藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

限りなく無謀に近いブルー。

俺が、根本的に問題にしている事柄を音楽に託すことは、限りなく無謀に近いことかもしれません。

一個前のコラムにスーパー強引にあげたのは、去年の冬に格闘していたハイデガー思想との対決的メモです。
一目見て解るように、わけがわからん言葉が羅列されまくっています。
おれの頭の中での整理の記録なので、俺にしかわからないのは当たり前なんだけど、自分で改めてみても、多少混乱してしまう。

つーことで、皆さんはわけがわからんままに内容はシカトしといてください。
わかってもらおうと思ってあげたものではないのです。

野望を示すためのデモンストレーションです。

つまり、いわゆる俺たちの根本、生や世界に対するわけがわからない葛藤を、結晶に、明確に、どこまでも平坦に、かつ、独創的に音楽にしたいのだけど、それは限りなく困難で、言ってしまえば、バカらしく無謀です!

けれど、恐れ多いながらその理想を人生かけて実現にむけて、俺は生きていたいのです。

こんな告白して超こえぇ。

自分で今書いてて、スーパーびびっています。

you may say I'm a dreamer、、、。

どころじゃないかもしれん、、。

人に自分の理想を否定されるのは、あるいはさほど恐ろしいことではなくなっているかもしれません。
傷つくのはやっぱ嫌だけど。

けれど、正直幾分慣れてしまったのね。とことんすれたというのかな。

そして、それより何より一番、おっかねえことは。

自分の野望を自分が否定してしまうこと。

解決をもたらす否定ならば、まさに待ちこがれていることですが、そうじゃない否定、否定?

違う。

絶望のうちにあきらめきってしまうことが何より、恐い。

造語、散文詩、エスペラント、とりあえず、なんと無力なことだったんだろう、と前にもコラムで詩についてのことを書いたけど、俺がずっとこだわってきた詩の方法は、ことごとく軟弱で、まだまだ骨と皮のような代物でした。
もっと、濃密に方法を熟成させなければ、頓挫につぐ頓挫の連続が、雪だるま式に膨れ上がって、ただ孤独と誤解だけを増幅させるような結果になってしまう。
それでも共鳴してくれた方々には、尽くせぬ程の感謝をしています。
今、こんな考えができているのも、あなた方のおかげでございます。

俺は現時点であまりにも非力だ。

びんのふたほどの器の中の蛙である。

時間がいる。膨大に時間がいる。

どこまで俺がこの仕事を続けれるかはわからないけれど、じじいになった頃に、いまよりも高い景色の中で、モノを眺めることができているようにと願う。

だからそれまで死にたくない。

YES.dream/hozzy

泣き虫が今日はいない。

今日は、というか日付が変わって昨日は夕方の4時頃からビールを呑んで、木田元さんの「反哲学入門」という本を自分でも信じられない位のスピードで読み平らげた。
前から書店にて気になっていた「反哲学」という文句、一体何のことですか?と気にはなっていたんだけど、「反哲学」なんて哲学にアンチになれるほど哲学を修めているわけでもないから、気にはなるんだけど何だかびびってしまって手が伸びなかったのだが、先日「新耳袋」という怪談本を手に入れたくなって本屋に行ったところ、キラッと輝く「反哲学」の文字に衝動を抑えきれず新耳袋とまとめて買ってしまった。いつ読もうとちらちらタイミングをうかがっていたところ今日がその日にジャッとなりました。

ちなみに「新耳袋」は正直たいして怖くはなかったけど(好きな人がいたらごめんなさい)、『山の牧場』という話が気になって気になってしかたがなかったため買いました。この話は今ではもうかなり有名?というか時代遅れ気味なのかな。とりあえず、異次元的世界の代表格的話みたいです。これはさすがに背筋がすーんとした。後日談等いろいろネットで調べてしまいました笑。

で、木田さんのやつをいざ読んでみたら難しいんだけどとても面白かった笑!
この人の本は何回か読んだことがあったのですが、もしかしたら自分と相性がいいのかもしれない。ユウイチが好きな小説家、京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)」でも巻末の解説みたいなところで木田さんは一筆書いています。ハイデガーという哲学者にかなり思い入れのある先生です。

