藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

つれづれなるまんま。

26歳になった。
もう25年間も生きている。凄いことです。
これが原始時代だったら、もうかなりいい年になっているんじゃないか。
その日暮らしの栄養失調状態は寿命を極端に短くするらしい。
もう狩りは引退している頃かもしれない。
いや、むしろとっくに15歳ぐらいでサーベルタイガーに食べられていたかもしれない。
そしたら俺はサーベルタイガーの一部になって10年間生きたのが今日に値する。
いやいや、サーベルタイガーも厳しいジャングルではそんな長生きはできないだろうから、俺を食べた5年後には巨大ワニに飲み込まれてしまっただろう。そのワニも3年後には頭を流木にぶつけてピラニアの餌になる。ピラニアから先の2年間はもう後を追う事はできない。あまりにも細かすぎて。あるものはナマズにのみこまれ、あるものは死んで水に還り、あるものは恐竜に似た怪鳥に空からすくい上げられて糞になる。俺はジャングル中に散って、生命の豊かさにまた加わっていく。

つまり俺が現代で生きた25年間は、原始時代の『人間+サーベルタイガー+ワニ+ピラニア+ジャングル中』に当たる。めっちゃラフに妄想してみると。

今日はちょうどいい区切りなのでブルーハーツでも聴きながら、中学生の頃の事を思い出していたら、なんで俺が蟻じゃなかったんだろう、なんで犬じゃ、樹じゃ、ゴキブリじゃ、むしろ無生物じゃなかったのか、ってまたぐわーんと感覚が遠ざかっていくような、世界を端から眺めているような気分になって、原始時代を想像してみた。貧弱な妄想しか結局できなかったけれど笑。

中学生、14歳になったばかりの6月27日に、一体何をしていたのかは全然覚えていないけど、間違いなくその頃から、スーパー強烈に、生きてることが不思議で不思議でしょうがなくなった。今も恐ろしいほど奇妙におもう。特に今日みたいな日は。

25年間「生きた」って、一体どういうことだ。
生きるってどういうことなんだ笑。
すっげー当たり前すぎて、よくいう言葉だけど、まだ全然見えないんだよこれ。
生きること。命。

「食べ物を摂取して、炭水化物、脂質、タンパク質、などなどを分解吸収し、生命活動を維持する事である」
「生殖行為により子宮に精子が到達し、卵子に接触した結果、細胞分裂を始めることである」
「宇宙が137億年前にビッグバンで始まり、その91億年後に我らの星、地球が誕生した。我々の命の起源はそこである。」

命や生きることをこんな風に言った所で寒いだけですし、今の時代誰もこんなことで納得しやしません。みんなが知りたいのはこんなことじゃない。

そもそも、炭水化物がどうとか、生殖行為がどうとか、ビッグバンがどうとかのことが原因になって、俺たちが今ここに生きているわけじゃない。むしろ逆です。
俺たちが既にして生きているから、炭水化物、生殖行為、ビッグバン云々を「理解」して自分の始まりのきっかけを「想定する」ことができる。
俺が俺として、この世界を生きているからこそ、ビッグバン云々の話ができる。
生きていることが先であって、その逆ではない。
俺はどこからやってきた?君は?
父母の精子と卵子からなぜ、君ではなく、この「俺」が誕生したのか。
君の父母からなぜ、俺ではなく、「君」が生まれたのか。
要はこのことが「生きる」ことに直結する重要な問題だと思う。
俺は俺を背負ってこそ「生きる」ということが可能だから。

それは偶然か?それとも運命か?

どっちにしろ俺たちがそもそも生きていなければ、「炭水化物」なんてなんの意味も無い。何も知らない子供が学校で「炭水化物」を習った日から、ジャガイモはちょっと色彩を変える。炭水化物が彼を生かしていたんじゃない。彼が彼として生きているからこそ、「炭水化物」を彼の中に誕生させることができたんです。

科学は「個人の謎」に対して無力です。
そもそもが、そんな学問じゃないからなんだけど笑。
大勢に共通の法則は取り出せても、一つに対する根っこ部分は放っておくしか無い。
科学が最近ではもう、辛くなっている感じがあるのはここにあるんじゃないかな。
本当に痒い所には届かない、ぎりぎり短い孫の手な感じ。
効いてんだか効いてないんだかよくわからない、サプリメントみたいな感じ。
便利でもっともらしいんだけど、なんか寂しい、昔から。
だからって、俺が感じる不思議は宗教的なものでもない。
その宗教も、俺たちが生きていなければ、知る事さえできないんだから。
それに神様に生きる事を預ける宗教ってのも本当の所にはもう届かない気がする。
いわゆる宗教に対する不思議な疑問はたくさんあるので今度改めて考えてみたいです。

じゃあ、生きることってのはもっと具体的に何なのか。

俺の今の結論としては「口をつぐめばよい」

感じるのみ。

結局これか笑。

それをあえて言葉で言ってしまうと、

「考えなければ考えないほど具体的になっていくこと」
「感覚の表面でぶるぶるしてる、一瞬一瞬にうねっている新鮮なビリビリ」
「胸の奥に沸き上がっている不透明で力強いしゅぼーんってやつ」
「これこれ!としかいえないこれ」

