藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

狂気。

最近、各地キャンペーンを回らせていただいて、ようやく一息、自宅に帰ってきました。

飛行機、新幹線、タクシー、電車、ありとある乗り物にここ一週間乗っけていただきまして、当分乗り物は結構ですという感じなんですが笑、
それはただ単に体が疲れるからとかいうんじゃなくて、なんていうか、そういう場所だと奇妙な人々からあまり距離をとれなくなって「うむ」となるからなんです(一緒に回ってくれてるスタッフの方々のことではないですよ笑。vapの皆様今回も色々とありがとうございました)

奇妙な人、というとなんか偏見差別的な意味合いが含まれているように響いてしまうかも知れないですが、この奇妙な人から見たら、俺も「奇妙な人」に見えるんだろうなという関係にあたる人たちのことを言いたいのです。

例えば、
電車で、携帯の着信音をピリピリならして、余裕顔で会話しているオジさん。
死ぬほど愛想が悪くてもの凄くスピードをつけながら道路を駆け抜けるタクシー運転手のオジさん。
スポーツ新聞に靴下ビールで、喉の奥の方から「ぐぁーーーー!」とかタンを鳴らしてる新幹線のおじさん。
俺、客なのに、いきなりため口で喋ってくる、店員のおじさん。

いわゆる、おっさんという人々。

なんだかだんだん、ある一定のおっさんの生態系が狂ってる風に見えてるのは俺だけなのでしょうか。
勿論俺も普段イライラすることはありますし、場違いな行動をどかんと起こす不完全な人間ですが、それにしたって、奇妙に見えて仕方が無いことが多い。

同時に、彼らからしたら、俺も奇妙に映るのか、よくすげー目で睨まれたり、背中にぶつぶつ文句を呟かれたりもします。

「ぶっ殺してやる、ぜってーぶっ殺してやる」

って言いながら、つり革にぶらぶらしてるサラリーマン風のおっさんに鳥肌がたったことも事実あります。



なんか、こういうのってどっかで聞いた事ありませんか?

『すげー目で睨む、携帯をぴろぴろ、ぶっ殺してやる』


テレビに映ってる評論家風のおっさんたちがよくいう若者像の象徴でしょ。

先生、おっさんたちも十分変です!

って、まあ、若者も凶暴な人は凶暴ですけどね(逆に、おじさんにも良いおじさんはたくさんいる)笑。
要は人間の凶暴性は年齢に振り分けられないってことだと思うのです。
場違いな奴は場違いな奴だし、倫理的な人は倫理的な人だし。
おとなも子供もあまり関係なく、そういう人はそういう人ってこと。

で、そうなると、勿論、責任問題は大人の皆様の方に降り掛かるはずだと思うのですが(なんといっても大人は大人ですからね)、どうもそうじゃない現状、世の中、すっげー大人寄りで、くっそアンフェア。
大抵、「理解できない」「非常識」だと言われるのは若者たちのほうです。そもそも「非常識」を唱える前に大人たちは「常識」とは何かを、その「常識の性質」からして考えたことが一度でもあったのでしょうか。常識ってどうやってできているのか。求めるならば提示しなければならない。その常識とは何なのだ?なぜそれが常識になっているのだ?そもそもあなたが理解している世界像はどんな世界像なのか。
きっと大抵の大人にもはっきりとはわかってはいないはずです。

単純に、大人はずるいなあ、って今になってすっごく思うのですよ。
だってね、子供は子供であるが故に、もちろん青少年少女もですよ、はっきり言って、言葉を持たぬのよ。
あまりある、鋭い感受性がそこにあって、ほとんどの人が、言葉なんかよりもその感覚に、生命力を燃やしている(大人の誰もが昔はそうだったように)。
そして、それが、大人になったら二度と戻らない絶対能力であって、何にも代え難い輝きを放っている。
俺も、また、リアルに高校時代を体感したいもの笑(残念ながら、日々、その記憶は死んでいき、俺もおっさんになっている。いやだん)。
そんな子供たちが、弁が立つ大人にかなう訳が無い。何を言っても言いくるめられて終わり、です(俺もそうだった)。
そんな、青少年少女に向って、「若者の凶暴性は年々、うんぬん、、、、げああああっぺ(タン」)って偉そうに吐きやがる、どこぞの大学教授やら評論家やら、社会学者やら、全く持って弱いものイジメしつつ、なんて感性に乏しく、なんて客観性(本当の意味での)に欠如し、ある意味全体主義ですよ、「大人のためのファシズム」。
狂った犯罪は大人もたっぷりしでかしてるヨ。それこそ歴史的にいって、大昔からずっと、ね。
残酷さは昔の方が実は強烈だったりもする。