俺もハイデガーという哲学者にはかなり肩入れしています笑。
俺は大学やセミナーなんかのしっかりした所で哲学教育を受けた訳でもないし、身近にそのことに明るい先生的存在もいないし(唯一討論みたいなことをできるのはユウイチくらいです)かなり自己流に、けれども趣味よりは骨身を削って、自分なりに歩を進めている分際ですが、このハイデガーという人の思想は、おれにとってすこぶる衝撃的で、ほとんど心酔に近い状態を続けたこともしばしばあるほど吸い込まれてしまってます。
なんといっても「存在」とはなんぞや?ということをどの時代の誰よりも主題的に、論理的に展開している人だからです。

あんまり存在、存在、言ってるといつもの二の舞になってきてしまうので笑、ここで話を切り上げますが、その「反哲学入門」に刺激を受けたのと、流れ的にいきなりだけど、芥川龍之介の短編集「蜘蛛の糸」に改めて引っ張られて、なんだかいい曲ができました。
まだまだ原曲で荒削りだけど、いうなれば「シータムン2」!!

シータムンという曲を知らない人がいたら「コイントス」というシングルの二曲目に入っているので是非聴いてみて下さい。イメージの塊でしかない曲ですが笑、自分で言うのもなんですがとってもいい曲です。

で、このシータムン2をつくっているときに、ふと気になったのが、今まで自分の作った曲の「俺っぽい」って具体的に一体何なんだろか、と改めて眺め直して解析してみようじゃないかと、そんなことを思い立ちました。

藍坊主は、みんな曲を作ったりしますが、基本的に藤森と俺の二人が元になる曲を作ってタクロウとユウイチにアレンジをしてもらうという形でたいていは作業が進んでいってます。

そういう目線で改めて自分たちの作ったCDを聴いてみたら、藤森さんの曲はやっぱいいね!!俺が1リスナーだとして、音楽好きな一人だとして、俺の趣味も考慮して、流れるままにまかせたとして、やっぱ彼の音楽はいいのよ。包まれて気がつけばさっきより前にいられる感じ。自分が藍坊主に居られてよかったと改めて思わせてくれる。

そして、自分の曲を聴いた時思ったこと。

エリックサティ好き過ぎ!!
maj7愛し過ぎ!!

まず、こう思いました。

エリックサティは神の曲「ジムノペディ」や「ピカデリー」や「ジュトゥヴ」等を作った20世紀初頭のクラシックの人です。
maj7はギターのコードで「メジャーセブンス」という響きを表す記号で、メロディー単体で言うときはちょっと不安定で透明感がある一音を指すときに言ったりします(俺はそう思ってます)。

ブルーハーツが大好きなくせして俺は随分と西洋かぶれていやがるところがある。レディオヘッド、ビョーク、シガーロス、クイーン、ビートルズ、セックスピストルズ、アンダーワールド、ダフトパンク、ドビュッシー、有名どころ(ほんと有名どころばっかだな)を挙げればこの人達にかなり影響されているんじゃないか。

で、もし今俺がもし一人ぼっちで、どこかで真剣に誰かに自分の作った曲をプレゼンするならどれをもっていくかと妄想したところ、この曲たちを選んだ。

1ジムノペディック
2シータムン
3Lumo
4コンセント
5柔らかいローウィン
6水に似た感情
7空を作りたくなかった
8羽化の月(不滅の太陽)
9ウズラ

以上、、、、。

これだけかい!!

ってつっこまないでね。

突っ込んでほしいけど、本当は「ええ?」とか言ってほしいけど、こうなっちゃってるかもしれん。今の気分的にこうなってる。

9曲って、寂しい気がするけど、この9曲の感じが「俺っぽい」気がしててん。カッコで「不滅の太陽」をいれてるのは、ぶっちゃけまだ俺自身この曲がなんなんだかよくわかってないのですね。自信作なのに正直よくわからん。わからんけど好きだからいれちゃったん。ウィー!!

はい。

ここまでつき合ってくれた方、どうもありがとうございました。
完全なる自己満足でした。

うん。

さて、で、最近作った新曲たちが、マイセレクト10曲目11曲目に加われるように、魂蒸発させて頑張るざますよ、マイスター。

では,そろそろ作業に戻ります。

YES.sefian/hozzy

皮膚中セミフィーバー。

ひぐらしが朝に鳴いている。
ひぐらしなのにおかしい。

夜明けはいつも遠くにある。
一日で一番遠くにある。

遠い夜明けの雰囲気くん、つぶつぶはじける前に遠く遠く、どんどん遠くへずんずんずーん振り返りもしねえずら。

夜は近い、昼はもっと近い、夕方は少し離れて、夜明けは一番むこうにある。

床に汗だくコップの鈍光、齧った氷の頭蓋の響き、胃はびっくり、されど心は安し、あーん静かだなあと思ったら、びびび、ぎぎぎ、びぎびぎびぎっ、ぎょぎょぎょぎょぎょーっとアブラゼミどもがまたぎちぎちと熱風を回し始めてきやがった。涼み難し。

