藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

南相馬市小高区ボランティア。

というわけで、超短期で(1日のみ)福島県の南相馬市にボランティアに行ってきた。
頑張ったらぎりぎり日帰りで帰ってこれた(深夜0時に出て23時50分に家着いた笑)
ちょうど1年ぶりぐらいの南相馬市。
前回は雨が降って、俺は途中で撤退した(普通どこのボランティアでも雨が降ったら中止になるけど、去年の南相馬市はそれでも作業を続けていた、ので俺は自分の判断で中止した)
今回は、最後までやるぞ!と意気込んでいったけど、結局また途中で雨が降ってきた。
屋外作業は、今回は中止になった(去年のスタイルがちゃんと見直されたようです)
けれど屋内作業でまだやれそうな場所があったので、しっかり最後までやって今回は終了できた。

ちょうど先月の4月16日に、南相馬市の警戒区域が解除された(他の地域でも解除されている箇所がある)
今までは検問があって入れなかった地域が解放された。
自由にだれでも法律上は行き来できるようになった。
そこで、またその地域の復旧作業を進めようということで一度締め切っていた(去年の夏ごろ一度募集を終了していたよう)ボランティア募集を再度南相馬市のボランティアセンターが開始した。
被災地域のほとんどがもうライフライン(ガス、水道、電気)の復旧はすんでいると思うけど、今まで立ち入りが禁止されている場所はまたこれから復旧作業を進めていくことになる。
今回俺が作業させていただいた場所は、南相馬市の小高区というところ。
原発からは20キロ圏内で、復旧作業も進んでいないので水道も電気もまだ使えない。
当然除染も全く実行されていない(水が使えないとこの作業は効率よくできないらしい)
まさにまたこれから、1から始めなければならない場所のひとつ。

で、もうほんとにいろいろと考えさせられるというか、どう書くべきかわからないんだけど、なんか色んなことが難しすぎる。
そこにまたこれから暮らそうとしている人たち、実際どれだけの悪影響を及ぼすのか誰にもわからない放射能、原発停止に伴う東電の賠償能力の更なる低下への避難者の不安。
なんかね、もうなんでこんなに複雑なんだろうて、1日しかいなかったけど、というか1日だけという限定をつけなければ俺もボランティアという立場では参加することが心理的にも正直無理だ。
いろんなことがわからなすぎて、今までなんも知らねえで電気バカスカ使って生活して音楽垂れ流して悦に入って、そのしわ寄せの最終地点がこんな状況だなんてな、誰が悪いのかも、どうすれば良かったのかもわからないけど、やっぱ間違ってるってのは間違いない。
東電が潰れたら、困る人たちだっている(誰が避難者に賠償金を払い続けるのだ)あの会社は人の生活を背負って頭を垂れ続ける責務と反省を不可避的に永久に持ち続けなければならない。

とりあえず、今回の警戒区域の解除はいろんな問題があるってまた言われてる。
水道も電気も通ってないのに解除されても、家の片付けも効率的に進められない。
それに伴って除染もすすめられない。
誰でも自由に入れるようになったせいで、泥棒行為が横行している(県外からやってくるらしいよわざわざ)
特に信じられないのは、またどんな計画のもとにこの警戒区域の解除を政府が実行したのかよくわからないんだけどそこはさておき、マジで泥棒の被害が結構多いらしいということ。
鬼畜のようなやつがほんとにいるみたいなんだよ。
セブンイレブンの窓ガラスが割れててそれも泥棒がやったんだろうって話だったし、実際ボランティアの人で泥棒をつかまえたって人もいたりして、すげえ怒ってた。当然だろう。
いるんだよそういうやつが。
地元の人たちで自警団なんかも作って見回りしているらしいんだけど、もうそういうのやらせないでほしいよな。
ひどい苦痛をもう味わっているうえに、さらにそんな被害にあったらたまんねえって。
どう思うよこんなの。
けどそれが現実らしいんだ。