ていうかそもそもなんでこんな事書いているかって言うと、

俺ね、帰ってくる時に本屋に寄ったのですが、そこでまたこんな本を見つけてしまったのです。

「他人を見下す若者たち」   

ほう、っと思って手に取ってみたら、これがまたすごくてね。
おもわず買って半分読んでむかついて色々考えさせられて、で、今に至るのです笑。

すげー反面教師的な性格を備えた本だなっと思います。
端的に言って、びっくりするくらい酷い。
俺はあまり他人が作ったものに対してこうやって公に批判を浴びせることはしたくはないのですが、これは、なんだか我慢がならなかった(720円もしたし笑、買うなってのね)

しかも、この著者、大学の教授です。しかも教育心理学が専門の人らしいのです。すごいよねほんと。
むかつきたい人は、読んでみてください。

YES,vap!/hozzy

ひとつでないひとつ。

ガムが俺になっていた。
そのツルっとした緑の粒を噛み始めた瞬間、
見開く空気にくしゃみを打ち、
あいかわらずなんて変な食い物なんなんだと
ガムを妙におかしく思ったのもつかの間、
舌がおいしくなって
さて、曲でも作るか、とギターを弾きだした時には
俺はガムになっていた。

しばし時が流れる。

ガムが再びガムに戻ったのは、俺の口がまずくなってから。
ギター置いて、背伸びをして、
げっぷがでそうででない、たるい後味に、おえっ、てなった後
「ぺっ」って、
それを銀紙に包むと、やっとそれはガムに戻り、
この俺ではなくなったのでした。

ガムをひたすら噛んでる時、俺はガムを「噛んで」はいない。
俺とガムはただ、一つになっている。

吐きだしたときに、やっとガム噛んでいた事、思い出したのでした。




「ひとつ」なんて言葉にもする前の、純粋なひとつ。

ガム噛んでるときのガムと俺の一体感。

0.1センチもずれることなく、

唯の、素っ裸の、すきまのない、いったい感。


そんな風に生きていたい(なんて難しいことなんだろ)。

活きたい。

行きたい。

そして充足のうちに

逝きたい(イクって響きは色んな意味の言葉をもっているのね。ちなみにオルガズムのイクはどの「いく」なんだろう。英語のカミングに対してやっぱ「行く」なんでしょうかね。ってか真面目に提案することじゃないのかしら)。



今日は久々に午後の光を、

「ちゃんと」

見た気がした。

「見る」前に感じた気がした。

単純に感動したのでした。

YES.pm1523/hozzy

見えないもの、俺たちは見ているのに。

俺、なんでhozzyって自分で改名したのか今日のリハの帰り道に解った。
俺、自分と対話したいの。
真剣に話し合いたいの(ヤバめですか?)。
私、「佐々木健太」っていう者ですが、「佐々木健太」でいたら、佐々木健太がわからんの。

俺たちは自分に名前を持っている。
それって、なんでなのよ。
この「俺」を解りやすくするため?
人に解ってもらいやすくするため?

俺は、佐々木健太である。
しかしながら、佐々木健太は平凡な名前のため、日本の至る所に存在する。
しかし、俺は、ここに、俺、として存在する。
佐々木健太には集約しきれない、「俺」の現実がある。

俺は、「佐々木健太」ではない。
俺は、ここにいる「俺」だ。

同様に、君は、名前を超えた存在だ。

hozzyって、別にhozzyじゃなくてもよかったの。
なんだってよかった。
ただなんとなく、hozzy、にした。

作詞作曲の記述はずっと、「佐々木健太」です、俺の場合ね。
なのに歌う俺、ギター弾く俺はhozzyです。
これは、俺(実は「俺」も日本中にたくさんいる笑。タクロウも「俺」というし、小島よしおも「俺」という。だから、言葉じゃ言い表せない「この、俺」のことを仮に「根っこの人」と呼ぶ)が根本的なところで何を見ているのかを、少しでも明確に感じたいから、こんなふざけた「hozzy」なんて形をとっているのは、その根っこの人がこっちのほうに問題をひり込んでくるから、なのかなと思った。今日、リハの帰り道に、その「根っこのひと」がちょっとはみでてきた。

俺は、中学生の頃から、一歩も進歩していない笑。

わからん、俺が「誰」なのか(真剣です)。

「先生!僕は誰なんでしょうか?」
「あなたは佐々木君でしょ?」
「そうじゃなくて、僕は、一体なんなでしょうか?」
「佐々木君、あなたは佐々木君よ」
「そうじゃないのです。佐々木である前に、僕は、生きているひとつとして、僕は存在しています、僕は何なのですか?」
「やめてよ、ほら、あなたは佐々木君でしょ」
「先生、、、、、、。」