階段にいっぱいころがっていた。
近づいたらびちびちいって飛んできたやつもいた。
蛍光灯がガス噴射機に見えた。
カナブンものたうって腹を見せていた。
蛾はいつものようにへばりついていた。

定着するかしないかの色相で空き缶に映る窓の外。
物干竿がしなって見える、空はもう灰色デス。

朝がきちゃった。寂しいdeath。

deathってふるいdeathか?

そうdeathか。

YES,tape/hozzy

煙草を10本吸ってしまった。

セミがこんな夜中でも、狂ったようにむしり泣いている。
網戸にとまった奴に、耳を塞ぎたくなるほど聴き入ってしまう。

何がそんなに掻き立てる。
何がそんなに気に入らない。

夏の夜はどこにいった。
裸の皮膚さえ脱ぎたくなる。

扇風機だけじゃ間に合わない。
睡魔だけじゃ眠れない。

詩は棄てた、なのに言葉を探してしまう。

駄文執行!!


君は存在している。

その存在を問う前に、存在している。

既にして、瞬きをし、セミを聴き、哀しみを呑んでいる。

慰めに聞こえるか?

それならば即刻心を閉ざせ。



俺は命を賭して君に謂う。

生きる「意味」など本当はない。

意味が意味を帯びるのは、思考が回った時、そのときのみだ。

思考はどこにある?

この、ここ、「脳」さえ超えた、この、瞬間だ。

瞬間はどこにある?

この生の、形無き器の、一瞬に、だ。

生きることは、すでに意味を超えている。

言葉、感性、時間、死、

全てを超えている。

愛がほしいか?

答えがほしいか?

真実をみたいか?

ならば、生を肯定しろ。

そこから、始まるんだ意味が。

命は無条件に、全てを包んでいる。

俺はそう思うのだ。

確実にそう思う。


この暑さに、気がジュレル。

失礼した。

YES,anata/hozzy

影の肖像。

ここのコラムっていいな。

詞を書くのと違って、なんでもどぽどぽ線を引くだけでいいから非常に清々しい。
俺には詩人は無理だ笑。これは本当に選ばれた人間にだけ遂行できる神業だ。

いきなりこんな告白されて読んでる人は困るでしょう笑。
挫折の味をいきなり漂わされて、さもすれば怒っていい所です。

しかし、俺は、あの詩人や、さらに彼方のあの詩人のような神業には触れられない事にさっき思い至った。
うむ。
もう悔しさすら沸きもしねえ。

しかしこれは終わりではない。
そうです。人間は思いのほか強いのです笑。
色んな方法で、なんだか知らんが無様にも難所を切り抜けてきた気がする俺。

どんなに頑張っても結局ベンチで終わったサッカーの代わりになんとなく始めた楽器、ユウイチのギターを聴いてギタリストをあきらめ、曲作りに青春を捧げてほとんどやけっぱちに歌ってたらいつの間にかCDだしてツアーして、そしたらいっちょまえに詩人云々ぬかしながらこんな所で偉そうにコラム書いてやがる!!
てめえなんて運が良かっただけなんだよ佐々木健太。
人生なめんなよ、と、さっきに加えて今強烈にむかつきがボカんした。ふざけてやがる。

たまに、勘違いする時があった。
俺は天才なんじゃないかと、、、、痛&笑。
ぶん殴っていいです。

何が書きたかったんだっけ。

そう、運がよい。俺はすこぶる運がいい。
これだけは自慢できる。
ギャンブルは全然だめだけど、金なんて後からいつでも一生分回収できると思えてしまう位、私は人に恵まれすぎている。

