、って。

結構単純に俺は考えちゃってるんだけど、それじゃダメかね笑。

つーことで、何事も実際やってみないとわからないってことで、

ちょっと試しに手頃なパネルを一枚注文してみたのです。

1時間に50w発電できるらしい、まあ本格的なやつに比べたらおもちゃみたいなスペックのやつだ(だけどちゃんと12vバッテリーに繋げば非常用電源になれる)

自作でソーラーシステムってなんだか組めちゃうらしいので、面白そうだしやってみようとおもって。

しかも、電力会社をまったく通さないでいいらしいし、法律上でも、ある一定以内の規模(電圧が30v以内とかだったっけな、よくわからんけど)だったら資格とかもなしで、勝手に電気発生装置作っちゃっていいんだって!

電気つくってOK!

出所と作り方がはっきりしてる電流。

おれのアンペア!

そういうシステムを独立型太陽光発電って言うらしく(よくCMとかで見る一般のソーラー発電は、電力会社と分離されていない。だから余った電気を売ったりできる。独立型は完全無関係だから電気は売れないらしい)、この方法でソーラーを組んでいる人も震災以降増えているせいか、ソーラーパネル単体の値段もここ1年で結構下がっているらしいです(ただし主流はほとんど中国製。とにかく安い)


俺が組む予定の簡易システムは99パー、もとはとれない。

おおざっぱだけど計算してみたら、もとをとるにはもの凄く甘く見て、40年以上かかるっぽい笑、。

その間に間違いなく壊れる。。。。

けれども、未来のソーラー技術への遠回しでささやかな寄付だと思えばまあいいかと思ってます。
需要が増えれば、クオリティーも経済性もあがっていくからな、、、、たぶん、、、、。
実際非常用電源にもなるし。
キャンプとかにも使えちゃうかもだと。
そんなんすげえじゃん。

おれはやっぱ原発にこれからも頼る世界ってのは、考えるだけでつらい、、、。
ちょっとでも新しい世界の可能性を信じないとやってらんねえぜ!

太陽光発電!

君にかかってる重荷は相当な物だろうが、めげないで、ズタボロになるまで進化してくれ、、、!!

スペースと効率とコストとデザイン。

きっと化けられる、信じてますぜ!

YES.offgrid/hozzy

空と空の向こうには。

松本、熊谷、ありがとうございました!
松本では見事な酸欠蒸気の誕生。
熊谷ではまさかのクマガヤソング登場。

なんとユウイチは20代最後のライブが一昨日の熊谷だったと、ライブ後の楽屋でいきなり語る。

うおい。

そりゃすごいこったったんじゃねえべか。

って、そんなびっくりを最後の最後に味わったで候。

いってらっしゃい、ユウイチ殿。

せっしゃもすぐに、そちらに参ります、、、、。

次は新潟&仙台!

よろしくです!

YES.29.9/hozzy

風に午前に焦がされて。

ひたいと鼻の上の皮が剥けてきた。

日曜日。あまりの天気のよさに、外で顔面むき出して半日過ごしたツケがきた。

紫外線には気をつけよう、、、、。

YES.cap/hozzy

フェキム2。

前回面白かったので、また新しいコメントにレスポンスします。

興味ない方々は、今日もゴメンナサイ、、、。

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>hozzyのコラムに。

 一応、ベルクソンの純粋記憶、西田幾多郎の純粋経験を齧ったというか、掠ってみましたので、なんとなく、hozzyの言いたい「意識」なんとなくわかる気がしますが、合っているのか分からないので、、聞きたいのです。
 そして、意識があるなら当然、無意識があるはずで、その曖昧な境界についてと、それをどのように、脳の効果として捉えていくのかについて。
もうひとつ、アメーバの一種粘菌についての意識の捉え方について。。 多いのですが聞いてもらえないでしょうか。


「意識」
意識の連続は経験だったり、記憶になりますよね? 
 例えば、、ヒトは行動するとき、(無意識から意識への連続的な流れの中から)それまでの記憶や経験がありながら、それとは別に、非連続的な現在の意識があって、行動する。
その行動が経験、もしくは記憶になり積み重なって、今この瞬間の「現在」の行動に繋がる。