伝わらないのです。
規律にそった教育では、そもそもの、根本的な謎は、開示される術がない。表面的なうわっつらだけの知識が、馬鹿みたいに、うすっぺらに「教育」によって増えていく。これのせいで、余計に本質は見えにくくなってゆく。子供は、大人たちの犠牲者だ。かわいそうだ。

俺がhozzyと自分を指したのは、この、しがらみから抜け出すためだったんだと思った。
佐々木健太で居る限り、佐々木健太である俺自身の存在がわからない。近すぎる故に、見えない。
俺はそもそもhozzyでもなく、佐々木健太でもない。
俺はそんな言葉を超えた何者かである。
同様に、あなたも、あなたの名前を超えた何者かである。

俺、俺、俺ばっかりですいません。
けれどここから始めないといけないのです。

優しさとか、善悪とか、道徳的な事って、自分に立ち返ることができて初めてちゃんとわかる気がする。外にいくら求めてもあやふやもやもやよ。

そんなことを思った。さっき。

YES,unko/hozzy

膜の中にいる感じ。

春がやって参りました。
くしゃみがとまんねー。「アレルギー」って言葉をみるだけで余計にかゆくなる。
「くそ花粉の野郎どもが、麗しき春のぬくもりを、ねちゃねちゃに濁しおってからに、、、」なんて思いたくなるし、「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」なんて嫌な事も鼻水でぐちゃぐちゃになってくるとつい思ってしまうものですが、そもそも別に花粉はなんも悪くないのですね。
こっちです、悪いのはこの私のイカレ体内器官なわけで、花粉は自然界の生命活動の一環、実に正常なサイクルの一部でしかなく、全う過ぎる位まっとう、俺がこんな正論を吐ける位にまっとうである。

俺の体はいつ頃からか狂い始めて、なんだかわからんが、花粉という大自然を拒否してしまうようになってしまった。いったいどうしたわが体よ笑。
辛いですよね、自然を拒否してしまうってのは。こっちで拒否した瞬間、自然にとってもこちらは異物。まるで自然からはじき出されてもうその一部ではいられない感じです。

アレルギーって、要は過剰反応のことですよね。医者じゃないので詳しいことはよくわからないのですが、普通なら自分にとって敵にならないような無害な相手に極度に攻撃をしかける行為のようです。花粉なんて毒でもなんでもないし、むしろ某ハン○ーガー店の品物の方がひどい毒性をもっている感がありますし、なんでアレルギーの原因の一つが杉なんだとひどく理不尽な感じのイメージがあります。

鼻がまた花粉を吸い込んだみたい。くしゃみ、はなみず。勝手にでてくる。人間ってすげえ。

で、攻撃するってことはそこが平和ではなくなって戦場になるから、結果として交戦後の荒廃した市街のように俺たちの身体上に炎症とか発熱とかになって後からそのツケが表れてくる。喘息やアトピーもアレルギーの一種で、アトピーは軽く、喘息はひどく、患っていた時期がありました。思えば俺はアレルギー症状を以外と抱え込んでいるな笑。喘息はひどかった。生き地獄。患っている方はよくお分かりになっていただけると思います。

杉の花粉さんたち。まさか彼らもこんなに我ら人間たちを苦しめているなんて思ってもないでしょう。ただ命を繋ごうとしているのね。
仮に俺たちを苦しめたくて飛ばしているとしても、なんとなくその理由が直観的に理解されてしまう。俺らひどいですもの、周りの生き物に対して。

杉が生き物であるということの前に、俺らは、俺らの人間的な視点で、彼らを「スギ」として平面化している。
杉は「スギ」である前に、一個の生命、こんなの子供でも直観でわかってる。けれど、私らより逆に子供の方がわかってる節もある。

「杉は生きていますか?」
「生きています!」
「生き物を無闇に殺したらどうですか?」
「いけないと思います!」
「なぜですか?」
「私たちと同じで生きているからです!」