今回やらせていただいた作業は、依頼のあったお宅の裏の草刈りと、そこで雨が降ってきてしまったので、別の場所に移ってビニールハウス内の清掃。
作業自体は、岩手でやらせていただいたこととほとんど変わりがなかったけれど、やっぱり放射能のことがあって行政側の制限が厳しいのでそこにちょっと気をつけたくらい。
刈り取った草とかもあんまり一カ所にまとめとくとそこがホットスポット化するので対処するようにとか(どう対処したらいいのかは不明なんだけど)、側溝の水たまりには近づかないとか。
けどこんなのいちいち気にしてたら作業なんかできないから、皆さんあんま頓着せず。
そうことなので、俺は長期では参加しないことにした。
ボランティアだからね。
1回1日が俺の判断。
なのでまた日にちあけていこうと思う。

がれきとか、宮城県のやつでもこないだ北九州市で猛反発が起きてたけど(そうなる気持ちもまたよくわかる)、福島はほんとどうなるんだろう。
考えるだけで苦しくなる。

南相馬市で作業が終わった後、一緒に活動した方のご好意で福島駅まで車で送っていただいた。
その方は飯館村出身の方で、今は福島駅の近くで避難生活をされている。
飯館村は、知ってる人も多いだろうけど非常に放射線量が高く、今その村に戻っている人も、その方から聞いたら10人くらいしかいないとのこと。
人口6000人ほどらしいんだけど、所有面積は南相馬市に匹敵するくらい広い。
そのほとんが山だから除染するのも難しい。
その方からいろいろと話を聞いていたら、また自分の考え方も変わっていくような気がした。
言い換えると、より混乱することになった。
よく原子力村とかって言われている場所では、原発を誘致する代わりに税金を軽減してもらえたり、交付税的な物をたくさんもらえたりと、原発を受け入れることでアメがもらえるという構図があるっていわれている。
仕事もそこで増える。危険そうなものを(けれど絶対安全だと言われていた)受け入れる代わりに、豊かさを手に入れられるというのが原発という存在の別の側面でもある。
けれど、飯館村というところは、直接その原発の恩恵を受け取ってはいなかった地域だそうだ。
仕事で原発で働いていた人は居たかもしれないけれど(これは聞いてないからわからないけれど)、少なくとも税金減額とか、金の支給とかはなかったらしい。
それなのに、あの爆発が起きたときの風向きがたまたま飯館村の方向を向いていた。
だから、もの凄い量の放射能がその場所に降り積もることになってしまった。
それだけで、もう家に帰ることができなくなってしまった。
実際、震災のときにはその土地の地盤の堅さのおかげで家が崩壊したとかはないらしく、山なので津波の被害もないので、まさか自分たちが家に住めなくなるなんて思ってもなかったと言っていた。
たまたまのあの瞬間の風向きが、こういう結果の要因の一個になっているのが、天災なのか人災なのか(政府の原発への対処の遅れが今の結果を生んでいるという批判もあった)、また釈然としないもやもやとしたものを沸き上がらせる。
俺が屋内作業した場所は、原発から10キロくらいのところだったらしいんだけど、一緒に作業していた方が量ったガイガーカウンター上では0.5マイクロシーベルトぐらいだったらしい。
それに対して30キロ圏外の飯館村は1.5~6ぐらいらしい。
もう直で話聞いていたら、頭が下がるおもいでいっぱいになった。
そんだけ過酷な状況で、よく他の町のボランティアとかできるなと、「ほんとすごいっすね、、」としか俺は言えなかったんだけど、「もう体動かさなきゃやってらんないんだよ」っていいながら夜勤明けでボランティアして充血してる目で笑ってるその人の姿勢に、自分が痛くなった。

痛い。

どこまでが俺が個人としてやるべきところなのか。
善意でやるべきところはどこまでなのか。
俺は気持ちよくなりたいだけなのか。
それもある。
断じてそうではないと言い切れるほど善人ではないのは確かだ。
作業の後の風呂も最高だし。

