藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

ベイビ。

やがて芽が生えたその場所からは、美しく透明な深い音色が漂いだした。
その音につられて蝶やカマキリやきりぎりすも集まってくるようになった。それは誰にも知られない、孤独さえも手が届かなかった暗がりに、始めて光が落ちた瞬間でもあった。メーワイは土の中にくるまりながら、遠い場所で夢を見る。微かな寝息が芽の根を震わせ、彼のやさしい呼吸を葉は世界にばらまいていた。

光のリズムを聴いたフクロウがコウモリに言った。
「おいおい、あそこの影がだんだん濃くなっていないか」
「ああ。恐ろしいね。あの光の音が強すぎるんだよ」
「このまんまじゃ僕らの闇が狂っちまう」
「うん。だんだん息苦しくなってきた」

月明かりが細々と見え隠れする中、ゆっくりと森のバランスが傾き始めていた。

メーワイの寝息は美しく、光を音に変えたように樹々を揺らしている。どんなに腕の立つバイオリン弾きにも表現できないような響きを浮かばせている。それもただ眠りに落ちているだけで彼は何も知らず望みもせずただそこで美を鳴らしているだけだった。それは不器用な美であった。彼の美は純粋である故のある種の暴力性も孕んでいた。少しぼやけたところで強烈な醜悪さを放ちながらもそこに燦然と存在している香水の輝きのようなものだ。ダイヤの原石よりも貴重で、同時に三文の価値もないような石くれのようにも思えるもの。むしろ、不幸を呼び起こす、過剰な優しさを粉末にしたようなもの。あるものには深い安らぎを与え、あるものには暗く灰色い憎しみを呼び起こすもの。

「あの芽をつんでくるよ」

そう言うと、コウモリは羽ばたいて、メーワイの額から伸びて地面に飛び出した新芽の葉をひきちぎってしまった。忌々しそうにその葉を眺めた後、生ゴミを捨てるように森の闇夜にそれを放って自らの巣に帰って行った。

また暗がりは、もとの暗がりに戻っていった。
ただ以前と違うのは、そこにはもう「無」というものがなくなっていた。
孤独が「ぐうぅう」と産声をあげた。

YES.houhou/hozzy

チチュウ。

ミュラル通りの一角にあるサーカステントの入り口でもぎりをしていた男が、突然ナイフを持ち出して暴れだした。そのときたまたま側にいた老婦人を肩で突き飛ばすと、わけのわからないことを喚きながらズボンをずりおろし、その場にあったパイプ椅子と交わるふりをした。男の唐突な行動に唖然とする通行人たちは誰一人として状況を把握できず、女たちはただ悲鳴をあげるばかりだった。そんな人間たちをよそに彼は焦点の合わない目で高らかに天をナイフで突き、張り裂けそうにこう叫んだ。
「俺は人間じゃねえ!わかってんのかてめえら、お前らカチカチなんだよ!俺を差別しやがって。おい糞やろう共、俺に近寄ったらぶっ殺すぞ、、、、、。で、で、で、で、でっかいナメクジ姫が、ずっとこっち見てんだよう」
意味不明である。
異常を察知したサーカス団の団長がテントから飛び出してくると、男はそちらをぎらっと睨み歯をむき出しにして飛びかかった。
二人は地面をころげて、もうもうと砂煙がたちこめる中もみあった。鳥が絶命するような奇妙なうなり声が増すにつれ、その激しさに更に視界が悪くなる。その声に気分が悪くなった少年はその場にうずくまって嘔吐した。それを見た少女も嘔吐した。ヒステリックに吠えつづける犬も混然とする群衆たちもその危機的な状況に全員パニックになり、気づけばあちこちで殴り合いの喧嘩も始まっていた。

町の警備隊がその場に到着した頃には、人々はぐったりとへたり込み、テントの前には男の皮がくしゃくしゃに横たわっていた。綺麗に脱皮した男は、そのまま町外れの森の方へ走って消えて行ったのだそうだ。
その姿を真近で見た団長は、目が潰れ、口も糸で縫われていて開けなくなっていた。救護班がその糸を取り外すと、団長は震えながら彼の見たその男の姿を意外にも饒舌に語った。
「あいつは人間じゃない、ナマコみたいにぶよぶよした化け物だった」
「皮から飛び出るとき一緒に二匹の小人が鼻から転がってきた。そいつが俺の口を縫ったんだ」
「姫が、姫がどうこうって言ってた、よくわかんねえ」
「俺の目、どうなっちまったんだ、」