自分で書いててわかりづれー笑。

頭で理解する、つまり言葉に置き換えて理解することはできないけれど、俺は現になぜだか生きていて、生きている事を骨の髄まで経験して知っている。なんとなくだけど、強く感じている。そのなんとなくを超える言葉が今の所ない。言葉にして説明しようとするとボロがでる。
だけど感じたままでいれば、そこに、ちゃんと収まっている。
生きていることが生きている。

これが、髪の毛が逆立つほどぶるっとくるんだよ。
なんで、死んでんじゃなくて、生きてんだよ笑。
すげーんだよこれまじ。
不思議すぎ。

ちびくろさんぼのトラみたいにいつかこの謎がぐるぐるまわってバターのように溶けてしまえばいいのにと思います。

お祝いの言葉ありがとうございます。
今日は、しんみりと、色んな思い出に耽りたいです笑。

YES.rokudenashi/hozzy

理由。

ちょっと驚いて、話を進めて行くうちにその事に深く納得してしまった昨日の出来事。
ごく近しい人に言われた言葉。

「hozzyが哲学みたいな事やってる理由がやっとわかった」

やっとわかったって、今までわかってなかったんかい笑。

と、俺は少々ガーンとしたのだけれども、よくよく話を聞いてみると、「なるほど、そういう風にとらえられて映っていたのか」と、何だかやけに納得してしまったのでした。

冒頭から、方向定まらぬ文章の書き方をお許しください。
まさにこんな感じで、少しばかり混乱したのです。

フォレストーンに関する所、色々な場所で哲学の話が話題になりました。
「今回はやけに哲学的な感じが強いですね」とか、
「おおげさに言うと、かなり哲学的な歌詞ですね」とか、
「なんでこんな事を歌詞にしているんですか」とか、
「意味がわからないです」とか、
「昔から、実は変わりませんよね」とか、
たくさんの話を色々な方々と重ねてきました。

謙遜するでも誇張するでもなく、フォレストーンはぴとんっと「哲学」に触れているアルバムだと思います(勿論それだけではありません)。
ここでへりくだって「哲学なんて、そんな、滅相もございません」なんて言ったって本当じゃないし。

で、さっきからさんざんでてくるこの「哲学」ってのは、つまる所なんなんだよ、というところなんだけども。

端的に言えば、世界への「視点を変える」こと。

俺個人の解釈で言ってしまえば、哲学は究極の人間ドラマであり、哲学者が組み立てるものは明らかに芸術の形の一種だと思っています(絵や音楽や詩等と並ぶもの)。

音楽や詩に感動するのと同じくらい、哲学に生命が飛び散ります。

で、俺が言われてびっくりしたのは「哲学って、何でも言葉にしようとする、堅苦しい理論に当てはめようとする、感覚とは正反対のものだと思ってた」と言われたこと。

ノーン笑!

違うよ、違うよ、その反対です。

むしろ哲学に求められるのは、普通にしてたら言葉や理論じゃ追いつかないような真っ暗闇な領域を(そもそもにして、普通には気づかないような当たり前な現実の中のひび割れを)、どうにかして言葉と理論を使って(絵や詩と同じように、独創的な方法で)、照らし出して浮き彫りにしようとすること。
哲学者には並外れた感性と、それを可能にする超人的な努力がなければならない。ただの「石頭」には哲学はできません。
俺はそんな哲学者たちの恩恵に少しずつあやかっているだけです。


言葉にできない、世界にまで到達できない、胸の奥で止まってしまっている「この感じ」としか言えない、もどかしいながらも、逆に言えば自分にだけは純粋なもの、自分を自分にしているこの感覚、感情、その正当性を守るための努力でもあるし、または気がつけば世界に放り込まれて、当たり前のように生きてしまっている現実、この命の頼りなさ、不安や絶望に、生きる指標を与えるものであったり、と哲学は、超おおまかに言ってしまえばそんなものだと言える。

おおまかに、だなんて本職の人に聞かれたら怒られてしまうな笑、すいません。
まだまだ超勉強不足なので、本当はこんなこと語れないんですけどね。


こないだもラジオで「なんで音楽なんかやっているんですか?」と聞かれて、
「???」となってしまって、もしかしたら哲学と音楽が、もの凄いかけ離れたもの(理論的なものと感性的なもの)として捉えられていたんじゃないのかな(どちらも本質は感性的なものだと俺は思っています)とも思って、ここに書きました。

哲学は、既成の理論の先を目指す、理論を使った感性的なものです(こういうと、すげーわかりづらくなりますね)。

哲学者たちは、その多くが芸術批評なんかもよくやっているので、じつは、彼らほど感性に鋭い人たちもいないのです。

俺の憧れの大人たちです。

もっとしっかり勉強します。

YES.philosophy/hozzy      

世界に打ち抜かれた、その瞬間、

俺の「自我」は、解体されそうになった。

仙台のあるラジオ局の控え室にて、椅子の上、腰掛けていた数秒のあいだ。

「自我」とは、「俺」のことであります。
佐々木健太であり、hozzyであるこの、俺。

狂った発言でしょうか。
いやいや、私は正常です。
ただただ真面目です。


つーっ、と部屋と俺が溶け込んで肉迫する。
恐れと、不気味なほどの歓喜に波打つ。
視界は意味をなくし、意味を超える。
俺は俺を失い、一つになる。


がちゃ。


ドアが開いて、スタッフの松下さんが現れて、世界の統一感が戻る。

思わず笑う。

「西田幾多郎は危険だ」

一昨日にユウイチ越しに聞いた、ある人の言葉の意味がわかった。

危険かも。

心がばらばらになっちゃうかも。


ぎゃー。


しかし、その危険は、「何に対して」危険か。

社会?生活?日常?精神?