だけれどもどう考えようが、行動は、結果として残るので(それが善いのか悪いのかという判定を超えて)、思い立ったら手伝いにいくということは間違いではないと、帰り道に結論づけた(そう思わなければもう手伝いにさえ行けなくなりそうで嫌になる)

1日がえらく長かった。

今住んでいる自分たちの町が、あの町と地続きで繋がっている。
テレビやネットのなかにあるのではなく、現実に、地面の延長で繋がっている。
いつ自分の町が、同じような状況になるのかもわからない。
福井のトラブル原発、高速増殖炉「もんじゅ」
これが爆発したら、俺の町も想定被爆圏内に入っている。
ずっと暴走を続けている兵器のような(プルトニウム爆弾とか言われてる)原発だ。
つかってる燃料のMOXってやつが相当やばいらしい。

他人事の世界ではないのだ。

よくよく、繋がっているということを感じたのでした。

YES.odakaku/hozzy

彼の目は蓮のある池かもしれない。

前回、生きていることを、脳の中の電気反応的な「効果」うんぬんという話を最後にしたけれども、

これは端的に言うと、俺の表現方法が中途半端だったです笑。

「生きていること」そのものではなくて、正しくは「意識があるということ」が脳の中の電気反応的な効果であると、そこが共感できるという話でした。

とはいっても、この「生きていること」と「意識があるということ」の線引きというか、二つの違いってのもまたよくよく考えなければならない問題であったりして実に難しい笑。


生きているから意識があるのか。
意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

ちょっと考えてみよう。

おそらく単細胞生物には意識というもがないと俺たちは考えている故に、意識よりも当然、生きていることの方が先だろうと普通は推論する。

しかしそうなると「待った!それでいいのか」という声がいつも、常識を疑っている僕の心の奥底からもくもくとわき上がってくる。

そもそもだ、この「生きている」とか「意識がある」とかいうふわふわとした物事を考えているのは、おそらく人間だけだ。
「生きている」という概念。
「意識がある」という概念。
これはなんとなく、どういうことか、言葉があるという時点で、人間(日本語理解者)にはわかるが、アメーバにはどういうことだかわからないのは確実だ。
なぜなら、アメーバと人間は、言葉では繋がれないからだ。アメーバの言葉があるとしても人間にはわからないように、アメーバの思考も人間にはわからない(そしておそらくアメーバには思考がない[意識がない]と我々は一般的に判断している)

つまりだ、結局その「生きている」とか「意識がある」って言葉と概念で、その感触を理解して感じているのって人間だけだ。

この世界に180万種近くいる生物種のうちのひとつ、人間という種の感じ方にすぎない。

1800000分の1の生命感受パターン。

逆に言えば、この感触から先に俺たちは人間であるが故に行くことができない(人間という型にはまっていて、思考方法もこのケースからは抜け出せない)

そこから1800000分の2へ行くことは、俺たちが人間やめるか、生まれ変わるか、しなければ想像を使ってしかいくことができない。

この想像が、推論になり、客観的考察になり、系統別な記述になり、学問の成分になり、研究の分野になり、~学という名前が着き、そしてあたかも生物そのものを掌握したかのような錯覚に陥り、結果として「単細胞には意識がない」という一般通念、常識的な科学的知識として俺たちのもとにインスタントで届く。

そしてそのインスタントにお湯をかけて、たくさん食べた人間が、頭がいい人になり、そのいい人が、さらなる想像から、新たな推論を生み出し、恐ろしかったり素晴らしかったりのより人間的な結果をもたらしてゆく。

このループがしっかりと俺たち人間の知識に組み込まれ、その起源への疑念など、つゆほども生まれなくなっていく。

このむなしさがわかるかい。
俺は、ずいぶん空しくなる。

どれほど、理解を物事に深めようとしても、それは人間としての(人間側からでしか)理解を超えることができねえ!ファック!