美しい人たち。
甘く優しい人はあんまりいないかもしれないけど笑、俺は素晴らしい人に導かれすぎている。ここまで本当にそうである。

いいこと、いいやつぶった、説教みたいなことをここでほざきたいわけじゃないぜ。俺はそれを憎んでるぜ。
それを踏まえて聞いてくれ、マジで、思い返すと奇跡の連続なんだ。
あいつもこいつもあの人もあの方も、もし会わなかったら、今どうなってるのか、一人二人だったら会わなくても変わんないかもしれない、タイミングが一年二年遅れたくらいじゃどうって事ないかもしれない、けど、もう既にこうなっちまってることはどうあってもかえらんねーんだから、やっぱすげー、嫌だって言っても、無理だもの、うがぁー、とやはり恵まれておる。
申し訳ないが、ドスそう思うのだ(モンスターハンターより)。

俺はナマケモノのうすら汚い斜め75°くらいの人間だ。

今も誰かが引っ張ってくんなければ、死ぬまででも寝そべってだらけていたい。
生きる意味なんてのも本当は考えたくもない。

けど、こうなっちまってるんだから、ああ?、こうなっているからこそ、俺は考える、作る、歌う、悩む、喜ぶ、愛す、遠くなる、空っぽになる、逃げたくなる、寝てしまえー。

引っ張られてきたーー、人生様に、このぐうたらをっここまで面倒見てくれてありがとう目に見えぬ力よ、人々に私は感謝しています、それに見合う応えは悪いができないと思うけど、そぼそぼと、これからもよろしくです、マイラーイフ!!

なんの話題これ?
眠たいんですけど、期待に応えて頑張ります!

そうね、こんな具合に俺は詩人をあきらめたが、新しい光を感じたのだ。
言うなれば、納豆を初めて食った武将たちのように、食糧難が産んだ奇跡の瞬間に似た発見をおれは見たのだ。

魂だ。

え?

たましいだ。

え?

スピリーーット!!

です。

俺にも、魂がある。天才詩人と同じように、魂はある。
あの人もその人も、彼も彼女も、大統領も奇人も持っている、ザ、魂。

是です。

味の素の入ってない中華料理みたいな(ある意味本格的すぎる)、すかすかな(ある意味高貴な)食い物なんて、俺は食いたかったのか!?そもそもよ。

いや、くいてえよ。

それもくいてえ。うん。

そして、俺の魂はまた燃え始めたのであった。
いや、たまねぎの皮のように、もう一枚めくった感じ。
いや、むきすぎるとなくなっちゃうからいい表現ではないね。
いや、けどこれからもむくでしょう。
いや、そう簡単には脱皮なんてできねえんだよ、ホジークン。

イエス。

詩人も羨む紙人。
紙の人。
神の業など知るものか。
ぺらぺらだけど、スパッと切れるよベイビー。

弱いが強し、そう、これが俺の憧れだったやんけ!

カメちゃんよ、今日はどうもありがとう。
いろいろきたぜ。

燃えた灰は栄養たっぷりだ。

YES.ash/hozzy

あっつい。

ここでなんも挨拶してなかったけれど、ツアー全箇所どうもありがとうございました!
今までに無い位に私にとって大きな経験になりました。
おかげで曲もまた湧き出てきそうです。

近頃なぜだか高校時代に作っていた曲が、やけに朝方頭でフィードバックしてきます。
「ドロダンゴ」という曲があったのだけど、目覚めと同時に歌っていた笑。

そのせいなのか何なのか、今日書けた曲はなんだかやけに懐かしい感じになった。
昔と今が合体しているような、久々な感じ。

チーフマネージャーのソエダさんから、おもしろ半分でパソコンに送られてきた、5年前くらい?の写真をアップします。残念ながらタクロウが入る前のやつなので、彼は映ってないけど、代わりに映っているのは前ドラマーのカメイです。

みんな若い笑。
笑える。

YES,chaahann/hozzy

網戸な季節。

日差しがシャきーんと、鏡ばりのような空、鼻があつい。
留まったモノが根こそぎすっ飛んだような一日。
がりがりくんさいこう。

ベランダの隅に、ずっと前から緑色の多肉植物みたいな葉片が生えてる。
つーか、引っ越した去年の夏から既にいたような気がする。
さわるとぶよぶよしてる、文字通り肉厚のある変な植物。
ほんのちょっとだけの土が、直径にすると5、6センチくらい、そのベランダの隅んところにふきだまっていて、よくもまあ生きてるもんだわと感心するくらい、申し訳程度に根を張ってる。
土が少ないもんだから、根っこがひょろひょろはみ出てる。

