藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

凄い雷で思い出したこと。

否定の否定の否定=否定という常識。
否定の否定の否定=第四の新しい肯定にならないのはなぜか。

否定の否定=1→2→1。
「1⇔2」の行ったり来たりルール。
常識。

否定の否定=1→2→3って言ったら、
非常識。
けど
「1→2→3」って物事が飛ぶ瞬間は、生活してればたくさんある。

「この林檎じゃない、けど、あの林檎でもない、その林檎です」とか。
「人生は面白くない、けど、悪くもないゼ、不思議なもんです」とか。

「これでもない、あれでもない、ああ、それですそれです」の否定の否定は、「1⇔2」の行ったり来たりルールに当てはまらない「1→2→3」。
この仕組みは、どんな常識であらわすんだ。

あとこれ、
幼稚園くらいの時によく混乱した記憶があるんだけど、

「今何時?」
「10時5分前よ」

こんな当たり障りのないよくある会話。
なのにもの凄く不思議に思っていた時期がありました。
それは「前」ってところの考え方。

この「10時5分前」って9時55分のことなのか、10時5分のことなのかでよく混乱していた。
今だったら、当たり前のように9時55分のことだってすぐにわかるけど笑、幼子にとっては「10時5分前」は10時5分のことにも思えてしまうのです。
だって、「10時より5分前方にある時間」って捉えられるもの。前にある、先にあるって。むしろ俺はこっちの解釈の方が好きでした。けれどそれではいけないのです。そんなんじゃ大人になんかなれません。
ルールと言うのは不条理ダ。

YES.105/hozzy

ルートヴィヒ。

北海道の俺らのプロモーターの岩野さん(通称がんちゃん)に借りたDVD、「ヴィトゲンシュタイン」もまた見てしまった。ライアンに続き。
いやいや。
最近やたら映画やら本やら漫画やらを見ていますが、
音楽さぼっているわけではありませんぜ!
曲作りへのエネルギーのためであります(隣の隣の駅まで歩いて行って満喫で久しぶりに「地獄先生ぬ~べ~」を読んだり「ハチミツとクローバー」を読んでみたり寝てみたり帰り道にワンカップ片手に歌って転がってみたり)
まだウンコみたいな曲しかできていない故に(情けないです)素晴らしい作品に触れ合う事は自分の創作意欲向上のための必須条件であります。
ずっと曲作っていると耳がパンクしそうになるからねぇ。
一服、映画を観る。
みなぎる。
つくる。
うーん、となる。
一服、本を読む。
みなぎる。
つくる。
ファーック!!となる。

「ヴィトゲンシュタイン」
これはとてもマニアックですなあ笑。
これを俺に薦めてくれたがんちゃんは学生時代に弁当屋で必死にバイトをして貯めた金で北海道から単身東京へパンテラのライブを見に行ったガッツあるメタラーです(パンテラはメタルでは無い、とかそういう突っ込みはとりあえずいりません)。ちなみに女性です。
そしてタンカン系の映画が大好きな人です。

こないだの「プライベートライアン」に比べたらもの凄くマイノリティーな映画な「ヴィトゲンシュタイン」。
デレクジャーマンという監督さんが撮ったこの作品は、タイトルのまんまウィトゲンシュタインという、俺も大好きな哲学者に焦点を当てた作品です。

このデレクさんがウィトゲンシュタインの哲学を愛して自分の人生に重ね合わせて創ったというだけあって、全体の隅々まで美しくてシュールで愛しさに満ちているようでした。ウィトゲンシュタインの哲学って視覚で言ったら白と灰色に俺は感じるので、全体的にずっと黒を基調に表した監督にとっては「黒」が視覚的な色だったんだと勝手に推測。
服や、セットの装飾もシンプルで綺麗で、ウィトゲンシュタインの哲学を映像に反映するために色々考えたんだろうなとおもいました。
途中サティやラヴェルの曲も挿入曲で流れてきてドキッとしました笑。
哲学を映像にするってすげーことです。

この映画で一番印象的だった台詞に
「時空における人生の謎を解くものは時空の外にある。けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから」というのがありました。

ウィトゲンシュタインの本にこういう文章があります。

「不規則な黒い模様のある白い平面を想像してみていただきたい。そこで次のような方法を与えるのである。その平面を十分に細かい網の目で覆い、網の目ごとにそこが白いか黒いかを言う。こうすれば、模様がどのようであろうとも任意の正確さでそれを記述することができる。
三角の網の目でも六角の網の目でも模様を記述することはできるから、正方形を用いたこの形式はその点では恣意的である。」