180万分の1だぜ。

何が、単細胞には意識がない。だよ馬鹿野郎。

「意識」って概念ってさ、180万分の1の感じ方の1っこでしかないじゃん。

なんか学校の勉強がうまくいかない人は、もしかしたら無意識的にこの空しさを感じているのじゃないのかい笑。
俺は学校ってところに行かなくなってから、こんな風に理由がわかったよ。

だけど、勉強しなければ、この空しさに納得することもできない。
社会的にうまくやってくこともできない。
働くのがばかばかしくて、やってらんなくなっちゃうから、適度にごまかさなくてはならない。
この空しさは、逆に言えば人間の可能性であることにも気づけば、なんとかやりすごせるかもしれない。
なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから。


そして、冒頭の問いに戻る。
きっと常識とは違う見解が見えてくる。

1生きているから意識があるのか。
2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

通常の考え方にそうならば、やっぱり1の方にやっぱなるよね。

1生きているから意識がある→アメーバみればわかるけど、奴らには意識があるとは思えないので、意識がなくても命が生きているいい例がアメーバ。だから人間みたいに高度な生物になった時に、生きているというフォーマットの上に意識というものが乗っかっているんだろう、と理解できる。これがまあ常識的だ。

けれど、俺は2だと思うのだよ。

そのものずばり、この「生きている」が先か、「意識」が先か、という『問い自体』が(そしてこれはどんな問いにおいても共通する)、180万の1の人間という種の思考回路から生み出された、オンリーワンの問い方なのだ。
そして一番決定的なのが、「意識」がなければ「生きている」ということがなんのか、その概念を理解することがそもそも不可能だ。
それでも「生きているから、子供の頃のいつごろからだかに意識が生まれて、そこからこんなわけわからんことを考えるようになるのではないか」っていう人もいると思う。
けれども、その反論として言うならば、その推論も、それを言う人の記憶も(おそらく自分の記憶から、子供の頃の意識の発芽を予想するんだろう)、やっぱり意識がなければ、「生」そのもの自体を考えることも、生きること(この生きることとはあくまで概念としての生きること)もできないと俺は思う(生きることの二重性の問題についてはまた今度書きます、、、、もうめんどいかい笑)
意識があるから、風を感じたり、生きていることを感じたり、記憶をたどれたり、問題提起を起こすことができる。
生まれたばかりの子供は、もちろん生きているけれど、「生きている」ということを考えたりはしない。
そこには彼の意識があるだけだ。
その意識はまだきっと、自分と世界さえもが融合していて離れてはいないだろう。
その赤ん坊が、「生きている」と感じるのは、その親であったり、医師であったりであって彼はまだ「生きている」という概念でこの世界を生きてはいない。

ただ本当にまっさらな状態でそこに居るだけだ。
そして我々赤ん坊でない人間は、例外なくもうまっさらに生きていることができなくなっている。
仏教における悟りへの道は、この赤ん坊のまっさらさにもどるための常識との格闘なのかもしれない。

その赤ん坊の感覚はきっと「生きている」という言葉(俺たち思うような概念)には当てはまらないものじゃないかと思う。

いうならば、意識の躍動。


と、わたしこう思うわけです。


そしてなぜ長々とこんな意識の話を持ち出したかというと、前回のコラムや、この出だしの文章とつながるんだけど、やっぱり命とは「意識」であるといってしまえるんじゃないかと言うことだ。