大人に成った俺。今でも、子供と同じ考えに立つにはどうしたらいいんだろうか。

杉は「スギ」である前に、一個の生命。

これをもうちょっと押し進めて、スギの事を考えてみるのが大人の立場としての行動だと、勝手に思いつつ考えてみる。

杉とは、もうなんやかんや前にも書いてきましたが、ここ最近だと随分負のイメージに浸されている。実際、俺は花粉症にひどくいらだっています。やつらが消えれば、あの素晴らしき優しい春がまた俺の心に燦然と降り注いでくるし。蝶々も涙でぼやけず、軽やかなのその羽ばたきの無規則さをしっかり眺める事ができる。なのに春は今ではすっかり不安な季節です(喉もアレルギーで荒れるし)。
杉ってなんて忌々しいんだ。って実際問題相当忌々しいです。生活が楽しくなくなるし(毎日風邪みたいな感じ)。
そんな状態でみる「すぎ」は敵でしかありません。どうにかして花粉を吸い込まないようにマスクをして、部屋は常に空気清浄機を回して、点眼剤は常にポケットに携帯して、、、。
もう面倒くさいことこの上ない。「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」まさにそんな気分にしかならん。けれど、

杉は一個の生命。

この立地点でみることができるから、またなんだか複雑なわけで。あからさまに杉を批判するのもなんか申し訳ない気がするのです。

「杉は杉。されど“杉”ではない」
また面倒くさい方向に流れようとしている私hozzyのそっち側行きたがり症候群、笑。
まあ、聞いておくんなさい。ここに座ってゆっくりしていきなさいな笑。

杉って、俺たち日本人が呼んでいる言葉ですよね。英語だとJapanese?Cedarと呼ぶみたいです。この英語から見るとどうやら日本によく生えてる木のようですな。

杉。

人間、とりわけ俺たち日本人は、針葉樹の、細長い、幹が少し赤みがかった、全体的に三角形の木、見れば誰もが解る明確さで、その葉が濃い緑色の木のことを「杉」と呼びます(こんな書き方すると逆に杉がなんなんだか解らなくなってくる笑。説明なんてしなくても杉は杉として俺たちにはよくそのイメージがわかっている、これすげえ)。

誰もが杉をみれば杉って解るくらいに、杉は明確な形で俺らに見えている。
じゃあ、山にいる山鳩がスギをみたらどうか。
山鳩からみたら、俺たちが杉と呼んでいる木を、勿論「杉」とは呼ばないし、花粉症を発症させる負のイメージとしては見ない。
鳥にはそもそも言語がないのだし(当たり前やん)、もし彼らに言語があるとしても、人間の俺たちには何を喋っているのかはわからないし、鳥が花粉症になったらそれこそ重大な環境問題になってしまいます笑。
けれど、山鳩にはその木が彼らのシステムの中で、生きる環境の中で、あるポジションを占めているのは事実で、彼らにとって杉は人間的な「スギ」ではなくても、自分たちの環境に利用できる生きるための「素材」として見えている(例えば体を休める休憩所として)と、イメージできます。
この山鳩の視点に立ったときに、俺たちの「スギ」っていうイメージはかなり一カ所的なものの見方でしかないと、当然、言えます。
山鳩に限らず、てんとう虫でも、もぐらでも、寄生虫でも、それぞれの立場になったら、それこそ俺たちの立場は大多数の中の一つにしかならない。
いやいや、人間は、そんな生き物たちの何よりも勝って高等で真理に近く、それを追求するものであるがために、もぐらなんかと同じにされたらたまらんよ(その気持ちも非常によくわかる。俺ももぐらと一緒はなんか嫌だし笑)となっても、事実、命をもつもの、生命体というラインにたった時には、俺たちはみんな平等におんなじラインに並んでいる。
そう考えるのが逆に理性的な人間の公正な考え方だと思う。
「人間がナンバー1!」って俺たちが思っていても、モグラにとっては「モグラ(自分)がナンバー1」(俺たちみたいな思考方法では考えないだろうけど)って思っているだろうし、実際、生き物の形を俺たちなんかより必至に生きているエネルギーは感じる。

俺たちはみんな生命と言う同じラインに立っている(子供でも知っている)。おれたちはどんなに頭が良くても、宇宙にまでロケットを飛ばすアグレシヴな性質を持っているとしても、生きている、命を持っているというラインに立ったら、スギもてんとう虫も人間も全く同じ地平に立っている。モグラの気持ちが俺らには解らないように、モグラには俺たち人間の気持ちなどわからない。それは俺たちが脳が発達した高等な生き物である、という浅薄でつまらんせまっくるしい自己欺瞞から生まれてくるモグラを見下した考え方ではなく、モグラも俺らも、生体構造が違うだけで、命をもっているという至上、生きているという条件においては全く持て一緒であるということ。モグラももしかしたら俺たちからは愚鈍に見えているけれど、おそろしく理知的な性質を持っているかもしれない。それはモグラではない俺たちの思考回路からは決してわからない事柄だけれど。