このひと、去年の冬もなんなく越して、まだそこにいるのですよ。
花屋で買った植木鉢の葉っぱなんてしっかり一冬で枯れたっつーのに。

てゆうか、こいつはどこからやってきたのかがえらく気になっている。
うちは5階なので、余計に気になる。
となりのベランダから流れてきたんだろうか。それとも前の住人の残していった一部なんだろうか。
なんにしても彼がどこまで生き抜いて行くのか楽しみです。
そしてもしあと一年生きたら、鉢にいれてみよう、とかちょっと一瞬思ったけどそれでもし枯れたらマジ笑えないのでやめとこう。

明日はファイナルだ。
ゼップだ。
33本分のなんか、得も言えぬのだけど、カタツムリのぐるぐるみてたら、回ってんの実は俺?みたいな、33って、のびたくんの眼鏡とった目?→33みたいな、言葉でいうとよくわからんが、各地で見つけたいろんなことたちの先を、更に楽しめるライブにできたらいいなと思います。

がつっといくぜ、ラストだ。

YES.zepp!!/hozzy

つれづれなるまんま。

26歳になった。
もう25年間も生きている。凄いことです。
これが原始時代だったら、もうかなりいい年になっているんじゃないか。
その日暮らしの栄養失調状態は寿命を極端に短くするらしい。
もう狩りは引退している頃かもしれない。
いや、むしろとっくに15歳ぐらいでサーベルタイガーに食べられていたかもしれない。
そしたら俺はサーベルタイガーの一部になって10年間生きたのが今日に値する。
いやいや、サーベルタイガーも厳しいジャングルではそんな長生きはできないだろうから、俺を食べた5年後には巨大ワニに飲み込まれてしまっただろう。そのワニも3年後には頭を流木にぶつけてピラニアの餌になる。ピラニアから先の2年間はもう後を追う事はできない。あまりにも細かすぎて。あるものはナマズにのみこまれ、あるものは死んで水に還り、あるものは恐竜に似た怪鳥に空からすくい上げられて糞になる。俺はジャングル中に散って、生命の豊かさにまた加わっていく。

つまり俺が現代で生きた25年間は、原始時代の『人間+サーベルタイガー+ワニ+ピラニア+ジャングル中』に当たる。めっちゃラフに妄想してみると。

今日はちょうどいい区切りなのでブルーハーツでも聴きながら、中学生の頃の事を思い出していたら、なんで俺が蟻じゃなかったんだろう、なんで犬じゃ、樹じゃ、ゴキブリじゃ、むしろ無生物じゃなかったのか、ってまたぐわーんと感覚が遠ざかっていくような、世界を端から眺めているような気分になって、原始時代を想像してみた。貧弱な妄想しか結局できなかったけれど笑。

中学生、14歳になったばかりの6月27日に、一体何をしていたのかは全然覚えていないけど、間違いなくその頃から、スーパー強烈に、生きてることが不思議で不思議でしょうがなくなった。今も恐ろしいほど奇妙におもう。特に今日みたいな日は。

25年間「生きた」って、一体どういうことだ。
生きるってどういうことなんだ笑。
すっげー当たり前すぎて、よくいう言葉だけど、まだ全然見えないんだよこれ。
生きること。命。

「食べ物を摂取して、炭水化物、脂質、タンパク質、などなどを分解吸収し、生命活動を維持する事である」
「生殖行為により子宮に精子が到達し、卵子に接触した結果、細胞分裂を始めることである」
「宇宙が137億年前にビッグバンで始まり、その91億年後に我らの星、地球が誕生した。我々の命の起源はそこである。」

命や生きることをこんな風に言った所で寒いだけですし、今の時代誰もこんなことで納得しやしません。みんなが知りたいのはこんなことじゃない。

そもそも、炭水化物がどうとか、生殖行為がどうとか、ビッグバンがどうとかのことが原因になって、俺たちが今ここに生きているわけじゃない。むしろ逆です。
俺たちが既にして生きているから、炭水化物、生殖行為、ビッグバン云々を「理解」して自分の始まりのきっかけを「想定する」ことができる。
俺が俺として、この世界を生きているからこそ、ビッグバン云々の話ができる。
生きていることが先であって、その逆ではない。
俺はどこからやってきた?君は?
父母の精子と卵子からなぜ、君ではなく、この「俺」が誕生したのか。
君の父母からなぜ、俺ではなく、「君」が生まれたのか。
要はこのことが「生きる」ことに直結する重要な問題だと思う。
俺は俺を背負ってこそ「生きる」ということが可能だから。

それは偶然か?それとも運命か?