命も、魂も、「生きていること」も、なんとなく「そういうものである」と、ぼんやりした概念である。

そういうものである、ってなんか言いづらいけど、生の核的なものかな。

そしてやっぱりこの言葉も、言葉であるからには、人間が考えだしたものであるわけで、180万分の1の感じ方でしかないと思うのだ。

なので、そんな概念であるからには、やはりそれを映し出しているのは「意識」だと、こう集約的に結論つけられると思う。

「意識」をどこかに集約させることってできるのかな。

俺には今のところ想像できない。

意識は、この世界のすべてをつくる場所で、また映す場所だと言える。

命や魂は、見ることはできないけれど、意識は見ることができる、聞くことができる、感じることができる。

意識を見るって書き方は変だけど笑、見ることが意識であり、聞くことが意識であり、考えることが意識である、と言えるってことか。

そして、脳の中に意識があると局所的にみるのならば、電気反応的な「効果」として立ち現れるって、前回の最後の話につながる。

けれどまた長くなったので今度にする。

意識って、とても幅広いありふれた言葉だけれど、世界の謎を一手に引き受けている、キーになっている言葉だと思って考察中。

さあ、ちょっと時間があるので、旅に出よう。

ではまた。

YES.ameba/hozzy

私の骨はモアイの欠片かもしれない。

水戸ライトハウスのMCでしゃべった、死んだら無になるってありえないって話を、改めて考えてみた。

フランスで30年まえに死んだポルノ女優の元素をライトハウスの空間で吸っているかもしれないという話。

本意は、あまねく元素というもので構成されている俺たちの世界と、それだけじゃあ補足できない「生命」という現象の話。

うまくいえなかったけど笑。

悲観的な科学的っぽい、よく聞く最もらしい死に関する言葉に、

「死んだら無になる」

「死んだらただの物質になる」

ってのがある。

対して、スピリチュアルな人の言い分は

「死んでも生き続ける」

「次のステージに向かう」

とか。

こっちの方はもう信念の問題だと思うので、考察してああだこうだいったところで、確かめる術もないし、そもそも科学ではないので、万人が平等に理解できなければならない、という地平にはたっていない。ので、議論そのものが成り立たない。
信じるか信じないかの選択でしかない。だってしょうがない。信教とはそういうものなんだから。
そして世界中には、そのように何かを信じる人々が大半である。
無宗教と言われているこの国の感じが特別なのだとも言える。そして俺も俺なりに信じているものがある。

けれど科学はそうはいかない。

世界共通で誰もが道筋をたどれば、同じ結果にたどり着くものでなければ科学とは言えないからだ。

科学の定義はそれほど厳しいから、逆に現代では絶対的な威力も持っている。

そしてたまによくわからなくなってしまったりもする。

以下、「死んだら無になる」「死んだらただの物質になる」
という二つの言葉への俺なりの「科学的」に見た反対意見。

「死んだら無になる」→俺たちが死んだら無ではなく酸素や水素や窒素や炭素等の元素に分解され、大気や土に還る。この世界から我々が完全に消えることは科学理論的に不可能である。質量保存の法則と言う、鉄壁の科学法則があるからだ。無からは何も生まれないように、何ものも無に帰すことはできない。

「死んだらただの物質になる」→その通りだけれど、それで何か特別なことを言っているようには思えない。生きているときから我々は物質だからだ。
けどおそらくそのことを言いたい訳ではないんだと思うんだもちろん。
生きていることはただの物質ではないんだから。

ならば死ぬということを科学的な物言いやろうどもはどういう風にいいたいのだと。
理解してみようと思った。


まず医学的な死の定義。

それは脳死。

じゃあ脳が死ぬということはどういうことか。

1. 深昏睡(JCS300またはGCS3)である。
2. 瞳孔固定 両側4mm以上。
3. 脳幹反射(対光反射、角膜反射、毛様体脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳嗽反射)の消失。→よって失明、鼓膜損傷などでこれらが施行できない場合は脳死判定はできない。眼球が損傷していると対光反射、鼓膜が損傷していると前庭反射(カロリック試験)の有無が判断できないためである。
4. 平坦脳波。(刺激を加えても最低4導出で30分以上平坦)
5. 自発呼吸の消失。(100%酸素で飽和したのち呼吸器を外し、動脈血中二酸化炭素分圧が60mmHg以上に上昇することを確認。脳に影響を与えるため、必ず最後に実施する。)  

  (wikipediaより)
 
というのを基準に
お医者さんが、「脳が死んでいる」と判断したときが脳死。つまり「死」
お医者さんが職業的プライドをかけて判断する。
たまに間違うときもあるらしく、そのまま臓器提供に移ってしまった、、、、なんて恐ろしいこともあるらしい。