社会も、生活も、日常も、精神も、
ほんとうの所、俺には、既にして、現実感がなく、はりぼてに感じる。

つかみ所がなく、虚ろだ。

これは、然すると、精神病者の典型であると、知識のある人は言うかもしれない。

ところが俺は、自分が精神を「病んでいる」とは全く思っていない。

しかし、それこそが、「病んでいるのだ」と言われるかもしれない。

俺には、全くそうは、思えない。


ならば、どっちが、正しいのか。


そんな基準は、この次元では、結局の所、どこにも、無いのだ。



俺が、病院に行ったら、「病んでいる」

行かなかったら、「病んでいる」 とは、勿論、診断されない(そんなこと、誰にだって言われる筋合いはない)。


俺は、病院になどは、決して行かない(誰かに、行くな、と言っているわけでは勿論ありません)


自分で、この「膜」と対決し(自分は何かに詰まっている)、制圧して、「病」と呼ばれる機械的な領域があるならばそれを超えて、血のちゃんと通った世界を生きたい。


俺の生に、他人の、強制的判断は不要である。


そもそもにして、この世界は狂っているのだから(そうとしか思えない)、
まともに、生きようとすればするほど困難です。

日に日に実感する。


東北の空気は、やっぱり俺にはぐっとくるみたい。
みなさん、ありがとうございました。

YES.ihatobu/hozzy

狂気。

最近、各地キャンペーンを回らせていただいて、ようやく一息、自宅に帰ってきました。

飛行機、新幹線、タクシー、電車、ありとある乗り物にここ一週間乗っけていただきまして、当分乗り物は結構ですという感じなんですが笑、
それはただ単に体が疲れるからとかいうんじゃなくて、なんていうか、そういう場所だと奇妙な人々からあまり距離をとれなくなって「うむ」となるからなんです(一緒に回ってくれてるスタッフの方々のことではないですよ笑。vapの皆様今回も色々とありがとうございました)

奇妙な人、というとなんか偏見差別的な意味合いが含まれているように響いてしまうかも知れないですが、この奇妙な人から見たら、俺も「奇妙な人」に見えるんだろうなという関係にあたる人たちのことを言いたいのです。

例えば、
電車で、携帯の着信音をピリピリならして、余裕顔で会話しているオジさん。
死ぬほど愛想が悪くてもの凄くスピードをつけながら道路を駆け抜けるタクシー運転手のオジさん。
スポーツ新聞に靴下ビールで、喉の奥の方から「ぐぁーーーー!」とかタンを鳴らしてる新幹線のおじさん。
俺、客なのに、いきなりため口で喋ってくる、店員のおじさん。

いわゆる、おっさんという人々。

なんだかだんだん、ある一定のおっさんの生態系が狂ってる風に見えてるのは俺だけなのでしょうか。
勿論俺も普段イライラすることはありますし、場違いな行動をどかんと起こす不完全な人間ですが、それにしたって、奇妙に見えて仕方が無いことが多い。

同時に、彼らからしたら、俺も奇妙に映るのか、よくすげー目で睨まれたり、背中にぶつぶつ文句を呟かれたりもします。

「ぶっ殺してやる、ぜってーぶっ殺してやる」

って言いながら、つり革にぶらぶらしてるサラリーマン風のおっさんに鳥肌がたったことも事実あります。



なんか、こういうのってどっかで聞いた事ありませんか?

『すげー目で睨む、携帯をぴろぴろ、ぶっ殺してやる』


テレビに映ってる評論家風のおっさんたちがよくいう若者像の象徴でしょ。

先生、おっさんたちも十分変です!

って、まあ、若者も凶暴な人は凶暴ですけどね(逆に、おじさんにも良いおじさんはたくさんいる)笑。
要は人間の凶暴性は年齢に振り分けられないってことだと思うのです。
場違いな奴は場違いな奴だし、倫理的な人は倫理的な人だし。
おとなも子供もあまり関係なく、そういう人はそういう人ってこと。

で、そうなると、勿論、責任問題は大人の皆様の方に降り掛かるはずだと思うのですが(なんといっても大人は大人ですからね)、どうもそうじゃない現状、世の中、すっげー大人寄りで、くっそアンフェア。
大抵、「理解できない」「非常識」だと言われるのは若者たちのほうです。そもそも「非常識」を唱える前に大人たちは「常識」とは何かを、その「常識の性質」からして考えたことが一度でもあったのでしょうか。常識ってどうやってできているのか。求めるならば提示しなければならない。その常識とは何なのだ?なぜそれが常識になっているのだ?そもそもあなたが理解している世界像はどんな世界像なのか。
きっと大抵の大人にもはっきりとはわかってはいないはずです。