どっちにしろ俺たちがそもそも生きていなければ、「炭水化物」なんてなんの意味も無い。何も知らない子供が学校で「炭水化物」を習った日から、ジャガイモはちょっと色彩を変える。炭水化物が彼を生かしていたんじゃない。彼が彼として生きているからこそ、「炭水化物」を彼の中に誕生させることができたんです。

科学は「個人の謎」に対して無力です。
そもそもが、そんな学問じゃないからなんだけど笑。
大勢に共通の法則は取り出せても、一つに対する根っこ部分は放っておくしか無い。
科学が最近ではもう、辛くなっている感じがあるのはここにあるんじゃないかな。
本当に痒い所には届かない、ぎりぎり短い孫の手な感じ。
効いてんだか効いてないんだかよくわからない、サプリメントみたいな感じ。
便利でもっともらしいんだけど、なんか寂しい、昔から。
だからって、俺が感じる不思議は宗教的なものでもない。
その宗教も、俺たちが生きていなければ、知る事さえできないんだから。
それに神様に生きる事を預ける宗教ってのも本当の所にはもう届かない気がする。
いわゆる宗教に対する不思議な疑問はたくさんあるので今度改めて考えてみたいです。

じゃあ、生きることってのはもっと具体的に何なのか。

俺の今の結論としては「口をつぐめばよい」

感じるのみ。

結局これか笑。

それをあえて言葉で言ってしまうと、

「考えなければ考えないほど具体的になっていくこと」
「感覚の表面でぶるぶるしてる、一瞬一瞬にうねっている新鮮なビリビリ」
「胸の奥に沸き上がっている不透明で力強いしゅぼーんってやつ」
「これこれ!としかいえないこれ」

自分で書いててわかりづれー笑。

頭で理解する、つまり言葉に置き換えて理解することはできないけれど、俺は現になぜだか生きていて、生きている事を骨の髄まで経験して知っている。なんとなくだけど、強く感じている。そのなんとなくを超える言葉が今の所ない。言葉にして説明しようとするとボロがでる。
だけど感じたままでいれば、そこに、ちゃんと収まっている。
生きていることが生きている。

これが、髪の毛が逆立つほどぶるっとくるんだよ。
なんで、死んでんじゃなくて、生きてんだよ笑。
すげーんだよこれまじ。
不思議すぎ。

ちびくろさんぼのトラみたいにいつかこの謎がぐるぐるまわってバターのように溶けてしまえばいいのにと思います。

お祝いの言葉ありがとうございます。
今日は、しんみりと、色んな思い出に耽りたいです笑。

YES.rokudenashi/hozzy

理由。

ちょっと驚いて、話を進めて行くうちにその事に深く納得してしまった昨日の出来事。
ごく近しい人に言われた言葉。

「hozzyが哲学みたいな事やってる理由がやっとわかった」

やっとわかったって、今までわかってなかったんかい笑。

と、俺は少々ガーンとしたのだけれども、よくよく話を聞いてみると、「なるほど、そういう風にとらえられて映っていたのか」と、何だかやけに納得してしまったのでした。

冒頭から、方向定まらぬ文章の書き方をお許しください。
まさにこんな感じで、少しばかり混乱したのです。

フォレストーンに関する所、色々な場所で哲学の話が話題になりました。
「今回はやけに哲学的な感じが強いですね」とか、
「おおげさに言うと、かなり哲学的な歌詞ですね」とか、
「なんでこんな事を歌詞にしているんですか」とか、
「意味がわからないです」とか、
「昔から、実は変わりませんよね」とか、
たくさんの話を色々な方々と重ねてきました。

謙遜するでも誇張するでもなく、フォレストーンはぴとんっと「哲学」に触れているアルバムだと思います(勿論それだけではありません)。
ここでへりくだって「哲学なんて、そんな、滅相もございません」なんて言ったって本当じゃないし。

で、さっきからさんざんでてくるこの「哲学」ってのは、つまる所なんなんだよ、というところなんだけども。

端的に言えば、世界への「視点を変える」こと。

俺個人の解釈で言ってしまえば、哲学は究極の人間ドラマであり、哲学者が組み立てるものは明らかに芸術の形の一種だと思っています(絵や音楽や詩等と並ぶもの)。

音楽や詩に感動するのと同じくらい、哲学に生命が飛び散ります。

で、俺が言われてびっくりしたのは「哲学って、何でも言葉にしようとする、堅苦しい理論に当てはめようとする、感覚とは正反対のものだと思ってた」と言われたこと。

ノーン笑!