と、やはり現代では脳が死ぬということが、人間が死ぬということになるらしい。

つまり法律上の約束にその判断はのっとっているはずなので、法律上でも医師が死と判断した瞬間に、人間の死が決定づけられることになっている。

お医者さんは、想像以上に重い立場にいるんだな。

科学的な死とは、脳死。


で、命、意識、魂。

これがすなわち「生きている」ことを表している言葉だけど、脳死が死なら、これらはやはり脳の中にあるんだろうか(脳の中に魂的なものがなければ、理論上、脳死=魂の死が成り立たない。そして科学ももちろん論理が支配する学問であるからそこからは逃れられない)

ここで冒頭の問いに返ると、

「死んだらただの物質になる」

ってのと問題がかぶってくる。

ただの物質と、ただの物質じゃない脳ってどこがどう違うんだろうか。

いまも、脳みその研究を汗水たらして研究している学者の人たちがたくさんいるだろうけど、未だに脳みそのどこに「魂」があるかはわかっていない。
わかっているのは、においを嗅いだら、ここの脳みその部分が反応する、だとか。
恐れを感じるとここが反応する、だとか。
脳みその、タンパク質と脂質の固まりの中に、これがまさに「命」の核心だ!と例えば心臓のように取り出して、僕らに見せてくれるようなところまでは至っていない。
そしておそらくそんなものは何年たっても見つからないと俺は思う。

命のコア。

それが脳にあるという法律、医学上の決まりとは裏腹に、命「そのもの」という、形状ある証明自体(この部分のタンパク質のかたまりが意識の部分です!というような)が、発見されたことは未だかつてない。
補足→こうこうこういう意識下ではこの脳の部分がこのように反応します。というのはよくある。けれどこれは俺たちがそもそも「生きている」という前提条件下での脳の反射行程を補足したにすぎない。
脳のこの部分が、命そのものを作り出しているのです。というような箇所のように表現されているとしたらそれは非科学的なインチキ脳科学である。そのレベルでものを言うのならば、心臓や、肝臓も同じように命を作り出しているということができてしまう=「脳に」魂があると、局所的には言えなくなる。

「死んだらただの物質になる」

というよく聞く科学的やろうの発言!

しかしながら生きているということが、どうただの物質じゃないのかは、どうもうまく言ってくれない。

代謝する(生命維持する)
自己複製できる(コピーをつくれる、子孫を残せる)
環境適応できる(周囲に合わせて変化できる)

コレあたりがいわゆる科学的な生きている生物の定義らしいが、誰かも言っていたけど、これじゃあ昨今のコンピューターも適合するんじゃないかと。
燃料さえあれば自ら発電機を動かしエネルギーを得て(→代謝する)、自分と同じ型を造るのなんて得意中の得意(→自己複製できる)、それに加えてプログラミングで自動アップデート(→環境適応できる)

この定義に照らし合わせれば俺のパソコンも頑張らせれば、数日は「生物」に変われるかもしれない。
見た目はいつものパソコンだとしても笑。

結局、言葉遊びでしかないんだ。
本質の核心を表してはいないから。

どう、生きていることは、「ただの物質」じゃないんだろう。

俺たちは、生きていても物質であるし、死んでも、腐敗しても、粉塵と化しても物質(元素)であることには変わりがない。
人間としての形が変わるだけで、構成元素は消えやしない。