つまり、非連続の連続の中にヒトの意識はある。と考えていいのでしょうか。


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ここまでいくと、もう今まで通りの表記方法では間に合わなくなってくるので、俺が指したい意識の根源的な状態を「フェキム」って適当にこないだ書いたけど笑、これを使用させてもらいます。
どんどん厳密に言うと、「意識」という言葉では、もう伝えきれない次元の話に突入していくので、それでいかせてください(日本語にはフェキムに相当する一般名詞が存在しないので、、、。そして俺が考えるフェキムは西田幾多郎の「場所」とも少し違う部分があると思ってます。俺の西田理解が足りていれば笑。難しいんだよなぁ)


非連続の連続の中に人の意識(フェキム)があるのではなく、意識(フェキム)=非連続の連続と俺は考えています。
つまりフェキムは非連続の連続という様態をとっている。

フェキムは非連続の連続であり、その非連続の連続(これはすなわち意識活動というかフェキム活動、拡張すれば生きているといこと、生-活しているということ)の中から、物事を概念化して把握する人間特有の作用がおこって、いわゆる我々が持っているといわれる、一般名詞的な「意識」が把握されると考えます。
分かりづらいよね笑。

前回も書いたけど、「意識」ってものも概念だっていったけど、フェキム(これも厳密に言えば俺が規定している概念だが笑)がそれを可能にしている作用を起こしていると。

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 無意識という言葉にひっかかってるのかもしれませんが、意識がある=脳の電気的な伝導があるとすれば、
脳死=無意識なのでしょうか?
普段使っている、無意識にはこんな状態もあると思うのですが、、それは、境目なのでしょうか。

 例えば「ピアニストの人が、凄く手慣れている曲を弾いてる」とするとき、その人のその時の意識は、鍵盤を弾くとか、どうするとか、考えている状態ではなく、流れるように弾いてますよね。ボーっと。
これは意識と無意識の境目にあると思うのですが、どうでしょう?

________________________________________________

まず、無意識という概念がものすごく幅広いので、区切って考えてみます。

1よく精神分析とかででてくる「無意識」って言葉。
はっきり言って、俺は精神分析自体にそんなに興味が持てなく、、、思想的に共感できる部分が少ないため(その思想の展開の仕方、例えばユングとか、その発想法自体には興味は尽きないところはあるけれど)この分野の無意識ってやつが実際に人間の現在にどんな風に作用しているのかってことはわからないです。
この場合の深層心理的な意味合いの「無意識」ってのは、主に治療とか、実地的な目的で考案されてきたものだと思うので、医学とか、科学的な方向からの、けれどもそれが本当に正しいのか立証不可能な(なにしろ現実に表れてはいない状態の意識についての概念なので)、もどかしく俺は感じてしまい自分の哲学の方向への考えには取り入れてません(夢とか集合的無意識とかシンクロニシティとか、そういう考えはとても面白くて好きだけど笑)
今、俺が問題にしている意識(フェキム)とは、交差しそうでしない(出発点も目的地も違う)ものだと思っているので、この分野の「無意識」に関してはまず排除します。
俺の意識(フェキム)は哲学的な方向からの問題、精神分析学の意識は、あくまで科学的な方向から(無意識というものからの現実への症例をパターン分析して結論を得ているのだろうから)の問題だと解釈しています。
あんま詳しく入ったことがないので「違うよ!」って場合は、すいません。
ただ、目的地が違うというのは間違いないと思っているので、省かせてもらいますね。