違うよ、違うよ、その反対です。

むしろ哲学に求められるのは、普通にしてたら言葉や理論じゃ追いつかないような真っ暗闇な領域を(そもそもにして、普通には気づかないような当たり前な現実の中のひび割れを)、どうにかして言葉と理論を使って(絵や詩と同じように、独創的な方法で)、照らし出して浮き彫りにしようとすること。
哲学者には並外れた感性と、それを可能にする超人的な努力がなければならない。ただの「石頭」には哲学はできません。
俺はそんな哲学者たちの恩恵に少しずつあやかっているだけです。


言葉にできない、世界にまで到達できない、胸の奥で止まってしまっている「この感じ」としか言えない、もどかしいながらも、逆に言えば自分にだけは純粋なもの、自分を自分にしているこの感覚、感情、その正当性を守るための努力でもあるし、または気がつけば世界に放り込まれて、当たり前のように生きてしまっている現実、この命の頼りなさ、不安や絶望に、生きる指標を与えるものであったり、と哲学は、超おおまかに言ってしまえばそんなものだと言える。

おおまかに、だなんて本職の人に聞かれたら怒られてしまうな笑、すいません。
まだまだ超勉強不足なので、本当はこんなこと語れないんですけどね。


こないだもラジオで「なんで音楽なんかやっているんですか?」と聞かれて、
「???」となってしまって、もしかしたら哲学と音楽が、もの凄いかけ離れたもの(理論的なものと感性的なもの)として捉えられていたんじゃないのかな(どちらも本質は感性的なものだと俺は思っています)とも思って、ここに書きました。

哲学は、既成の理論の先を目指す、理論を使った感性的なものです(こういうと、すげーわかりづらくなりますね)。

哲学者たちは、その多くが芸術批評なんかもよくやっているので、じつは、彼らほど感性に鋭い人たちもいないのです。

俺の憧れの大人たちです。

もっとしっかり勉強します。

YES.philosophy/hozzy      

世界に打ち抜かれた、その瞬間、

俺の「自我」は、解体されそうになった。

仙台のあるラジオ局の控え室にて、椅子の上、腰掛けていた数秒のあいだ。

「自我」とは、「俺」のことであります。
佐々木健太であり、hozzyであるこの、俺。

狂った発言でしょうか。
いやいや、私は正常です。
ただただ真面目です。


つーっ、と部屋と俺が溶け込んで肉迫する。
恐れと、不気味なほどの歓喜に波打つ。
視界は意味をなくし、意味を超える。
俺は俺を失い、一つになる。


がちゃ。


ドアが開いて、スタッフの松下さんが現れて、世界の統一感が戻る。

思わず笑う。

「西田幾多郎は危険だ」

一昨日にユウイチ越しに聞いた、ある人の言葉の意味がわかった。

危険かも。

心がばらばらになっちゃうかも。


ぎゃー。


しかし、その危険は、「何に対して」危険か。

社会?生活?日常?精神?

社会も、生活も、日常も、精神も、
ほんとうの所、俺には、既にして、現実感がなく、はりぼてに感じる。

つかみ所がなく、虚ろだ。

これは、然すると、精神病者の典型であると、知識のある人は言うかもしれない。

ところが俺は、自分が精神を「病んでいる」とは全く思っていない。

しかし、それこそが、「病んでいるのだ」と言われるかもしれない。

俺には、全くそうは、思えない。


ならば、どっちが、正しいのか。


そんな基準は、この次元では、結局の所、どこにも、無いのだ。



俺が、病院に行ったら、「病んでいる」

行かなかったら、「病んでいる」 とは、勿論、診断されない(そんなこと、誰にだって言われる筋合いはない)。


俺は、病院になどは、決して行かない(誰かに、行くな、と言っているわけでは勿論ありません)


自分で、この「膜」と対決し(自分は何かに詰まっている)、制圧して、「病」と呼ばれる機械的な領域があるならばそれを超えて、血のちゃんと通った世界を生きたい。


俺の生に、他人の、強制的判断は不要である。


そもそもにして、この世界は狂っているのだから(そうとしか思えない)、
まともに、生きようとすればするほど困難です。

日に日に実感する。


東北の空気は、やっぱり俺にはぐっとくるみたい。
みなさん、ありがとうございました。

YES.ihatobu/hozzy