単純に、大人はずるいなあ、って今になってすっごく思うのですよ。
だってね、子供は子供であるが故に、もちろん青少年少女もですよ、はっきり言って、言葉を持たぬのよ。
あまりある、鋭い感受性がそこにあって、ほとんどの人が、言葉なんかよりもその感覚に、生命力を燃やしている(大人の誰もが昔はそうだったように)。
そして、それが、大人になったら二度と戻らない絶対能力であって、何にも代え難い輝きを放っている。
俺も、また、リアルに高校時代を体感したいもの笑(残念ながら、日々、その記憶は死んでいき、俺もおっさんになっている。いやだん)。
そんな子供たちが、弁が立つ大人にかなう訳が無い。何を言っても言いくるめられて終わり、です(俺もそうだった)。
そんな、青少年少女に向って、「若者の凶暴性は年々、うんぬん、、、、げああああっぺ(タン」)って偉そうに吐きやがる、どこぞの大学教授やら評論家やら、社会学者やら、全く持って弱いものイジメしつつ、なんて感性に乏しく、なんて客観性(本当の意味での)に欠如し、ある意味全体主義ですよ、「大人のためのファシズム」。
狂った犯罪は大人もたっぷりしでかしてるヨ。それこそ歴史的にいって、大昔からずっと、ね。
残酷さは昔の方が実は強烈だったりもする。


ていうかそもそもなんでこんな事書いているかって言うと、

俺ね、帰ってくる時に本屋に寄ったのですが、そこでまたこんな本を見つけてしまったのです。

「他人を見下す若者たち」   

ほう、っと思って手に取ってみたら、これがまたすごくてね。
おもわず買って半分読んでむかついて色々考えさせられて、で、今に至るのです笑。

すげー反面教師的な性格を備えた本だなっと思います。
端的に言って、びっくりするくらい酷い。
俺はあまり他人が作ったものに対してこうやって公に批判を浴びせることはしたくはないのですが、これは、なんだか我慢がならなかった(720円もしたし笑、買うなってのね)

しかも、この著者、大学の教授です。しかも教育心理学が専門の人らしいのです。すごいよねほんと。
むかつきたい人は、読んでみてください。

YES,vap!/hozzy

ひとつでないひとつ。

ガムが俺になっていた。
そのツルっとした緑の粒を噛み始めた瞬間、
見開く空気にくしゃみを打ち、
あいかわらずなんて変な食い物なんなんだと
ガムを妙におかしく思ったのもつかの間、
舌がおいしくなって
さて、曲でも作るか、とギターを弾きだした時には
俺はガムになっていた。

しばし時が流れる。

ガムが再びガムに戻ったのは、俺の口がまずくなってから。
ギター置いて、背伸びをして、
げっぷがでそうででない、たるい後味に、おえっ、てなった後
「ぺっ」って、
それを銀紙に包むと、やっとそれはガムに戻り、
この俺ではなくなったのでした。

ガムをひたすら噛んでる時、俺はガムを「噛んで」はいない。
俺とガムはただ、一つになっている。

吐きだしたときに、やっとガム噛んでいた事、思い出したのでした。




「ひとつ」なんて言葉にもする前の、純粋なひとつ。

ガム噛んでるときのガムと俺の一体感。

0.1センチもずれることなく、

唯の、素っ裸の、すきまのない、いったい感。


そんな風に生きていたい(なんて難しいことなんだろ)。

活きたい。

行きたい。

そして充足のうちに

逝きたい(イクって響きは色んな意味の言葉をもっているのね。ちなみにオルガズムのイクはどの「いく」なんだろう。英語のカミングに対してやっぱ「行く」なんでしょうかね。ってか真面目に提案することじゃないのかしら)。



今日は久々に午後の光を、

「ちゃんと」

見た気がした。

「見る」前に感じた気がした。

単純に感動したのでした。

YES.pm1523/hozzy

見えないもの、俺たちは見ているのに。

俺、なんでhozzyって自分で改名したのか今日のリハの帰り道に解った。
俺、自分と対話したいの。
真剣に話し合いたいの(ヤバめですか?)。
私、「佐々木健太」っていう者ですが、「佐々木健太」でいたら、佐々木健太がわからんの。

俺たちは自分に名前を持っている。
それって、なんでなのよ。
この「俺」を解りやすくするため?
人に解ってもらいやすくするため?

俺は、佐々木健太である。
しかしながら、佐々木健太は平凡な名前のため、日本の至る所に存在する。
しかし、俺は、ここに、俺、として存在する。
佐々木健太には集約しきれない、「俺」の現実がある。

俺は、「佐々木健太」ではない。
俺は、ここにいる「俺」だ。

同様に、君は、名前を超えた存在だ。

hozzyって、別にhozzyじゃなくてもよかったの。
なんだってよかった。
ただなんとなく、hozzy、にした。

作詞作曲の記述はずっと、「佐々木健太」です、俺の場合ね。
なのに歌う俺、ギター弾く俺はhozzyです。
これは、俺(実は「俺」も日本中にたくさんいる笑。タクロウも「俺」というし、小島よしおも「俺」という。だから、言葉じゃ言い表せない「この、俺」のことを仮に「根っこの人」と呼ぶ)が根本的なところで何を見ているのかを、少しでも明確に感じたいから、こんなふざけた「hozzy」なんて形をとっているのは、その根っこの人がこっちのほうに問題をひり込んでくるから、なのかなと思った。今日、リハの帰り道に、その「根っこのひと」がちょっとはみでてきた。