もとから物質である我々が、「死んだらただの物質になる」ってのは、結局なんも言ってないのと同じなのじゃないか。

唯一深淵に転化できるとこがあるとしたら「ただの」という部分だろう。

「ただの」じゃない物質としての命。

これが結局分かんないうちは、いくら科学風にものを言っても「死」を定義することは陳腐にならざるをえない。

ただ、生きていること、それを脳の中の現象として局所的に捉えるのならば、電気的反応における『効果』という風に言うことでクリアさせようとしている考えがある。

これは一番俺は納得できた科学的な答えかもしれない。

詳しくはまた今度にしないと夜があける。

けれどね、それを認めるならば、まさにコンピューターも生きていることになってしまう、という考え方にもなってしまうんだ。
石も月もガラスも。
生きているって。

そっちの方がファンタジックですてきだとは思うがね。

俺たちの世界は想像以上にあやふやだよ。

よくリンゴに値段がついてるなって、思ったりするもん。

あれがなんなのかもよくわかっていないのに。

YES.effect/hozzy

きんこんかん。

金環日食ぎりぎり雲の隙間から見えた。

リングになってるのも見えた。

外でおばさんたちのはしゃぐ声が響いていた。

なんだか不思議な一体感。

鳥たちがざわついてた。

科学がなければ、確かに不気味な空だ。

人間の理性は勇気。

根拠に守られた勇気。

それを思い出した太陽ショー。

根拠のない勇気がもっと欲しい。

根拠のなさにしかパッションは存在しない。

ずるむけろ。りろん。

YES.ring/hozzy

夜行船。

千葉、水戸、札幌。

ありがとうございました!

移動日含めて5日間の行程だったけど、もっと長かったような詰った日々でした。

濃かった笑。

最近時間が経つのがやけに早く感じてたから、こんなたっぷりした幅のある時間がうれしい。

また少し時間空いて、ツアーは続いていきますんでよろしく!

しかし相変わらずうちのスタッフチームはユーモア半端ねえぜ。

思い出すと笑っちゃう。

YES.chabin/hozzy

ノイズウェイブ。

一昨日の日曜日の夕方、窓の向こうで誰かがつけているラジオの音が聞こえた。
微かにタバコの匂いがしたので、近所のおじさんが黄昏ながら聞いていたんだろう。
なんだかその雰囲気がとてもよかった笑。

ので、俺もひさびさラジオにスイッチを入れてきいていた。
なんかわくわくした。

車の中とかだとよくラジオを聞くんだけど、流し聞きってゆうか、やっぱ運転に集中気味だから、家でちゃんと聞くとまた違う雰囲気がある。
なによりテレビより過激な発言が多くておもしろい。
政治的な話も突っ込んだ感じで展開してて、濁さないでその話し手の意思を突き通してて、熱い。

おもえば、一人暮らしを始めたばっかのころはずっとラジオばっか聞いていたなと思い出した。

今でも、延々、気象情報を淡々と読み上げているだけ(バックミュージックもなし)の放送とか聞くととても落ち着く。
「北西に○○ヘクトパスカル、、、」とか渋い声で読み上げているやつ。
声だけなもんでノイズがまた目立つから、それがノスタルジックすぎてやべえんだよ。
なんか死んだじいちゃんを思い出す。

今日もずっとラジオをつけてた。

大竹まことが言いたい放題でよかでした。

明日からまたツアー再会します。

よろしく!

YES.radio/hozzy

白いオーラ。

夜中の静まり返った台所の、蛇口ひねった軋み、しゅわしゅわと泡立つコップの中、ごくごくと頭蓋に響く喉の音。
膀胱はもうすっきりし、半分眠ったままの視界。
なんという安心感的な瞬間なのだろう。と、また思ったのだった。
このような時間のポテンシャルは、相当深いものを秘めていると思っている。
不眠気味に、もしくは酩酊状態にでも陥っていなければ、ほぼ私は安定して幸せを感じることができる。
夜の台所に、ここだけは暗闇の刃が届かないぞ、という膜をおびたような空気感を感じる。