YES.slug/hozzy

くしゃみがでなくなったある日。

通り過ぎて行った全ての物に、憎しみと感謝の念を込めて彼は筆を振り回していた。夜をなぞり、星影を映し、世界の闇を閉じ込め、呪詛を塗る。
5号のキャンバスはその体に窮屈することなく、彼の無言の暴走に同じく無言の広大さで答えつづけた。
汗をかくこともなく、虫の声のテンポで、抑えきれない絶望の噴出を生地に叩きつける。失ったはずの左足が、その躍動に熱く痺れてそこに在る感覚がする。水色の包帯は絵の具に染まってヘドロ色になってしまった。メーワイはそれで鼻をふいた。

涙があふれだしたい事にも気がつかず、メーワイは穴を掘った。
誰にも気づかれない誰も立ち止まらない湿った木陰に穴を掘る。
ここには孤独なんてものはない。
本当の孤立には孤独なんて名もつかない。
ここは孤独を知らない。

穴を掘る。
狭く深い穴を掘る。

メーワイは冬眠する。
卵になるイメージに、沈みゆく意識を溶け込ませて闇に落ちた。

YES.tamagone/hozzy

月と森小人の踊り。

ブログに書いてあったforestoneって文字を改めてじーっと眺めてみたらforest+tone以外に更なる単語の組み合わせを発見!

for rest tone

for esto tone

for esto one

合いそうなやつでこんだけありました。Estoはエスペラント語で「存在」という意味です。Lumo(ひかり)やLuno(つき、羽化の月の主人公の名前)と一緒の言語です。

forest stone

for rest stone

あんま企画に関係なさそうな組み合わせでこんなのも発見。

つーか、やっぱアルファベット系の言葉は響きが綺麗ですね。くやしいけど、日本語にはない流れがある。ひゅるひゅるしてる (くやしいので擬音語で対抗)


なんだか「森」とか「存在」が最近俺の中でもぶくぶく膨れ上がってきていたような気がするので、くるべくしてきた言葉みたいに感じられてきてますゾ笑。それは言葉への意識の投影だ、とユウイチは言うかもしれないけど笑。


これをぽん、と出したタクロウ(だった気がする)、ナイスぽんっ。

「燃えよ藤森」からこうきたとは。


ちなみになんか「ロハスな感じだね!」と思った方がいたら、ロハスって言わないでおくんなさいまし。
俺、ロハスって言葉嫌いやねん笑。

YES,forestone/hozzy

2時からの徘徊。

マンドリンボーイがやってきて、へこたれた顔をしてうつむいてるものだから、「帰りなさい」と促したら、タンバリンジェントルさんに変身をした。
ぬらぬらぬら、リヴァーブをあんまりかけないでおくれ、と丁寧に会釈をするところ、さすがジェントルマンである。
いきつけの飲み屋に誘ったところ、おずおずと鈴を一個差し出して、これで勘弁してください、って俺の嫌いな蛍光灯の光の下で懇願する。
「いいから、チャンジャと麒麟で一杯やろうよ」って、いくら言っても首をふるだけのジェントル野郎。
お前の優しさは鬼ごろし以下だ。
メチルの方がまだましだ。

今回の曲書き、ひどく神経がずるずるになります。耳が5個くらいになる。
さっき笑いが止まらなくなったかと思えば、今度は死にたい気分になる。
○○の法則に従えば、ウンコしかできず、黄金を目指せば、鋼鉄の壁につるはしはひしゃげてよれる。するめいかを噛みながら、イカの人生について思いを巡らせてしまう始末。のどの奥の味がデロンドドン。

セミが結構死んじゃいましたね。

YES,bababababa/hozzy

凄い雷で思い出したこと。

否定の否定の否定=否定という常識。
否定の否定の否定=第四の新しい肯定にならないのはなぜか。

否定の否定=1→2→1。
「1⇔2」の行ったり来たりルール。
常識。

否定の否定=1→2→3って言ったら、
非常識。
けど
「1→2→3」って物事が飛ぶ瞬間は、生活してればたくさんある。

「この林檎じゃない、けど、あの林檎でもない、その林檎です」とか。
「人生は面白くない、けど、悪くもないゼ、不思議なもんです」とか。

「これでもない、あれでもない、ああ、それですそれです」の否定の否定は、「1⇔2」の行ったり来たりルールに当てはまらない「1→2→3」。
この仕組みは、どんな常識であらわすんだ。