2、ボーっとしている時、無我夢中になっているときの「無意識」について。
こっちの無意識の方が、精神分析のやつよりも現実的に把握できていいね笑。
これは精神分析の無意識とは違うってのは、よろしいでしょうか。
いうなれば、精神分析の無意識よりも、一歩手前の次元、もっと現実的な(この無意識も言語表明化されている時点で概念化されているけれど)一段階、現実に近い無意識って感じかな。
精神分析の「無意識」が現実の意識状態から遡行して学術的に推定されてゆくのに対して、こっちの無意識はほんとに俺たちが実感できる無意識だということ。
無意識に「お茶を汲んでいた」とか。
5分のつもりが気がついたら熱中しすぎてて1時間たっていた、とか。
そして、ここに、この「ぼーっとしている」とか、例に出してくれたピアニストの話もそうだけど流れるように鍵盤を叩くその時の思考が入り込まない状態(ライブ中俺も常にこの状態になっていたらいいんだけどね、、、笑。なかなか難しい)ってところに、俺の言いたいフェキムが近いところにある(現実的に「ある」わけではないのだけれど、、、ここもわかりづらくて申し訳ない。いずれちゃんと説明します)と思ってます。
ただ、この「無意識」も「意識」同様、フェキムによって定立、理解されていると。
ふと我に返るのが、フェキムの作用だと。
のちのちもっと詳しく書いていくけど、フェキムは場所であって場所でない(この点は西田幾多郎の場所理論そのものです)、「効果そのもの」であると、考えています。

3、そして、「脳死」は無意識なのかということだけれども、それは死んでみないと俺もわからないです笑。お医者さんが「脳死」と判断した時点で、その方の意識があるのか、ないのかは、もう外からはわからないことかなと、、、、。ただ、ここまで書いてこなかったけれど、俺は、「脳死」した時点で死んでると判断するのはいかがなものかと思ってはいます。自分が死ぬとき、できることならば笑、完全に全細胞が死ぬまで放っておいて欲しい、、。そしてこれはおれ個人の考えだけれど、臓器提供は、家族以外には絶対にしたくないです。それで助かる誰かの命があるのかもしれないけれど、俺は、この体は死んだあとも、灰になるまで自分のものとして所有していたい。

で、俺の現時点でのこの話の最終的に落ち着けたい結論的なものを、もう先取りしちゃって今漏らすならば(おそらくまったく繋がらないと感じるでしょうが)、

フェキムは、科学的に見るならば、脳の中の効果ということだけでなく、全身から発生されているはずだ。そして、もっと現象学的視点(思考を混ぜないみたままの世界に立ち現れる意識の状態)にたつならば、フェキムはこの世界そのものを生んでいると、考えている。

なので、脳幹うんぬんではなく、全身に意識はあると思っている(奇書と呼ばれる小説のドグラマグラにもこんな記述がある、、、、)

、、、、、よけい混乱させてしまうでしょうか。

この考えを、展開していくには、更に長い文章を書いていかなくてはいけないし、まだちゃんと繋がっていない部分もあるので(けれど最近それがつなげられそうな予感がしている)、もっと時間がかかりそうだ。

ただ「効果」とフェキムの関係については、もう考えがまとまっているので今度ちゃんと書きたいと思います。

______________________________________

粘菌(アメーバの一種)についての解釈。
 粘菌の一種には飢餓状態や、胞子を撒く際、集団で動くものがあります。
この前テレビでみたのは、人間の作った難解な迷路を、餌を取るためなら、人間(芸人さん)が解くより速く、また正確に最短距離で解けるのです。
それが、都市の電車網や、難解なヒトのマクロな問題を解決するために応用されているといった話でした。

これを意識という概念で解釈する場合、どう迷路を解いているのでしょう?電気的な効果は移動する際、細胞質流動で微量ながら起こるとは、思うのですが、、よくわかりません(笑)

hozzyはどう考えてますか?

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これね、すごいよね笑。
粘菌てなんだべないったい。
俺にはわかりません笑。

宮崎駿監督が粘菌に詳しかった気がする。
ナウシカの、コミック版で粘菌がもの凄く活動的に描かれていた。

前回とか、アメーバを引き合いに出したりして論点をずらしてしまったそもそもの俺の選択が間違っていたんですが、ここまでこの意識「フェキム」の概要をもし理解していただけたのなら、俺がずっと書いてきたこの意識の本質的論点は、あくまで人間の意識、フェキム、を問題にして、人間の脳の中の電気効果(さらにこれから展開する予定ですが、全身の電気効果)に関連づけることが、俺の目的でした。なので、アメーバや、他の動物たちの、意識は問題にそもそもできないのです。
なぜなら、俺は人間だからです。
人間以外の意識を、本質的に(哲学的に)ピンポイントで展開することは不可能だと考えているからです(科学的に、客観的に理解することはもちろん可能です!)
人間の意識との比較で取り入れることは可能ですが、フェキムとは本質的に違うものだと考えます。