これは、数学や力学や物理や芸術や文章といったそれぞれ異なった形式(網の目の形)の方法において、おのおの違ったアプローチによって世界のあり方を人は認識している。網の目なしには(要は論理的でなければ)人は何事も認識できないから(音楽も“音楽”という網の目による方法によって始めて音楽に成りうると考えなければいけないとしたら、かなり悲しくなってきますが)、観測する方法として網の目を使って始めて何事かを人間は認識することができるのだ、と言っているんだと俺は解釈しています。
世界に網をかぶせる事によって始めて一定の間隔が生まれるため、その物事が認識可能になる、ということです。
言い換えれば俺たちが見ている世界は網の目で区切られたフィルターがかった世界だということです。

「時空における人生の謎を解くものは時空の外にある。けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから」

『時空における人生の謎を解くものは時空の外にある』⇒時間と空間という網の目によって人生(人間の認識)は成り立っているため、その時間と空間という網をはがしたところに根本的な謎を解くものがある(例えば時間や空間を存在させている何か)。

『けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから』⇒けれどその網の目を外したところにはもはや謎というものはない。謎というのは何事かを1ミリでも認識できて始めて謎になるからです。網を外したら人は何も認識できなくなってしまいます。なので網の下には「謎」という網の目の一つさえも存在しえないのです(0さえ存在しないところが時空の外です。0はこの世界の網の目の一個です(Lumoの歌詞はこの意味では矛盾をおかしています笑、→「0という絶対と、1という可能性、この世界に0はない」。けれど絶対無は言葉では表現できないので無は0とするしかないのです。。。。)人間には時間と空間という網の目を外しては、何も理解することができないし、どんな世界をも想像することができないため(少なくとも俺にはできない笑)、その時間と空間を越えた先の場所(場所でさえないところでしょう)への質問は立てる事ができない。もし質問をたてることさえできるなら、それに対する答えや、もしくはその質問方法自体が「間違っている」といった判断としての「答え」が導けるからです。

つまり人間である俺たちには人生の謎は解けない笑、っつーことです。ってそれは悲しいですね。
まだまだっつーかほとんどウィトゲンシュタインの考えは解ったような解らないようなって感じです。っていうか、解ろうとすればするほど彼の主張から遠ざかっていく面もあるような気がするので、そこも含めてとても興味深いひとです。

で、先に「音楽も網の目にそって始めて音楽になりうるのか」と自分で書いたけど、俺は音楽は人間の認識方法の理論からはみでてにじみだしていけるものだと信じています笑。人生は謎だらけですが、音楽はあるだけで素晴らしい笑、そもそも俺はゆらゆらしたいだけなんだ!

そんなマニアックで愛しい映画を観れたことに感謝しつつ、眠ろう。
グッドモーニンG。

YES.L.W/hozzy

カパーゾ。

また、プライベートライアンを観てしまった。
これでおそらく7回目だ。
始めて観たのは小田原のオリオン座という映画館で確か高校1年生の時。
ありえない衝撃をくらって、駅まで友達と無言で帰ったのを覚えています。
オリオン座は潰れてしまいました。

ノルウェイの森とプライベートライアンはほんっとに飽きねえ。
どっちも小説と映画でとても有名な作品なだけに、本当ならもっとマニアックなやつとかを「これが私のお気に入りです」とかって、実は人に言いたいあまのじゃくな自分もいるんだけど(いやらしい笑)、しょうがない。良すぎるもんは良すぎる。

しかしあの映画はどうやって撮ったんだろうって、いつも不安に思ってしまう。本当に撮影中に事故で何人か死んでいるんじゃないかってくらい戦闘シーンが強烈だし、カメラのアングルの捉え方も緊迫感剥き出しで神がかってるし、俺はもちろん戦争に行ったことは無いけど、戦場ってこんななんだって本物を見ているかのようなあのリアル感が半端じゃない。

「戦争」は絶対悪だ!って言うにはいささか複雑な時代背景があったり、当時の政治状況があったりって、人間それぞれのそれこそ「正義」の体系の上で戦いは行われているものだから、むしろ俺みたいな何も知らないやつが「戦争反対!」なんて、その場限りの薄弱な意志と「こわいこわい」って何が恐いのかよくわかっていない無知に等しい経験をもって、世間に誘発されて何事かを叫んだとしても、数時間後にはそんなことすっかり忘れて結局カップラーメンとか食いながらケツをかいてゴロゴロするのが行き着くところです。最悪です。