つーわけで杉を「スギ」と呼んで、その言葉に負のイメージ喚起するのはとりわけ我ら人間の日本人の花粉症者に限られているわけで、全世界の他の生命たちにとったら全く別のイメージに映っているだろうこの木は、そもそも自分で「私のことスギと呼んでください!」とも言わず、「げはははは、死ねー人間どもー」なんて悪意を持っているわけでもなく、ただ生きているだけであります。
杉を「スギ」と何気なく呼ぶ事で、同時にそれは彼らの存在を僕らの意識に引き込んで、平面化している。
腹減ったトラが人間とウサギを全く同じ餌としてみるように、俺らは言葉でスギやモグラを同じように殺して心に映している。実際に殺す訳ではありません。かれらの命も死にません。けれど彼らは俺たちの言葉によって死んでしまうのです。
スギは自分のことを「スギ」だなんて一言も言ってないし思ってない、ただ生きている。この「ただ生きている」が、俺たちの言葉にかかると消えてしまう。なんとなく伝わりますか?

杉は杉。されど“杉”ではなく、その言葉の奥がわに生きている、そもそもとして、一個の生命だあああああ。
むずむずするぜ。

なんでこんな話になったんだ笑。杉から言葉へとなんて、まるでニューシングルの宣伝みたいじゃないか笑。
「言葉の森」
とても良い曲ですので、ぜひ皆様聴いてみてください。
そして長々、正義ぶったことを書いてきたのですが、随分と鼻水頭痛がひどくなってきた現在、やはり「杉など燃やしてしまえ」と思ってしまうのは、俺がどうしようもない人間だからでしょうか笑。

杉の生命に敬意を表す事で、なんとか春を乗り越えたい今です。

YES.cedar/hozzy

氷と水蒸気、結局「水」として同じってのがいかつい。

水面に揺らめく光に、匂いはない。
けど、その光のようなもの、鼻をひくひくさせても匂いを嗅ぎ取れるはずもなく、青臭い生き物の匂いがするだけ、ですが、徒歩10分の釣り堀にては、水の光は目よりも鼻にくる感じがするのですが、そんなの勘違いかも。けど鼻にくるんです。

夕方が夜になる瞬間、そんなもん生まれてこのかた見た事がない。
気がつけばいつも夜で、気がつけば夕方はすっかりあしたに退散してる。
ここ何日かじっと日が沈むあっちの方を、それこそ目が潰れんばかりに、熟視していたのですが、見れば見るほど夜と夕方の境目が分らない。目がかすむし、ヒンヤリしたらもう夜です。

冬→春は、くしゃみがでたらわかります。まだ冬です。暖かくてもだまされません。冬はまだ終わらない。

ベランダから見えるゴミ処理場の煙突は、真夜中になっても、雪が降っても、処理物を処理してるっぽいもくもくをすぱーとだしていますが、この吐き出し方が実にトロトロしていて静かです。日によっては笑ってしまいます。煙突が優しい。夕方は特に。冬は特に。雪の日はアガペー。

月をなぜ月と言うのか。ツキ。わからないからいいのかもしれない、と最近思うようになりました。「月光」よりも「月の光」の方が、イメージとして透明さが増して感じられるような気がするのは、俺だけなのか、他にも思う人がいるのか、もっと一般的にそう思うのか、わからないけれどなんか「月の光」っていいですよね。「月」って響きが羨ましい。hozzyってなんで、なんでアルファベットやねーん!!佐々木健太っていう本名です私。そろそろ名前変えようかな。そもそも名前ってなんなんだい。記号かい。精神かい。愛情かい。それとももっと空気を震わせるようなエネルギーの一種かい。わからん。
つーかムーン。って変な響き。月は月ですよ。日本人の俺にとって。lunoってエスペラント語のは好きですけれども。

あーあーあーあー。おもしろいことをたくさんやりたい。
おもしろいこととつまらないことをちゃんとわけれるひとになりたい。
うんこ食ってうんこしたくない。
糞食っても糞は出るし、みかん食っても糞は出る。
ならばですよ、ならば、うまいもんで糞した方が、ストレスなく、というか、食い物をちゃんと食わねば、我ら人間は、病気になってしまう。倒れる。痛む。苦しむ。死にたくなる。自殺。終わり。嫌ですよそんな、誰だってねえ。嫌だ。
それは一つの方法ではあるけれど、終わりを自ら選ぶのは決して、美しくはないです。
切腹の美、武士道的な日本的な死の美、ここに憧れを持つ人ならば、どうぞ結構、死を生として爆発させて、生を究極的にまで拡張して生ききってください。
三島由紀夫(作家)が切腹した心情を俺は決して理解することができない。彼のファンとしてする必要はあるのかもしれませんが、したくはない。
一体何の話?