俺は、中学生の頃から、一歩も進歩していない笑。

わからん、俺が「誰」なのか(真剣です)。

「先生!僕は誰なんでしょうか?」
「あなたは佐々木君でしょ?」
「そうじゃなくて、僕は、一体なんなでしょうか?」
「佐々木君、あなたは佐々木君よ」
「そうじゃないのです。佐々木である前に、僕は、生きているひとつとして、僕は存在しています、僕は何なのですか?」
「やめてよ、ほら、あなたは佐々木君でしょ」
「先生、、、、、、。」

伝わらないのです。
規律にそった教育では、そもそもの、根本的な謎は、開示される術がない。表面的なうわっつらだけの知識が、馬鹿みたいに、うすっぺらに「教育」によって増えていく。これのせいで、余計に本質は見えにくくなってゆく。子供は、大人たちの犠牲者だ。かわいそうだ。

俺がhozzyと自分を指したのは、この、しがらみから抜け出すためだったんだと思った。
佐々木健太で居る限り、佐々木健太である俺自身の存在がわからない。近すぎる故に、見えない。
俺はそもそもhozzyでもなく、佐々木健太でもない。
俺はそんな言葉を超えた何者かである。
同様に、あなたも、あなたの名前を超えた何者かである。

俺、俺、俺ばっかりですいません。
けれどここから始めないといけないのです。

優しさとか、善悪とか、道徳的な事って、自分に立ち返ることができて初めてちゃんとわかる気がする。外にいくら求めてもあやふやもやもやよ。

そんなことを思った。さっき。

YES,unko/hozzy

膜の中にいる感じ。

春がやって参りました。
くしゃみがとまんねー。「アレルギー」って言葉をみるだけで余計にかゆくなる。
「くそ花粉の野郎どもが、麗しき春のぬくもりを、ねちゃねちゃに濁しおってからに、、、」なんて思いたくなるし、「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」なんて嫌な事も鼻水でぐちゃぐちゃになってくるとつい思ってしまうものですが、そもそも別に花粉はなんも悪くないのですね。
こっちです、悪いのはこの私のイカレ体内器官なわけで、花粉は自然界の生命活動の一環、実に正常なサイクルの一部でしかなく、全う過ぎる位まっとう、俺がこんな正論を吐ける位にまっとうである。

俺の体はいつ頃からか狂い始めて、なんだかわからんが、花粉という大自然を拒否してしまうようになってしまった。いったいどうしたわが体よ笑。
辛いですよね、自然を拒否してしまうってのは。こっちで拒否した瞬間、自然にとってもこちらは異物。まるで自然からはじき出されてもうその一部ではいられない感じです。

アレルギーって、要は過剰反応のことですよね。医者じゃないので詳しいことはよくわからないのですが、普通なら自分にとって敵にならないような無害な相手に極度に攻撃をしかける行為のようです。花粉なんて毒でもなんでもないし、むしろ某ハン○ーガー店の品物の方がひどい毒性をもっている感がありますし、なんでアレルギーの原因の一つが杉なんだとひどく理不尽な感じのイメージがあります。

鼻がまた花粉を吸い込んだみたい。くしゃみ、はなみず。勝手にでてくる。人間ってすげえ。

で、攻撃するってことはそこが平和ではなくなって戦場になるから、結果として交戦後の荒廃した市街のように俺たちの身体上に炎症とか発熱とかになって後からそのツケが表れてくる。喘息やアトピーもアレルギーの一種で、アトピーは軽く、喘息はひどく、患っていた時期がありました。思えば俺はアレルギー症状を以外と抱え込んでいるな笑。喘息はひどかった。生き地獄。患っている方はよくお分かりになっていただけると思います。

杉の花粉さんたち。まさか彼らもこんなに我ら人間たちを苦しめているなんて思ってもないでしょう。ただ命を繋ごうとしているのね。
仮に俺たちを苦しめたくて飛ばしているとしても、なんとなくその理由が直観的に理解されてしまう。俺らひどいですもの、周りの生き物に対して。

杉が生き物であるということの前に、俺らは、俺らの人間的な視点で、彼らを「スギ」として平面化している。
杉は「スギ」である前に、一個の生命、こんなの子供でも直観でわかってる。けれど、私らより逆に子供の方がわかってる節もある。

「杉は生きていますか?」
「生きています!」
「生き物を無闇に殺したらどうですか?」
「いけないと思います!」
「なぜですか?」
「私たちと同じで生きているからです!」

大人に成った俺。今でも、子供と同じ考えに立つにはどうしたらいいんだろうか。

杉は「スギ」である前に、一個の生命。

これをもうちょっと押し進めて、スギの事を考えてみるのが大人の立場としての行動だと、勝手に思いつつ考えてみる。

杉とは、もうなんやかんや前にも書いてきましたが、ここ最近だと随分負のイメージに浸されている。実際、俺は花粉症にひどくいらだっています。やつらが消えれば、あの素晴らしき優しい春がまた俺の心に燦然と降り注いでくるし。蝶々も涙でぼやけず、軽やかなのその羽ばたきの無規則さをしっかり眺める事ができる。なのに春は今ではすっかり不安な季節です(喉もアレルギーで荒れるし)。
杉ってなんて忌々しいんだ。って実際問題相当忌々しいです。生活が楽しくなくなるし(毎日風邪みたいな感じ)。
そんな状態でみる「すぎ」は敵でしかありません。どうにかして花粉を吸い込まないようにマスクをして、部屋は常に空気清浄機を回して、点眼剤は常にポケットに携帯して、、、。
もう面倒くさいことこの上ない。「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」まさにそんな気分にしかならん。けれど、