誰だって殺し合いなんかしたくなんてなかったんだろうけど、するしかなかったんだろうなと戦争資料を見るたびにいつも思います。
誤解を恐れず言うとかの悪名高き某総統さえも悪く思えなくなってしまう時もあります。どの立場に立つかで全然見え方が変わってしまう。
人間全体の目線で見れば、悪い立場なんてないようにも思えてきます。

一番悪いのは、良い悪いで分けるこの世界の法則だと俺は思います。何が悪いのか良くわからないのに、悪いものは悪い、だから疑いなく「悪いの反対!」って、逆に言うともの凄く悪いことのように思えます。
戦争って何に向かってどこから手を付けて理解すればいいのか、あまりにも巨大すぎて俺にはわからなくなってくる。
そして同時に「平和は善」ってものすごく頼りない主張に思えてしまうのは俺だけでしょうか。

ただ、プライベートライアンを観ればそんな頭で考える物事なんてぶっ飛んじまうくらいおっかねーし、戦争の是非うんぬんをおいといて、人間はあんなおもちゃのように死ぬべきではないと思わされます。
映画の中で牛もいっぱい死んで転がっていました。銃弾の盾になったりしながら腐っていくのは、牛にとっても悲しいに決まってる。

そんな複雑怪奇な戦争や人間へのテーマをハイクオリティーなエンターテイメントに仕上げたスピルバーグってどんな人なんだろうって今更ながらすっげー気になる。こないだ拓郎に薦められて「ジョーズ」もまた見たけど、あれも凄いし笑。あのおじさんが見ている人間への眼差しを一度で良いから俺の濁ったマナコと交換してほしいなああ。

YES.ryan/hozzy

あの化け物は狂ってやがる。

風の谷のナウシカのアニメになる前の原作、さっき読み終えてぶるっときてます。
今更ながら、こりゃすげえ。
ずーっと前からうちの旧スタッフのユウスケに「読め、絶対!」と薦められていたんだけど、なんかずっと無視してた笑。
いや、すまんミタケ殿。すごい事になっていたよほんと。

アニメ版のやつは何度も何度も見ていたけど、結局原型のほんの一握りしか見ていなかったんですね。奥深い映画だとは思っていたけれど、もっとずっと遠いところにこんなおっかないもんが配置されていたとは知らなんだ。ジョッキリされちゃいました。

巨神兵オーマのポジションには本当にずーんとなりました。空を飛んでいる彼の姿が特に救いようがない印象をびしばし放っているように思えてしまって、過去の回想シーンで巨神兵が集団で空を飛んでいる画は、小さいカットなのに今も強烈に頭の中に残っています。ただの兵器じゃなかったと話の中で仄めかされていたけど、あれは何だったんだろうってどえらく気になっている始末。

巨神兵が「調停者」ってのは彼らの生みの親が彼らにインプットした名目上の役割で、結局世界再生のために作られた「兵器」だったのか、それとも本当に何事かの「調停者」として役割を与えられながら生まれてきた疑似神様みたいなものだったのか、それともまだ想像もつかないような秘密がもっとよく読めば現れてくるのか、ぐるぐると色々想像してしまいます。
でも、どれにしても結局悲しい理由があるような気がするのは否めないし、だからこそこの物語の中でオーマは一番美しく思えました。あと、清浄になった世界に成仏していった皇弟の魂。最後の彼の魂の無邪気さに泣きそうになった。

らんっ、らーらららんらんらん…、らんっ、らーらららーーん…。

あの不気味なシーンのような感触をじっくりと眺められた全七巻でした。

ユパ様に合掌。

YES.daikaishou/hozzy

ヒグラシの声からヒノキの匂いがする件。

然も暗。
然と暗は友達のようで「も」で語り合っている。

ヒロシゲと散歩。
ひぐらしが鳴き始める。
ファミリーマートの横でプールの匂い。
セミは夜には鳴かない。

扇風機の「せ」と「ぷ」の調和が傾く。
るくるく、と云う。

な、な、な、な、な、な、な、
な、な、な、な、な、な、な、
72の200七夏です。
九官鳥の9から2をひいてみる。

スパナのぎらつきから。
汎月論を支持します。
ルニロ。

ここまでの文章を90°傾けてビルに見せる。

シャガールの絵に月の光をかけて食べてみたいと思う。
水を滑らす。
渦巻く泡は虹のカプセル。

ケミカル“ゴッド”ブラザーズ。
セックス“アンチ”ピストルズ。
ブロック“デヴル”パーティー。

「私」と「全て」

全てから私が生まれ。
私から「全て」が生まれ。
そして全てが生まれ。
私が《私》を生んだ。
全ても「全て」も「私」も生んだ私。
全てが私を生んだ後にそれを生んだ私。
親は子に。
子は親に。