洗濯をするとき、洗剤を、まず始めに浴槽の下の方にいれますか?それとも洗濯物の上から洗剤をかけるように溶かし込みますか?

人間はなんて感性的な生き物なんだろう。

YES.humo/hozzy

でろろーん。

今日、下北沢のモザイクに友達のライブを見に行きました。
ライブを見ていた時に、何故か色んな思い出が湧き出てきました。
藤森がモヒカンだった姿とか、ユウイチが作務衣を着ていた姿だとか。
下北沢は藍坊主にとって、とても特別な場所です。
この場所に育てられたと言ってもいいくらいです。特に屋根裏にはお世話になりました。内田さん(当時の店長、現渋谷クロールの頭取)の笑顔が鮮明に浮かんできます。
下北沢はすてきな場所ですな。
歩いているだけで酔ってくるよ。
とっても良い飲み屋がたくさんあって、帰るのが億劫になる。
ガディス(空を作りたくなかったの写真を撮った所)にいこうと思ったんだけど、定休日で閉まっていた笑。残念。このお店はとてもおすすめです。お茶もおいしいいです。

藤森と初めて会ったとき、高校生の頃でした。
ムースでパリパリに固めた短髪で、最高な笑顔で俺に語りかけてくれました(目だけは笑っていなかった)
藤森の高校の文化祭に行ってなんとなく初めて会話をしました。

その後、小田原のシャノアールと言う喫茶店にて、初の、バンド会合が行われるということで(藤森と初めてコピーバンドをするための話し合い)、俺がブラックコーヒーを調子こいて飲んでいたところ、10分遅れで、完全にガン飛ばし状態のモヒカン野郎が階段を下ってきて、初めて発した言葉が「ふざけんなよ、ピッチつながんねーよ」と、しょっぱなからケンカ腰の物言い。怖かったです。
「うろうろしちまったじゃねーかよ」と、終始不機嫌の藤森氏がご機嫌になったのは、その近くのカラオケボックスにて。
「咲けー!!」
と、イエローモンキーの「球根」を熱唱してからは、随分打ち解けて、皆で今後頑張ろうと、大大円にて収まる所に収まりました。

ユウイチは、高校生の頃、俺のヒーローでした。
俺らの地元の俺らの世代にて、彼は随分と名を馳せたギタリストでした。
俺も当時、随分真面目にギターの練習をしていたのですが、彼にあってからは、曲作りに専念することにしました笑。もう、ギターの練習するのが空しくなってしまって、あああーあーあーーと、わけわからん曲を作るに終始していました。学校終わってからの楽しみは唯一、作曲でした。停学になっても曲は作りました。そのとき作ったのがプリティーパンクミュージックでした。

タクロウは、ユウイチ同様、当時俺らの世代で随分派手に表立って目立っていたドラマーでした。彼のライブをその頃何度か密かに見に行っていたのですが、彼は勿論俺のことなど知りません。「よう!」と言っても、「ん?やあ?」と言うくらいな感じ。俺はあまりタクロウさんと話す事ができなかった。つまりは、いつも派手にライブをかましやがってからに、毎回なんだか悔しくなっていて、劣等感に自らを支配されておったのですな。ユウイチとタクロウは同じ学校で、この二人が組んだバンドは文句なしにかっこ良かったです。俺と藤森は1リスナーでした笑。

そんな俺と藤森の当時ウンコみたいだったバンドに、ユウイチとタクロウが今メンバーとして加わっているという今の状態は、奇跡的に凄いことなんです(俺にとってね)。これは俺とか藤森にしかわからん感覚なんだろうけどね。
冷静に当時の事を考えると、なんだか冷や汗が湧き出てくるよ笑。
徹夜でミックスした藤森と俺のデモテープは、藤森の学校でプラスチックの破片になっていた(踏みつぶされて、びよんびよーん。おうおう)。
そんなバンドが今、こうして、皆さんの前で、ライブやら、なんやらできていることは、半端無く奇跡的なことなんだと、改めて考えさせられている、夜の夜です。



YES.sandlot/hozzy

うにゅるーん。

近いものほど限りなく遠い。
遠くを眺める彼にとって、あの真っ白い山よりも、鼻上にかかった眼鏡の方が、ずっと遠い。フルマラソンを走る彼女にとって、そのゴールよりも、さっき飛び越えたスタートラインの方が、ずっと遠い。分刻みに日々を踊る彼にとって、数分先の「予定」よりも、何より近いこの「瞬間」の方が、ずっと遠い。イタリアンに舌鼓を打とうとする彼女にとって、口に放りこまれるそのパスタよりも、正にそれに触れるはずの舌の存在感の方が、ずっと遠い。当たり前になってしまえばなってしまったものほど、その本質はずっとずっと遠い。
息の仕方なんて誰も理屈でなんて分ってないのに芸術的に繰り返している。
「よし、今日も生きるぞ!」なんて決意しなくても、しっかりと俺たちは生命活動を行っている。
そして俺は「俺」を知らずしても、自分を自分として生きていける。生きていけるのよ。なんでなのよ。
こんなに近いものがこれ以上あるかって位近い「自分」そして何よりも限りなく遠い「自分」