杉は一個の生命。

この立地点でみることができるから、またなんだか複雑なわけで。あからさまに杉を批判するのもなんか申し訳ない気がするのです。

「杉は杉。されど“杉”ではない」
また面倒くさい方向に流れようとしている私hozzyのそっち側行きたがり症候群、笑。
まあ、聞いておくんなさい。ここに座ってゆっくりしていきなさいな笑。

杉って、俺たち日本人が呼んでいる言葉ですよね。英語だとJapanese?Cedarと呼ぶみたいです。この英語から見るとどうやら日本によく生えてる木のようですな。

杉。

人間、とりわけ俺たち日本人は、針葉樹の、細長い、幹が少し赤みがかった、全体的に三角形の木、見れば誰もが解る明確さで、その葉が濃い緑色の木のことを「杉」と呼びます(こんな書き方すると逆に杉がなんなんだか解らなくなってくる笑。説明なんてしなくても杉は杉として俺たちにはよくそのイメージがわかっている、これすげえ)。

誰もが杉をみれば杉って解るくらいに、杉は明確な形で俺らに見えている。
じゃあ、山にいる山鳩がスギをみたらどうか。
山鳩からみたら、俺たちが杉と呼んでいる木を、勿論「杉」とは呼ばないし、花粉症を発症させる負のイメージとしては見ない。
鳥にはそもそも言語がないのだし(当たり前やん)、もし彼らに言語があるとしても、人間の俺たちには何を喋っているのかはわからないし、鳥が花粉症になったらそれこそ重大な環境問題になってしまいます笑。
けれど、山鳩にはその木が彼らのシステムの中で、生きる環境の中で、あるポジションを占めているのは事実で、彼らにとって杉は人間的な「スギ」ではなくても、自分たちの環境に利用できる生きるための「素材」として見えている(例えば体を休める休憩所として)と、イメージできます。
この山鳩の視点に立ったときに、俺たちの「スギ」っていうイメージはかなり一カ所的なものの見方でしかないと、当然、言えます。
山鳩に限らず、てんとう虫でも、もぐらでも、寄生虫でも、それぞれの立場になったら、それこそ俺たちの立場は大多数の中の一つにしかならない。
いやいや、人間は、そんな生き物たちの何よりも勝って高等で真理に近く、それを追求するものであるがために、もぐらなんかと同じにされたらたまらんよ(その気持ちも非常によくわかる。俺ももぐらと一緒はなんか嫌だし笑)となっても、事実、命をもつもの、生命体というラインにたった時には、俺たちはみんな平等におんなじラインに並んでいる。
そう考えるのが逆に理性的な人間の公正な考え方だと思う。
「人間がナンバー1!」って俺たちが思っていても、モグラにとっては「モグラ(自分)がナンバー1」(俺たちみたいな思考方法では考えないだろうけど)って思っているだろうし、実際、生き物の形を俺たちなんかより必至に生きているエネルギーは感じる。

俺たちはみんな生命と言う同じラインに立っている(子供でも知っている)。おれたちはどんなに頭が良くても、宇宙にまでロケットを飛ばすアグレシヴな性質を持っているとしても、生きている、命を持っているというラインに立ったら、スギもてんとう虫も人間も全く同じ地平に立っている。モグラの気持ちが俺らには解らないように、モグラには俺たち人間の気持ちなどわからない。それは俺たちが脳が発達した高等な生き物である、という浅薄でつまらんせまっくるしい自己欺瞞から生まれてくるモグラを見下した考え方ではなく、モグラも俺らも、生体構造が違うだけで、命をもっているという至上、生きているという条件においては全く持て一緒であるということ。モグラももしかしたら俺たちからは愚鈍に見えているけれど、おそろしく理知的な性質を持っているかもしれない。それはモグラではない俺たちの思考回路からは決してわからない事柄だけれど。

つーわけで杉を「スギ」と呼んで、その言葉に負のイメージ喚起するのはとりわけ我ら人間の日本人の花粉症者に限られているわけで、全世界の他の生命たちにとったら全く別のイメージに映っているだろうこの木は、そもそも自分で「私のことスギと呼んでください!」とも言わず、「げはははは、死ねー人間どもー」なんて悪意を持っているわけでもなく、ただ生きているだけであります。
杉を「スギ」と何気なく呼ぶ事で、同時にそれは彼らの存在を僕らの意識に引き込んで、平面化している。
腹減ったトラが人間とウサギを全く同じ餌としてみるように、俺らは言葉でスギやモグラを同じように殺して心に映している。実際に殺す訳ではありません。かれらの命も死にません。けれど彼らは俺たちの言葉によって死んでしまうのです。
スギは自分のことを「スギ」だなんて一言も言ってないし思ってない、ただ生きている。この「ただ生きている」が、俺たちの言葉にかかると消えてしまう。なんとなく伝わりますか?