あとこれ、
幼稚園くらいの時によく混乱した記憶があるんだけど、

「今何時?」
「10時5分前よ」

こんな当たり障りのないよくある会話。
なのにもの凄く不思議に思っていた時期がありました。
それは「前」ってところの考え方。

この「10時5分前」って9時55分のことなのか、10時5分のことなのかでよく混乱していた。
今だったら、当たり前のように9時55分のことだってすぐにわかるけど笑、幼子にとっては「10時5分前」は10時5分のことにも思えてしまうのです。
だって、「10時より5分前方にある時間」って捉えられるもの。前にある、先にあるって。むしろ俺はこっちの解釈の方が好きでした。けれどそれではいけないのです。そんなんじゃ大人になんかなれません。
ルールと言うのは不条理ダ。

YES.105/hozzy

ルートヴィヒ。

北海道の俺らのプロモーターの岩野さん(通称がんちゃん)に借りたDVD、「ヴィトゲンシュタイン」もまた見てしまった。ライアンに続き。
いやいや。
最近やたら映画やら本やら漫画やらを見ていますが、
音楽さぼっているわけではありませんぜ!
曲作りへのエネルギーのためであります(隣の隣の駅まで歩いて行って満喫で久しぶりに「地獄先生ぬ~べ~」を読んだり「ハチミツとクローバー」を読んでみたり寝てみたり帰り道にワンカップ片手に歌って転がってみたり)
まだウンコみたいな曲しかできていない故に(情けないです)素晴らしい作品に触れ合う事は自分の創作意欲向上のための必須条件であります。
ずっと曲作っていると耳がパンクしそうになるからねぇ。
一服、映画を観る。
みなぎる。
つくる。
うーん、となる。
一服、本を読む。
みなぎる。
つくる。
ファーック!!となる。

「ヴィトゲンシュタイン」
これはとてもマニアックですなあ笑。
これを俺に薦めてくれたがんちゃんは学生時代に弁当屋で必死にバイトをして貯めた金で北海道から単身東京へパンテラのライブを見に行ったガッツあるメタラーです(パンテラはメタルでは無い、とかそういう突っ込みはとりあえずいりません)。ちなみに女性です。
そしてタンカン系の映画が大好きな人です。

こないだの「プライベートライアン」に比べたらもの凄くマイノリティーな映画な「ヴィトゲンシュタイン」。
デレクジャーマンという監督さんが撮ったこの作品は、タイトルのまんまウィトゲンシュタインという、俺も大好きな哲学者に焦点を当てた作品です。

このデレクさんがウィトゲンシュタインの哲学を愛して自分の人生に重ね合わせて創ったというだけあって、全体の隅々まで美しくてシュールで愛しさに満ちているようでした。ウィトゲンシュタインの哲学って視覚で言ったら白と灰色に俺は感じるので、全体的にずっと黒を基調に表した監督にとっては「黒」が視覚的な色だったんだと勝手に推測。
服や、セットの装飾もシンプルで綺麗で、ウィトゲンシュタインの哲学を映像に反映するために色々考えたんだろうなとおもいました。
途中サティやラヴェルの曲も挿入曲で流れてきてドキッとしました笑。
哲学を映像にするってすげーことです。

この映画で一番印象的だった台詞に
「時空における人生の謎を解くものは時空の外にある。けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから」というのがありました。

ウィトゲンシュタインの本にこういう文章があります。

「不規則な黒い模様のある白い平面を想像してみていただきたい。そこで次のような方法を与えるのである。その平面を十分に細かい網の目で覆い、網の目ごとにそこが白いか黒いかを言う。こうすれば、模様がどのようであろうとも任意の正確さでそれを記述することができる。
三角の網の目でも六角の網の目でも模様を記述することはできるから、正方形を用いたこの形式はその点では恣意的である。」

これは、数学や力学や物理や芸術や文章といったそれぞれ異なった形式(網の目の形)の方法において、おのおの違ったアプローチによって世界のあり方を人は認識している。網の目なしには(要は論理的でなければ)人は何事も認識できないから(音楽も“音楽”という網の目による方法によって始めて音楽に成りうると考えなければいけないとしたら、かなり悲しくなってきますが)、観測する方法として網の目を使って始めて何事かを人間は認識することができるのだ、と言っているんだと俺は解釈しています。
世界に網をかぶせる事によって始めて一定の間隔が生まれるため、その物事が認識可能になる、ということです。
言い換えれば俺たちが見ている世界は網の目で区切られたフィルターがかった世界だということです。