「己とは何か?」

自分探し、とか、若い悩み、とか、よく言われるこの台詞ですが、果たしてこれは笑い飛ばして終わりにしていい事なんでしょうか、と、未だにもやもやして眉間の3ミリ位先っぽがぞわぞわして唸る。頭の良い人ほど、このことをうまく処理してる。つまり、不問に処する。問題にしない。俺は問題にしてしまう笑。
「自分」が何なのかなんてわかっていなくたって立派に生きていけるし、むしろそんなこと考えている間に、社会的に生産的なものごとを考えたり発明したり、実際に行動した方が、みんなが幸せになるし、美しい形だし、通常だし、学校の道徳の時間にもそんな話を教職者たちはしていたし。「地域社会に役立ちましょう、語らいよ、団らんよ、佐々木君、相変わらず姿勢がしゃんとしていて、よろしい」
今ではすっかり猫背ですが。
昔はぴっとできていたのです。
しかし「語らい」と「団らん」は先生語録の中でも上位にランクインする、俺の最も嫌いな言葉の2つでした。なんだか極度に嘘くせえ響きなんだもん。「一家団欒」って聞くたびに大人のエゴと言うか作為というかくっさい匂いをガキながらも敏感に嗅ぎとっていました。嫌な子供である。
で、俺は大バカなのか、単に疑い深い性分なのか、どうしても忘れる事ができないのですよ。存在の何たるかとは何たるかについて。
だって、おかしくないですか?
なんでこんな世界がこんな世界の形として存在しているのか。
そして俺は偶然として命を受け取ったのだろうけど(父母にとっては必然かもしれないけれど)、生きたからには生きねばならぬのだが、それは何のためだ。子孫繁栄とか、そんな人為的な解釈にはすっかり馴染めん。それが正当ならば、その子孫繁栄の先には何が在るか(もっと違う何かがあると信じたいし、自分に子供ができたらそう伝えたい)。命をつなぐ事、それはそもそも何なのだ。決して否定的な意味合いで言っているわけではありません。ただ単純に不思議でしょうがなく思うのです。あまりにも不可解で、吸い込まれていく。

YES,danran/hozzy

時間の形。

風呂に浸かっている時、ふとわかったんですが、時間って変ですよ。
「時間が変」
というか、どちらかというと「お前が変」って突っ込まれそうですが、時間の方が変です。やつらネコかぶってます。穴からのぞいてにやけてます。

「時間」ってなんだ?って言われたら、
「過去、現在、未来、今は時計だと1時56分です」とかって答えます、普通。子供でも知っています。
「じゃあ、過去、現在、未来ってなんだ?」って言われたら、
「昨日、今日、明日のことです」って言いながら、例えば地面に1つ線を引いて、その上に三カ所点を打てば図にして時間を示すこともできます。わかりやすくて嬉しいです。

けど俺が思ったのは、
「過去は未来の中にあり、未来は過去の中にある。そして、過去も未来も、現在の中にある」ってことです。
文章にするともの凄く奇妙です。あたまの奥が痒いです。けど、俺にはちゃんとそう思えた。