杉は杉。されど“杉”ではなく、その言葉の奥がわに生きている、そもそもとして、一個の生命だあああああ。
むずむずするぜ。

なんでこんな話になったんだ笑。杉から言葉へとなんて、まるでニューシングルの宣伝みたいじゃないか笑。
「言葉の森」
とても良い曲ですので、ぜひ皆様聴いてみてください。
そして長々、正義ぶったことを書いてきたのですが、随分と鼻水頭痛がひどくなってきた現在、やはり「杉など燃やしてしまえ」と思ってしまうのは、俺がどうしようもない人間だからでしょうか笑。

杉の生命に敬意を表す事で、なんとか春を乗り越えたい今です。

YES.cedar/hozzy

氷と水蒸気、結局「水」として同じってのがいかつい。

水面に揺らめく光に、匂いはない。
けど、その光のようなもの、鼻をひくひくさせても匂いを嗅ぎ取れるはずもなく、青臭い生き物の匂いがするだけ、ですが、徒歩10分の釣り堀にては、水の光は目よりも鼻にくる感じがするのですが、そんなの勘違いかも。けど鼻にくるんです。

夕方が夜になる瞬間、そんなもん生まれてこのかた見た事がない。
気がつけばいつも夜で、気がつけば夕方はすっかりあしたに退散してる。
ここ何日かじっと日が沈むあっちの方を、それこそ目が潰れんばかりに、熟視していたのですが、見れば見るほど夜と夕方の境目が分らない。目がかすむし、ヒンヤリしたらもう夜です。

冬→春は、くしゃみがでたらわかります。まだ冬です。暖かくてもだまされません。冬はまだ終わらない。

ベランダから見えるゴミ処理場の煙突は、真夜中になっても、雪が降っても、処理物を処理してるっぽいもくもくをすぱーとだしていますが、この吐き出し方が実にトロトロしていて静かです。日によっては笑ってしまいます。煙突が優しい。夕方は特に。冬は特に。雪の日はアガペー。

月をなぜ月と言うのか。ツキ。わからないからいいのかもしれない、と最近思うようになりました。「月光」よりも「月の光」の方が、イメージとして透明さが増して感じられるような気がするのは、俺だけなのか、他にも思う人がいるのか、もっと一般的にそう思うのか、わからないけれどなんか「月の光」っていいですよね。「月」って響きが羨ましい。hozzyってなんで、なんでアルファベットやねーん!!佐々木健太っていう本名です私。そろそろ名前変えようかな。そもそも名前ってなんなんだい。記号かい。精神かい。愛情かい。それとももっと空気を震わせるようなエネルギーの一種かい。わからん。
つーかムーン。って変な響き。月は月ですよ。日本人の俺にとって。lunoってエスペラント語のは好きですけれども。

あーあーあーあー。おもしろいことをたくさんやりたい。
おもしろいこととつまらないことをちゃんとわけれるひとになりたい。
うんこ食ってうんこしたくない。
糞食っても糞は出るし、みかん食っても糞は出る。
ならばですよ、ならば、うまいもんで糞した方が、ストレスなく、というか、食い物をちゃんと食わねば、我ら人間は、病気になってしまう。倒れる。痛む。苦しむ。死にたくなる。自殺。終わり。嫌ですよそんな、誰だってねえ。嫌だ。
それは一つの方法ではあるけれど、終わりを自ら選ぶのは決して、美しくはないです。
切腹の美、武士道的な日本的な死の美、ここに憧れを持つ人ならば、どうぞ結構、死を生として爆発させて、生を究極的にまで拡張して生ききってください。
三島由紀夫(作家)が切腹した心情を俺は決して理解することができない。彼のファンとしてする必要はあるのかもしれませんが、したくはない。
一体何の話?

洗濯をするとき、洗剤を、まず始めに浴槽の下の方にいれますか?それとも洗濯物の上から洗剤をかけるように溶かし込みますか?

人間はなんて感性的な生き物なんだろう。

YES.humo/hozzy

でろろーん。

今日、下北沢のモザイクに友達のライブを見に行きました。
ライブを見ていた時に、何故か色んな思い出が湧き出てきました。
藤森がモヒカンだった姿とか、ユウイチが作務衣を着ていた姿だとか。
下北沢は藍坊主にとって、とても特別な場所です。
この場所に育てられたと言ってもいいくらいです。特に屋根裏にはお世話になりました。内田さん(当時の店長、現渋谷クロールの頭取)の笑顔が鮮明に浮かんできます。
下北沢はすてきな場所ですな。
歩いているだけで酔ってくるよ。
とっても良い飲み屋がたくさんあって、帰るのが億劫になる。
ガディス(空を作りたくなかったの写真を撮った所)にいこうと思ったんだけど、定休日で閉まっていた笑。残念。このお店はとてもおすすめです。お茶もおいしいいです。

藤森と初めて会ったとき、高校生の頃でした。
ムースでパリパリに固めた短髪で、最高な笑顔で俺に語りかけてくれました(目だけは笑っていなかった)
藤森の高校の文化祭に行ってなんとなく初めて会話をしました。

その後、小田原のシャノアールと言う喫茶店にて、初の、バンド会合が行われるということで(藤森と初めてコピーバンドをするための話し合い)、俺がブラックコーヒーを調子こいて飲んでいたところ、10分遅れで、完全にガン飛ばし状態のモヒカン野郎が階段を下ってきて、初めて発した言葉が「ふざけんなよ、ピッチつながんねーよ」と、しょっぱなからケンカ腰の物言い。怖かったです。
「うろうろしちまったじゃねーかよ」と、終始不機嫌の藤森氏がご機嫌になったのは、その近くのカラオケボックスにて。
「咲けー!!」
と、イエローモンキーの「球根」を熱唱してからは、随分打ち解けて、皆で今後頑張ろうと、大大円にて収まる所に収まりました。