「時空における人生の謎を解くものは時空の外にある。けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから」

『時空における人生の謎を解くものは時空の外にある』⇒時間と空間という網の目によって人生(人間の認識)は成り立っているため、その時間と空間という網をはがしたところに根本的な謎を解くものがある(例えば時間や空間を存在させている何か)。

『けれどもご存知のようにそこに謎はない。もし質問さえできるなら答えを得ることもできるのだから』⇒けれどその網の目を外したところにはもはや謎というものはない。謎というのは何事かを1ミリでも認識できて始めて謎になるからです。網を外したら人は何も認識できなくなってしまいます。なので網の下には「謎」という網の目の一つさえも存在しえないのです(0さえ存在しないところが時空の外です。0はこの世界の網の目の一個です(Lumoの歌詞はこの意味では矛盾をおかしています笑、→「0という絶対と、1という可能性、この世界に0はない」。けれど絶対無は言葉では表現できないので無は0とするしかないのです。。。。)人間には時間と空間という網の目を外しては、何も理解することができないし、どんな世界をも想像することができないため(少なくとも俺にはできない笑)、その時間と空間を越えた先の場所(場所でさえないところでしょう)への質問は立てる事ができない。もし質問をたてることさえできるなら、それに対する答えや、もしくはその質問方法自体が「間違っている」といった判断としての「答え」が導けるからです。

つまり人間である俺たちには人生の謎は解けない笑、っつーことです。ってそれは悲しいですね。
まだまだっつーかほとんどウィトゲンシュタインの考えは解ったような解らないようなって感じです。っていうか、解ろうとすればするほど彼の主張から遠ざかっていく面もあるような気がするので、そこも含めてとても興味深いひとです。

で、先に「音楽も網の目にそって始めて音楽になりうるのか」と自分で書いたけど、俺は音楽は人間の認識方法の理論からはみでてにじみだしていけるものだと信じています笑。人生は謎だらけですが、音楽はあるだけで素晴らしい笑、そもそも俺はゆらゆらしたいだけなんだ!

そんなマニアックで愛しい映画を観れたことに感謝しつつ、眠ろう。
グッドモーニンG。

YES.L.W/hozzy

カパーゾ。

また、プライベートライアンを観てしまった。
これでおそらく7回目だ。
始めて観たのは小田原のオリオン座という映画館で確か高校1年生の時。
ありえない衝撃をくらって、駅まで友達と無言で帰ったのを覚えています。
オリオン座は潰れてしまいました。

ノルウェイの森とプライベートライアンはほんっとに飽きねえ。
どっちも小説と映画でとても有名な作品なだけに、本当ならもっとマニアックなやつとかを「これが私のお気に入りです」とかって、実は人に言いたいあまのじゃくな自分もいるんだけど(いやらしい笑)、しょうがない。良すぎるもんは良すぎる。

しかしあの映画はどうやって撮ったんだろうって、いつも不安に思ってしまう。本当に撮影中に事故で何人か死んでいるんじゃないかってくらい戦闘シーンが強烈だし、カメラのアングルの捉え方も緊迫感剥き出しで神がかってるし、俺はもちろん戦争に行ったことは無いけど、戦場ってこんななんだって本物を見ているかのようなあのリアル感が半端じゃない。

「戦争」は絶対悪だ!って言うにはいささか複雑な時代背景があったり、当時の政治状況があったりって、人間それぞれのそれこそ「正義」の体系の上で戦いは行われているものだから、むしろ俺みたいな何も知らないやつが「戦争反対!」なんて、その場限りの薄弱な意志と「こわいこわい」って何が恐いのかよくわかっていない無知に等しい経験をもって、世間に誘発されて何事かを叫んだとしても、数時間後にはそんなことすっかり忘れて結局カップラーメンとか食いながらケツをかいてゴロゴロするのが行き着くところです。最悪です。

誰だって殺し合いなんかしたくなんてなかったんだろうけど、するしかなかったんだろうなと戦争資料を見るたびにいつも思います。
誤解を恐れず言うとかの悪名高き某総統さえも悪く思えなくなってしまう時もあります。どの立場に立つかで全然見え方が変わってしまう。
人間全体の目線で見れば、悪い立場なんてないようにも思えてきます。