なので、粘菌に関しては、たぶんだけど人間の言う本能の部分の優れた力なんじゃないでしょうか、、、。もはや「フェキム」を分離してこのコラムでは概念化しているので、粘菌の「意識」がその行動をなしていると言ってもかまわないのかな、、、。


ここまで書いて、
「なんて他の生物に対して冷たい考え方なんだろう!」
て思われることもあるかと思いますが、人間の意識の問題はもっと淡々と、きっと俺の書き方なんてずっと甘いくらい厳密に書かなくてはほんとはいけないんだと思う。

そして、この意識の展開を離れれば、

生き物の素晴らしさをいくら褒め称えてもかまわないわけでもあります。

だって俺、生き物飼いまくってるしな笑。
大好きだし、今の考えとの比較として、その行動様式とかを見比べることも意義があることだと思ってます。

ただ、話が違うってことさ。

って感じで、もう反応しないかもしれないけれど、また反応しちゃうかも笑。

あんまやるとこういう固いの興味ない人には苦痛になるだろうけど、今そういう周期なのでつまらない場合はぽーんと飛ばしちゃってください、、、、。

すいませんです。

YES.Jung

フェキム。

意識に関してのコラムに反応してくれている人がいて、ちょっとびっくりです笑。
ただでさえつかみ所がない問題を、また概念的な言葉を介して書くので俺の文章読んでも(俺の書き方のせいもあって)わかりづらいところが多々あると思うのに、予想外のつっこみをもらったりと笑、なんかすげえリスナーたちだな!

おぬしら、できるな。

モーリーのブログ読んで、コメント読んでたら答えてみたくなるものがあったので、さらに思考をかぶせてみよう。
弁証法的ですな。まず↓
________________________

hozzyさん、意識を持っている人間は本当に生物の中で『高度』なのですか?


生物の中で人間が1番お高い存在なのですか?



引っ掛かります。。


というコメントを読ませてもらって(勝手に文章引っ張っちゃってごめんね)、これに俺の見解を述べるのならば、

「その通り、人間は一番お高い存在だとは俺も思えません!」

です笑。

私の書いた文章が中途半端なせいで、ややこしくなってしまったのだと思うのだけれど、
おそらくこないだのコラムの

『なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから』

というところから、上記のコメントのような感想が生まれたのだと思うのだけれど、どうだろう。

まあとりあえずそうだとしたら、この『なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから』
という文章の本意は、決して人間が生物の中で一番優れているということを言いたいのではなくて、人間の「意識」の精度はやはりトップクラスだろうということです(書き方が分かりづらいですね)
俺も究極言うとアメーバにも意識はあると思っている(とても微弱なもののような気がするけれど)
猫や鳥なんかは、当然見ていて(飼っていて)人間に近い意識のあり方をしているのがわかる(コミュニケーションがまあとれる)
人間を中心にして見た場合(人間の意識しか俺は知らないので)、グラデーションのように、人間からアメーバまで意識のあり方が変わっていっていると思う。
180万種類の意識のあり方があると言い換えてもいいかもしれない。
そして意識の精度がトップクラスだというのは、人間の子供と猫とを見ていたら、俺はやっぱ、人間の方が意識に奥行きがあるとどうしても思ってしまうからだ(これは俺が人間だからなのかもしれないけれど笑)
なかには猫の方が、深遠な意識をたずさえていると思う人もいるかもしれない。それはそれで詩的で素晴らしいね笑。つーか猫も180万種中トップクラスの意識を持っているとおもうけどね俺。
つまりそういうことなわけで、更に付け加えるならば、意識の精度がトップクラスだということが、生物として優れているとは言えないとも思っています。
いつだか、結構前にコラムでも書いたんだけど、アメーバの方がもしかしたら生物としては進化しているかもしれないって話、、、。
これは完璧SFみたいな想像でしかないけれど笑、意識が強くあるってことは、その分迷いとか、想像による苦しみがまで常に身にまといながら生きなければならないということでもあるんじゃないか。
それに、身を滅ぼすようなもんまでガンガン造ってしまったり、お金とか株とか、実体のない約束事の上での価値に、右往左往させられているある意味滑稽な状況だったりだとか。
それに比べて、意識があるんだかないんだかわからない植物がなんか神々しく思える瞬間もあったりして、今日もひまわりに水をあげて拝んでる。
そんでアリや、ハチは、また俺たちとは違う「本能」的な部分がえらく発達した、人間並みにそっち方面で高度に進化してる生き物らしいよ(哲学者ベルクソンいわく)
スペックがいいからって、使いこなせないから、結局役立たずの穀潰しってことなんだ今のわたくしは。
ただ、この人間の「意識」の持つ幅に可能性はもの凄くやっぱあると思いたい(じゃなきゃ人間やってらんない)
想像力ってやつは、マイナスに働くことがたんまりあるけど、まだこの世界を全然理解できていない、開発不足の我々の意識使用方法にこそ問題があるのではないだろうか?!?!←ヤバい人みたいかい笑。