ユウイチは、高校生の頃、俺のヒーローでした。
俺らの地元の俺らの世代にて、彼は随分と名を馳せたギタリストでした。
俺も当時、随分真面目にギターの練習をしていたのですが、彼にあってからは、曲作りに専念することにしました笑。もう、ギターの練習するのが空しくなってしまって、あああーあーあーーと、わけわからん曲を作るに終始していました。学校終わってからの楽しみは唯一、作曲でした。停学になっても曲は作りました。そのとき作ったのがプリティーパンクミュージックでした。

タクロウは、ユウイチ同様、当時俺らの世代で随分派手に表立って目立っていたドラマーでした。彼のライブをその頃何度か密かに見に行っていたのですが、彼は勿論俺のことなど知りません。「よう!」と言っても、「ん?やあ?」と言うくらいな感じ。俺はあまりタクロウさんと話す事ができなかった。つまりは、いつも派手にライブをかましやがってからに、毎回なんだか悔しくなっていて、劣等感に自らを支配されておったのですな。ユウイチとタクロウは同じ学校で、この二人が組んだバンドは文句なしにかっこ良かったです。俺と藤森は1リスナーでした笑。

そんな俺と藤森の当時ウンコみたいだったバンドに、ユウイチとタクロウが今メンバーとして加わっているという今の状態は、奇跡的に凄いことなんです(俺にとってね)。これは俺とか藤森にしかわからん感覚なんだろうけどね。
冷静に当時の事を考えると、なんだか冷や汗が湧き出てくるよ笑。
徹夜でミックスした藤森と俺のデモテープは、藤森の学校でプラスチックの破片になっていた(踏みつぶされて、びよんびよーん。おうおう)。
そんなバンドが今、こうして、皆さんの前で、ライブやら、なんやらできていることは、半端無く奇跡的なことなんだと、改めて考えさせられている、夜の夜です。



YES.sandlot/hozzy

うにゅるーん。

近いものほど限りなく遠い。
遠くを眺める彼にとって、あの真っ白い山よりも、鼻上にかかった眼鏡の方が、ずっと遠い。フルマラソンを走る彼女にとって、そのゴールよりも、さっき飛び越えたスタートラインの方が、ずっと遠い。分刻みに日々を踊る彼にとって、数分先の「予定」よりも、何より近いこの「瞬間」の方が、ずっと遠い。イタリアンに舌鼓を打とうとする彼女にとって、口に放りこまれるそのパスタよりも、正にそれに触れるはずの舌の存在感の方が、ずっと遠い。当たり前になってしまえばなってしまったものほど、その本質はずっとずっと遠い。
息の仕方なんて誰も理屈でなんて分ってないのに芸術的に繰り返している。
「よし、今日も生きるぞ!」なんて決意しなくても、しっかりと俺たちは生命活動を行っている。
そして俺は「俺」を知らずしても、自分を自分として生きていける。生きていけるのよ。なんでなのよ。
こんなに近いものがこれ以上あるかって位近い「自分」そして何よりも限りなく遠い「自分」

「己とは何か?」

自分探し、とか、若い悩み、とか、よく言われるこの台詞ですが、果たしてこれは笑い飛ばして終わりにしていい事なんでしょうか、と、未だにもやもやして眉間の3ミリ位先っぽがぞわぞわして唸る。頭の良い人ほど、このことをうまく処理してる。つまり、不問に処する。問題にしない。俺は問題にしてしまう笑。
「自分」が何なのかなんてわかっていなくたって立派に生きていけるし、むしろそんなこと考えている間に、社会的に生産的なものごとを考えたり発明したり、実際に行動した方が、みんなが幸せになるし、美しい形だし、通常だし、学校の道徳の時間にもそんな話を教職者たちはしていたし。「地域社会に役立ちましょう、語らいよ、団らんよ、佐々木君、相変わらず姿勢がしゃんとしていて、よろしい」
今ではすっかり猫背ですが。
昔はぴっとできていたのです。
しかし「語らい」と「団らん」は先生語録の中でも上位にランクインする、俺の最も嫌いな言葉の2つでした。なんだか極度に嘘くせえ響きなんだもん。「一家団欒」って聞くたびに大人のエゴと言うか作為というかくっさい匂いをガキながらも敏感に嗅ぎとっていました。嫌な子供である。
で、俺は大バカなのか、単に疑い深い性分なのか、どうしても忘れる事ができないのですよ。存在の何たるかとは何たるかについて。
だって、おかしくないですか?
なんでこんな世界がこんな世界の形として存在しているのか。
そして俺は偶然として命を受け取ったのだろうけど(父母にとっては必然かもしれないけれど)、生きたからには生きねばならぬのだが、それは何のためだ。子孫繁栄とか、そんな人為的な解釈にはすっかり馴染めん。それが正当ならば、その子孫繁栄の先には何が在るか(もっと違う何かがあると信じたいし、自分に子供ができたらそう伝えたい)。命をつなぐ事、それはそもそも何なのだ。決して否定的な意味合いで言っているわけではありません。ただ単純に不思議でしょうがなく思うのです。あまりにも不可解で、吸い込まれていく。

YES,danran/hozzy