一番悪いのは、良い悪いで分けるこの世界の法則だと俺は思います。何が悪いのか良くわからないのに、悪いものは悪い、だから疑いなく「悪いの反対!」って、逆に言うともの凄く悪いことのように思えます。
戦争って何に向かってどこから手を付けて理解すればいいのか、あまりにも巨大すぎて俺にはわからなくなってくる。
そして同時に「平和は善」ってものすごく頼りない主張に思えてしまうのは俺だけでしょうか。

ただ、プライベートライアンを観ればそんな頭で考える物事なんてぶっ飛んじまうくらいおっかねーし、戦争の是非うんぬんをおいといて、人間はあんなおもちゃのように死ぬべきではないと思わされます。
映画の中で牛もいっぱい死んで転がっていました。銃弾の盾になったりしながら腐っていくのは、牛にとっても悲しいに決まってる。

そんな複雑怪奇な戦争や人間へのテーマをハイクオリティーなエンターテイメントに仕上げたスピルバーグってどんな人なんだろうって今更ながらすっげー気になる。こないだ拓郎に薦められて「ジョーズ」もまた見たけど、あれも凄いし笑。あのおじさんが見ている人間への眼差しを一度で良いから俺の濁ったマナコと交換してほしいなああ。

YES.ryan/hozzy

あの化け物は狂ってやがる。

風の谷のナウシカのアニメになる前の原作、さっき読み終えてぶるっときてます。
今更ながら、こりゃすげえ。
ずーっと前からうちの旧スタッフのユウスケに「読め、絶対!」と薦められていたんだけど、なんかずっと無視してた笑。
いや、すまんミタケ殿。すごい事になっていたよほんと。

アニメ版のやつは何度も何度も見ていたけど、結局原型のほんの一握りしか見ていなかったんですね。奥深い映画だとは思っていたけれど、もっとずっと遠いところにこんなおっかないもんが配置されていたとは知らなんだ。ジョッキリされちゃいました。

巨神兵オーマのポジションには本当にずーんとなりました。空を飛んでいる彼の姿が特に救いようがない印象をびしばし放っているように思えてしまって、過去の回想シーンで巨神兵が集団で空を飛んでいる画は、小さいカットなのに今も強烈に頭の中に残っています。ただの兵器じゃなかったと話の中で仄めかされていたけど、あれは何だったんだろうってどえらく気になっている始末。

巨神兵が「調停者」ってのは彼らの生みの親が彼らにインプットした名目上の役割で、結局世界再生のために作られた「兵器」だったのか、それとも本当に何事かの「調停者」として役割を与えられながら生まれてきた疑似神様みたいなものだったのか、それともまだ想像もつかないような秘密がもっとよく読めば現れてくるのか、ぐるぐると色々想像してしまいます。
でも、どれにしても結局悲しい理由があるような気がするのは否めないし、だからこそこの物語の中でオーマは一番美しく思えました。あと、清浄になった世界に成仏していった皇弟の魂。最後の彼の魂の無邪気さに泣きそうになった。

らんっ、らーらららんらんらん…、らんっ、らーらららーーん…。

あの不気味なシーンのような感触をじっくりと眺められた全七巻でした。

ユパ様に合掌。

YES.daikaishou/hozzy

ヒグラシの声からヒノキの匂いがする件。

然も暗。
然と暗は友達のようで「も」で語り合っている。

ヒロシゲと散歩。
ひぐらしが鳴き始める。
ファミリーマートの横でプールの匂い。
セミは夜には鳴かない。

扇風機の「せ」と「ぷ」の調和が傾く。
るくるく、と云う。

な、な、な、な、な、な、な、
な、な、な、な、な、な、な、
72の200七夏です。
九官鳥の9から2をひいてみる。

スパナのぎらつきから。
汎月論を支持します。
ルニロ。

ここまでの文章を90°傾けてビルに見せる。

シャガールの絵に月の光をかけて食べてみたいと思う。
水を滑らす。
渦巻く泡は虹のカプセル。

ケミカル“ゴッド”ブラザーズ。
セックス“アンチ”ピストルズ。
ブロック“デヴル”パーティー。

「私」と「全て」

全てから私が生まれ。
私から「全て」が生まれ。
そして全てが生まれ。
私が《私》を生んだ。
全ても「全て」も「私」も生んだ私。
全てが私を生んだ後にそれを生んだ私。
親は子に。
子は親に。

回想。

まだ起きないように眠ろう。
「まだ、起きない、ように、眠ろう」
この違和感を人にうち明ける言葉がどこかにある。

森が夏の風でふるえる。

YES.ankone/hozzy