夜の冷蔵庫の音も好きだ。

しかし、

眠りなさい。
世界より深く眠りなさい。
空より深く眠りなさい。
目覚めるときに、起きなさい。

眠りは太陽、風、時間。
根源的に与えられている恵みの一個なんだと。

コップのしゅわしゅわ、ごくごく。
あの安心感を、びっちりと眠りに結びつけたいのだ。

深く眠るのって、実はすごい努力がいることなんだとわかってきた。
太陽や、風や、時間のように、少しでももっと知ろうと思えば、変われるのかもしれない。

ここ数年、眠りが浅いことがようやく自覚できるようになってきた。
眠りのトンネル工事。
掘って。
もっとずっと無の世界へ。

YES.tap/hozzy

破裂しなかった乾電池。

ゲームボーイのスイッチ入れたらまさかの電源ON。
こないだユウイチもたまたまゲームボーイ見っけてやってみたら懐かしかったって言っていた気がする。
小田原のライブ終わって実家帰った時、押し入れからでてきたもはやタイムカプセルみたいな古びたマシン。
カセットはゲームボーイウォーズが差さったままだった。
おそらくこれ中3か、高1くらいの時にプレイしていた気がするので、そんときぶりの通電のはずだ。
すげーな任天堂。ちゃんと点いた。
液晶はもちろん、バックライトなしの白黒。
真性の、ゲームボーイ初代型である。
目が悪くなるよこんなの笑。
よくやってたな。

けど、白黒なのに色を想像で補ってるのか、戦闘シーンやその背景となる舞台は、ただの白黒とは思えないテンションを私にくれた。
たぶん今やっても、わくわくできる気がする。

ゲームボーイウォーズ笑!

北海道行くフェリーの中でやってみようかな。
って、もうリュックサックの中に詰めといてるぜ!

戦闘だ。

YES.gameboy/hozzy

クリプトン。

元素周期表のかっこいいポスターが欲しくて、探していたんだけどなくて、
仕方がないので、昨日まで壁にニュートンって科学雑誌の付録のポスターを貼っていた。

いきなりまとまりない言動こいて申し訳ありません。

つまり、元素周期表にまず淡く魅せられて、そこからポスター的な物が欲しくなり、それを探したけどいい物が見つからなく、雑誌の付録で我慢して壁に貼っていた物を、昨日はがした、という一連の流れが、言明したかったことでした、、、。

原発の事故が起こるちょっと前くらいから、偶然にも(あの事故は偶然じゃ片付けられないけれども)元素になんか愛着が湧いていて(魚とかサンゴとか飼うと飼育過程で元素記号によく出会うのだ)周期表を学生の時ぐらいぶりに眺めてみたくなっていた。

そしたらセシウムとかヨウ素とかストロンチウムとか、嫌な方向からまたすぐに復習するはめになってしまってた。

元素記号が書かれたマグカップもなぜか机のはじに置いてある。
フラスコもビーカーも試験管もおもちゃの顕微鏡もある。
アルコールランプもある。
しかもちょこちょこ使ってる。
クラゲの餌のアルテミアを試験管で孵化させたり、フラスコに観葉植物を切ったやつを一時的に培養液に浸したり、ろうそくのかわりにランプをつけてその火の中にぼーっとから回る空想を映してみたり、、、、、。
まるで化学マニアのようだな。
実験とかガチで開始したら、猛毒ガスとか出て普通に死んだりしそうなので(俺そういうのでコロッと死にそうな自信あり)、やめといてます。

ちなみに何度も書いてるんですが、俺は科学は好きじゃないんだ。

世界を理解する一個の方法として利用するだけである。
なんて偉そうに申すことにしているのである。
物の見方の一個である。
思考が限定的になるのが嫌だ。
けど元素周期表は好きなんだ。
なんかあの文字の羅列にそそられる。
あと記号とその物質の繋げ方の、その感触が、間にあるリンクの仕方の立ち位置っていうか、うまく言えないんだけど、なんか詩みたいでその存在感がたまらん。

そんな好きな周期表も、もう剥がすことにした。

そろそろ壁が微妙に日に焼けて、跡が残りそうで嫌だからだ。

日差しも強くなるし、本気でポスターに飽きた時そこだけ豆腐みたいな白い跡が浮かんでたら、曲作りに影響してくるし。

テンションさがっちゃうし。

つーことでまた、時間空けて冬頃に貼ることにしようと思う。

おやすみネウトン。

YES. Mendeleev/hozzy