って、思って、原発依存を脱却するために、太陽光発電に可能性があるのなら、ためしてみようとか、自分でセットアップする方法とか勉強中!
金さえあれば、すぐにでもつくりたい。と、金という虚妄の価値にひれ伏す人間、わたくしでした。ありがとう。

と、こういう考えであります!

そしてもう一個、

この人はなかなかの強者ですな笑。

_______________________________________________________

1生きているから意識があるのか。

2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

1と2での「生きてる」の意味が違うんじゃないですかー


生物学的な「状態」、事実説明(科学的な説明?)と、意味や意義に価値などの「認識」(哲学的認識?)の問題の違い?


意識があるのに必要な「前提条件(科学的な説明)」と、意識が捉える対象の


意識が捉えるものは概念的で、言葉(記号や意味)だけど、事実説明は言葉で説明する(記述)が言葉にする以前の事柄を言葉で説明することがある(記述する以前の事柄を記述する(メタ的?))。

客観的な説明と主観的感覚。
その「客観的」が「科学的」で、「主観的」が「哲学的」、かなと。

レベルの違う問いかなと。

______________________________

このコメントにも考えを述べるのならば、

「確かに、その通りでございます笑!」

そう、この問題二つを並列させること自体が、そもそも問題である。
俺も自覚あるですよ、、、笑。
けれどまさか突っ込まれるとは、今までのケースから考えてなかったので、なんか興奮しました、、、。


1生きているから意識があるのか。

2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。


この二つは、上記のコメントを書いてくれた方が指摘している通り、1と2はそもそもの問題提起している出発点が異なっている。
その相違点もこのコメントに書いてある通り。

1が客観的視点から、2が主観的視点から、「意識」と「生きていること」を問題としている。
なので本当だったら、どっちが間違いでどっちが正しいという、二者択一の結果を導きだすこと自体が、論理的ではないですよね。
この方が書いている通り、両方とも「正しい」言明であると言えてしまう。
これは確かに矛盾だね笑。
あのコラムの根本自体を停止させる見事な指摘!!
素晴らしいパンクス笑。
わくわくをありがとう。

では、なんで俺がこの二つの問題を並列させたのか。
ただの馬鹿だったのか笑。
まあそうなんだけど、一応ちゃんと根拠はありますので、書かせてもらおう笑、偉そうかい?