回想。

まだ起きないように眠ろう。
「まだ、起きない、ように、眠ろう」
この違和感を人にうち明ける言葉がどこかにある。

森が夏の風でふるえる。

YES.ankone/hozzy

ささくれ。

ぶっちゃけ俺は純粋さというものを基本的に憎む性質です。

純粋さは純粋であればあるほど攻撃力が高くなり、逆に防御力は弱くなるように感じます。

削られた鉛筆の芯のようなこいつに何度深く刺されたか。

逆に俺のは何度折られたことか。

人の純粋さに傷つけられる時が一番ぶっ壊れそうになる。

透明であればあるほど痛いいたい。

しかし憎しみと愛は表裏一体とはよく言ったもんですが、こんだけ自分で怖れている純粋さと言うものに傷つけられること、特に自分も本当に純粋さが高まって防御力が落ちている状態で傷つけられること、これを心のどっかで期待している自分も正直いるので面倒くさい。マゾか笑。いや、サドだ。

 

純粋さを全く持ち合わせない人間なんていないし、勿論俺の中にもあるわけで、要は人間性としてそれが浮かび上がるのはその人その人がそれを擁する多寡によるってことだろうから(失っていないとロマンチックに言った方が良いのかな)、俺は純粋さ自体を憎むというより、純粋さを表面に多くまとって見えるということが鬱陶しく、とても鬱陶しく感じます。

この世界には純粋さを装った不純が多すぎるし、何より仮に本当の純粋さだとしても表面にまとってるのなんて見たくねえ。

純粋さっていうものは俺にとってとにかく面倒くさい。

だから憎くもあり愛しくもあるんだけど。

 

 

北海道、マジいいとこですね。

Air-G様ありがとうございました。

ライブも打ち上げも本当にいい空間を提供して下さって感無量でした。

北海道の人たちの純粋さはとても慎み深い。

なんか滞在中に漠然と感じまして、純粋さっつーのはなんだべと考えてしまい今日は長い前置きを書いてしまった。

つまるところ北海道は素敵だ、と、そういうことです!

 

つーか食いもんうますぎ。

 

YES.ezo!/HOZZY

カランコロン。

水のように薄いブルーのセロファンを越したような夜明けの薄明かり。
きれい。
こんな光加減の映像集があったなあ、となんだか泣きたくなるような気持ちでぼんやりしています。ふと目が覚めてしまいました。

「自然をお前が解った気になるな」
どこからともなくまだ何かの声が自分に向かって喋っています。
昨日の夜聴いていたドビュッシーの月の光も大音量で頭の中に流れています。
まだぼんやりとした頭の中で響くこの声も、今のこのうすら哀しい気持ちとその言葉の体感へのリアリティも、だんだんと目が覚めるに従って霧のように薄れていってしまうんだろうな、と思っていたらまた少し目が覚めてきました。
現に今、文章にしながらさっきのあの純粋な感覚が思考の枠組みに向かってどんどん統制されていっています。半分くらいはもう死んでしまった。こっちに来ると、あっちが偽物のような気になってくる。さっきはこっち側が偽物っぽかったのに。

「自然を俺がどうして解る?」
音階の数も、「夜明け」の光も、窓から見える「緑」の森も、5;35分のこの時間も、この「哀しい」という気持ちも、自然ではない?
人間としてのフィルターを通してしか「ここ」に居られない自分に、本当の意味での「自然」など解るはずも無い。自然は人間の都合で構成されている。「山」なんて意味の枠組みは自然にとって何の意味も必要もない。
この「自然」という言葉の意味さえも人間の都合で存在している。五感のない岩に「自然」なんて言葉が必要でしょうか?いるはずもない。
「解った気になるな」
ごもっともです。
自然本来の姿は「不自然」でなくてはならない。
人間に統制された自然が自然であるなんておかしな話です。

ならば、その本来的自然には人間としての自分には絶対手が届かない?

けれど美しいこの朝は紛れもなく美しい。

人間的解釈で感じる美しさを他の何が必要とするでしょうか。それは俺たちだけに響けば十分だ。うん。スズメはスズメ、ヒトはヒト。

ドビュッシーの曲を聴くといつも人間の範囲を超えた感覚を、どうにかして人間的感覚に変換して表現しようとしているような気がして震えます。超すげえ。

完全に寝ぼけが消え去って、今日のライブのことを考えています。ツアーファイナルどうなるかな。目が覚めた今、もう「自然」なんてどうでもよい笑。
今日のライブを人間として精一杯楽しむのみ。
レモンホールでお会いしましょう。

YES.Clair De Lune/hozzy

ありがとうございます。

今年も祝いの言葉をたくさんありがとうございます。一年前からもう一年たったのかー。。。と当たり前の事がやけにはっきりした一日でした。誕生日はきりっとしますね。この一年で成し遂げられなかったたくさんの事や、新しく気づいた今まで見えなかった事をもっとゴリゴリと磨いていきたいと思います。ツアー残りもよろしくです。シェーシェー!!

YES.Debussy/hozzy

キコリ。

細かい雨のせいで静かな夜です。私は何だか眠れなくなってきてしまいました。帰りがけに飲んだぬるめのエスプレッソのせいかもしれません。
今、ペンを撫でながらノートを眺めています。何本もの横線のあいだに雨と私の関係についての考えを書き連ねました。箇条書きで簡潔に9番まで。

孤独な人間だと思いますか?
今夜は細かい雨のせいでひどく静かでひとりぼっちなのです。
部屋は四角でかどは硬いです。電気もぼやけている気がします。
薬指の爪の根元にささくれも発見してしまいました。
けれど彼はきっとこう言って笑うでしょう。
「本当に孤独な人間は自分が孤独だなんて気づいちゃいないよ」
そして、ふん、と言って、こう付け加えます。
「ご飯を食べてる最中に“私はご飯を食べている”なんて考える人間がいるかい?」
ひどい言葉です。
けれど彼はそういう人です。

私は孤独をブロックのようにして引き出しにしまっておいています。
そしてそれをこんな雨の夜にだけ空に積み上げて行くのです。
コトリコトリ。
もちろん孤独に形なんてありません。
形のあるものはこの手で触れられるものだけです。
けれど私は形のないそれとどこかで触れ合って確かにどこかで見ている気がします。
それは大きいのもあれば小さいのもあります。
丸いのもあれば長細いのもあります。
だからそれを引っ張ったり削ったりして徐々にブロックに変えていくのです。
小さい欠片のようなものは粘度のようにくっつけてしっかりした一個にします。そんな風にしてブロックを集めていきます。
そしてこんな静かな雨の夜にだけその立方体を積んでいくことを自分に許しているのです。
雨雲の上に浮かぶ小さなブラックホールへの到着を想像しながら。

外は奇妙なほど静かな夜です。
窓が濡れていて、近くの電灯がいつもより遠い所にあるような気がします。
宇宙に浮かんでいるガスのように窓をぼんやりオレンジ色にくすませています。雨はこの世界で一番穏やかな「了解」のように感じます。
「了解」というのも変な気がしますが、
「誰にも疑われず、驚かれず、ただやってきて、去って行く」というような感じの了解です。
まるでわたしにとっての「わたし」という存在のようです。

最近私は、私についてよく考えます。
まるで思春期に逆戻りしたかのような悩みですが、それとはまた違ったもやもやなのです。
それは、私は「私」ではない、ということことなのです。
変な話ですか?
はい。
けれど私には変だとは思えないのです。
それは、人が「私」と言う言葉を使うとき、「私」という言葉はどの人にとっても「私」という意味を持ってしまうからなのです。
私が自分を「私」と言い、あなたも自分を「私」と言う。
世界中の人々と同じ数だけ「私」という人々がいる。
おかしな話です。一体この「私」は人の何を指しているのでしょうか。
どの人の上をも渡り歩く「私」。
なんて本当の意味からかけ離れた言葉なんでしょう。
ぺらぺらと風に飛ぶちり紙のようです。
かといって「キリコ」という両親からもらったこの名前も私ではありません。
「キリコ」は世界中にたくさんいるし、仮に私が父に「ぺるにょんて」なんて変てこな世界で唯一人の名前をつけられたとしても、それは名前という点で「キリコ」と何の違いもありません。
もし私が記憶喪失になって「ぺるにょんて」という自分の名前を失ったとしたらどうなるでしょうか。
なんのことはありません。
記憶を欠きながらも私はそこに存在しています。
「キリコ」でなくても「ぺるにょんて」でなくてもそこに存在している私。
むしろ「キリコ」という名前を受ける対象を存在させている私。
しかも私は「私」ではありません。
では何と呼べばいいのでしょうか?