まず、これをあえて並べてしまった俺の本意としては、客観というものも主観というものも、まとめて「意識」のテリトリーに収まっている「概念」だと思っているからです(そしてこれをいちいち書いて、前回の話を展開させるとそれはもうたこ足配線のような文章になって、めんどかった笑。ので、ここから主観と客観に関する俺の哲学的な見解を述べていきます)
客観という科学的なものの見方はともかく、主観という立場は、その名前からしてもうすでに感覚とか、自分というものそのもののような概念としてなっているけれども、その「主観」も、意識に対して立ち現れて客観的に捉えられた現象として概念化していると言えないか(これは自分の感覚を言語化したり、そうしなくても『コレはなんだ?』と反芻したり、いうなればボーッとしているのと、ぼーっとしていないときがその境目で、意識そのものの状態であるか[ふと我に返るときのその前のところってのが一番いい得ているかもしれない]、主観という自分の存在が定立している状態になっているかの違いというか、膨張して生命そのものである意識状態と、それが現実に収束した主観状態の違いというか、ふと我に返るときのその前が、主観と客観をまとめて概念としてこの世界に存在させることを可能にするというか、その領域というか、そういう感じのことです)
これはカントという近代の哲学者の考えに、俺なりに西田哲郎とベルクソン、フッサールという19世紀後半20世紀頭あたりに活躍した哲学者の考えを織り交ぜながら進めていっている考えです。
これだけの説明では、到底説明不足、根拠不足になるけれども、上記に記した哲学者たちの考えの上に、脳の中の電気効果というのを意識という点にしてまとめあげられたら、何か新しい扉が開くんではないかと笑。
俺の哲学的な問題は、この方法で解決するかもしれないという期待を抱いてまた、今この文章を書いています。
で、続き。

上記のコメントをくれた方は書いているけれど

意識が捉えるものは概念的で、言葉(記号や意味)だけど、事実説明は言葉で説明する(記述)が言葉にする以前の事柄を言葉で説明することがある(記述する以前の事柄を記述する(メタ的?))。


この部分を俺なりに書き換えるならば、「意識が捉えるものはこの世界のすべてであり、言葉やその概念や、感覚や、言葉にさえできない感覚で(これは概念が追いつかないけれど確かに存在している感覚だろう)、事実説明は、その意識に現れた諸々の現象を言語で記述すること。メタ的なものも概念に相当するため、意識より後になければ損ざし得ない」といっちゃいます。
なんか、もう意識ありきで考えを展開させてしまっているところがずるいと思いますが笑、まあこれは私のコラムなので、そこは許してください。そういう思想なのです。

ちなみに意識って、これも概念なんじゃねーの?って突っ込みもあり得ると思うので、言っときます。

概念です笑。

なので、「意識」って書いているけれど、別の言葉でもいいのだべつに。

「フェキム」とかでもいいのだ笑。

ベルクソンは記憶といい、西田は場所といい、フッサールは現象という。
それぞれ厳密には全然違うものを言っているんだけれど、見ようとしているポイントは一緒だと思ってる。

つまり、意識ってのは、始まりの場所っていうか、命が湧き出ている瞬間の連続っていうか、こここそ、メタ的な概念の最終地点というか、言葉で言うと概念なんだけど、いうなれば目を閉じれば感じる場所だ。
目を閉じれば感じる場所、、、、、。

これです笑。

目を閉じて耳を閉じて感じる場所。
湧き出る意識の流れ。
これは感じているのか、それを感じさせているのか、きっと両方を同時に行っているところなんだろう。
まさに主観も客観も混じり合っている、未分離の場所だ。
今書いてることは言葉によって概念化されているけれど、わかってもらえるだろう?そんな意識の感じってあるじゃん。
だって流れているんだ。
このおかげで時間というものがあるんだ。

こういうのを俺はめんどいから「意識」っていってしまっているので、上のコメント書いた方のように違和感を感じられる人もいるかと思いますが、ゆるしてちょ。

1生きているから意識があるのか。

2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

この二者択一の論路的矛盾は、1を2に収束させるためだけの笑、わたしの幼稚な並列のさせ方でした。
技術不足、すみませんでした。
どちらも言明記述的には正しい!
その通りです!

ですが
1は2に収斂されると思っています。

事実説明というものは、意識というものから出発しなければ、事象を客観的に把握することが原理的に不可能だと思いますが、どうでしょう?

提起したかった部分はそこです。
記述不足で申し訳ない!
だってこんなに説明すんのめんどいんだもの笑。
けれど楽しかったですありがとう!

以上、すてきなコメントがあったのでテンションあがってばっと書いちまった。

もうこんなことしないかもしれないけど、するかもしれない笑。

なんだこれ、バンドのコラムじゃなくなってんな笑。

曲つくんぞ。

YES.aufheben