野良イヌやトカゲの方があるいは自分の存在についてもっとわかっているのかもしれません。
ネコのようにニャー、と雨の中を走りだしたい気分です。
言葉はただ私たちが感じるかたちについた、単なる呼び名です。
本物は名もなき形そのもののような気がします。
窓から見えるライトに照らされた駐車場は、誰かに切り取られて打ち捨てられたかのように音も無く危うげに立っています。
この雨を「雨」と呼ぶこともなく、この私を「あなた」と呼ぶこともなしにただ立っています。

テーブルの上のプラムがすっぱそうです。

YES,amaotone/hozzy

象。

お台場でやっているグレゴリーコルベールという人の展覧会に行ってきました。写真展というのか映像展というのかとにかく幅が広い芸術展覧会みたいな感じで、会場も日本の建築家が設計した独特な移動式コンテナでできていました。近くで売っていたシシカバブがやけに美味かった。久々食った。で、エントランスを抜けて入場したら民族系のエレクトロニカとゆるやかな照明、床には敷き詰められた石と木の板と、そして天井からは信じられないくらい幻想的な写真が吊るされていました。とりあえずそれ見た瞬間「やべー」の「や」の字もでてこなかった笑。久々唖然として冷たい鳥肌が立ちました。写真なんて専門的には全くわからないド素人の俺が普段見慣れているいわゆる「写真」なるものとは色味も、なんて言ったらいいのかわからないけど捉え方のコンセプトみたいなものも全然違っていて、その画ごとに写し出されていたのは本当にもしどこかに天国があるとしたらこんなところだろうなー、というくらい美しくてファンタスティックな写真ばかりでした。映像も、「よくこんなのとれたな笑」と思わされるくらいにそのアイデアの凄さとグレゴリーさんのただならぬ根性をただただ感じました。すげー綺麗なんだけど、すげー大変だったんだろうなー、と10分くらい観た後辺りからなんやらかんやらいらんことばかり色々考えてしまいました(いささか長かったので笑)。写真集ほしかったけど、ちょいと高かったので無料パンフレットで我慢しました。それでも表紙の写真で十分素敵。荒涼とした世界にすわっている象の前で本を読む子供の写真。夢で見そうだ笑。

最近は映画もたくさん観ました。本も何冊か読み終えました。
前もいつかのコラムで書いたけど村上春樹氏の「ノルウェイの森」が、俺はもうなんでか知らないけど気違いなほど好きみたいで、上巻を4冊下巻を5冊持っています。旅やらツアーやらにでたりすると何故かやたらと読みたくなって何度も買っちゃうんだよね。実はインド行った時もこれだけは持っていきました、服は2着しか持って行かなかったけど笑。で、とうとうあまりにも好きすぎて英訳版にもに手を出してしまい、長い時間かけてようやく今日読み終えました。英文でよんでも素晴らしくセンチメンタルで哀しくてまた泣きそうになりました。何カ所かオリジナルバージョンの時には特に何も感じなかった箇所で、英語だとすごい感動するところがあったりして、新たな「ノルウェイの森」の発見もあって、さらにこの小説の吸引力に拍車がかかってしまいました。言葉が違えば表現が違うのは当たり前なんだけど、それがどういう風に実際そう感じるのかがなんとなくわかったような気がしました、なんてまだまだ言えないペーペーな俺ですが笑、このために英単語帳一冊をちょっと暗記してみたり、英語に詳しい友達に言葉の意味を尋ねてみたり、受験生みたいになってる自分が単純に新鮮で面白かったです。まあそんだけこの小説が俺は好きなんだなー。三島の金閣寺もいいねー、こないだ読み返したらやっぱ好きです。えぐってくる。ぐりぐりしてる。

さあてさてそろそろツアーが始まるぞ。水をたくさん飲んで今回は万全の態勢で臨みますので、よろしくー。

YES.storm?trooper/hozzy