さて、では長い話の始まりです。

俺たちは時間を、いわゆる直線の状態、過去、現在、未来、って上に書いたような図のように実際感じているでしょうか。きっと違くて、そんな図のようには絶対に生きていないはずです。まず、「未来」なんてのは今感じること、見ることができないものです(予知能力でもないかぎり)。「過去」や「現在」ってのはまぁ、あり得る感じではあります。けど「過去」も見方を変えるとおかしな感じにみえてきます。どういうことかというと、過去って要するに時間の感じ方としては「思いで」とか「記憶」のことじゃないですか?記憶にない過去を、俺は思い出すことができません。「昔、どこどこの某さんが、偉い事をしました」なんていういわゆる歴史的な過去なんてのも、自分の記憶になければ、無いに等しいものです。実際にそんな歴史があったとしても、知らなかったら「過去」と呼びようがない。そんな過去は、もちろん過去になりえません。そして、おれが今話しているのはあくまで、自分そのもの(あなたそのもの)が感じている「時間」についてです。そして厳密に言ってそれ以外の「時間」は存在しないはずです。例えば、宇宙のどっかで流れている時間を地球にいる俺はどうやったって感じられないし、300年前の時間的なことを知れるのは、歴史として、「自分の時間の中」で勉強して知る以外にはできないし、あなたの時間さえ、例え同じ部屋に一緒に居ようとも、俺には感じることはできません。なぜなら、あなたの感覚は、俺の感覚ではないし、俺の感覚は当然、俺の中にしかそなわっていないからです(当たり前すぎて馬鹿みたいです)。それに極端な話、死んでしまったら、時間なんてもう関係ないものです。だって、死んだ後に、どうして世界を見れるのか(幽霊になれたら別だけど。けれどそうなったとしても、どこまでも時間は幽霊の俺につきまとってくるはずです。幽霊だって消えたりするんだから。動くってことは時間があるってことです。時間が無いのに動いたら、それこそ「時間」の意味定義は崩壊します)。つまりは自分の「時間」が正に、「時間の全て」ってことです。時計の針の動きが時間そのものでは無いように、時間は言ってしまえば、空間に漂っているようなものではなく、俺らの中にあるものです。楽しいとき、辛いとき、の時間の流れ方が違うのが何よりの証拠。時計の針が怠けたり、いきりったったりしているわけでは勿論なく笑。その原因はあくまで、俺たち個人のなかにある。時間は中にある。ブラックホールの時間が歪むといおうが何だろうが、それを体験しなければ、結局は時計の針を時間として見ているのと同じ。「ブラックホールの時間が歪む」というのは、地球での時計の針の動きに対して、相対的に、ブラックホールでは「歪む」ということでしかない。時計はさっきも書いたけどそもそも、時間そのもそではありえないので、ブラックホールがうんたらの話も、なんらこの話に影響を及ぼしません。問題にしていることは、あくまで、「時間」です。時計の針が計測する間合いが問題なのではありません。
話をもとに戻すと、「過去」も怪しいってことなんですが、過去って、どっからやってくると思いますか?言い換えれば「思いで」はどこからあなたの心にやってくるのか。
思い出を振り返るとき、記憶をたどるとき、ふと誰かに借りた映画のことを思い出すとき、全部「今」からやってきます。その思い出タイムが終わるまで、「今」によってどんどん記憶の欠片が頭の中に組み立てられていきながら、それを完成に導いていくはずです。見方を変えてあの直線の図の中で考えると、いわゆる「未来」の方から「今」へ順番に記憶の破片が流れ込んできて、ある瞬間に思い出が蘇り、完成。めでたしと思う暇もなく、またぱちっと違う事に心を向ける。そこで思いで終了。他の物事に集中したら、もう「過去」は消えてなくなってしまいます。「いやいや、それで過去が消えるわけないじゃないか、思い出はそう簡単には消えないぜ」って言われたら、こういいます。「思い出は消えないけど、過去は消えてしまうよ、「今」思い出す事をしなければ」
思い出さない過去は、過去じゃない。記憶が残ってようが、思い出さなければ、それは存在しないからです。言ってしまえば「過去」は記憶として「今」思い出しているからあるもので、「今」の連続の中でなりたっているものです。言ってしまえば、過去の完成系は、未来の中にあると「予想」できる(そこが、すなわち「今」)。つまり、あの直線に書いた図のように見ると、過去って未来より時間的に手前にあるとは思えないのです。未来の方が過去より時間的に手前になければ、過去(思い起こした記憶)は存在しえない(理解する「時間」がなければ、記憶を理解することなんてできない)。さっきも書きましたが、時間は、俺らそれぞれを離れては存在し得ないため、そして過去は時間というものを離れては存在するはずもないため、こう思うのです。「過去は未来の中にある」
じゃあ、次「未来」とは何なのか。「未来」は時間としては存在しないもの。存在しえないものだと思います。なぜなら、僕らは時間を「今」この瞬間しか感じる事ができないからです。「過去」もそういう意味では時間ではないと言えます。過去を「時間として」感じる事はできません。記憶として感じることができるだけです。最初の方でも書きましたが、未来を感じれるなんてのは「予知能力者」くらいしかいないと思います。俺には未来は見えません笑。じゃあ「未来」って何なのかって考えたら(必要なかったらこんな言葉も概念も生まれなかったろうから)、「未来」は時間じゃくてただの「予測」だ、と思いました。とりあえず「あるだろう」という保証。確実ではなく可能性。つまり「未来」は時間じゃない。時間を感じる限界は「今」だけです。限界を超えた時間は時間でありえない。俺(あなた)の感覚を離れた時間は、既に時間として意味を持たないから。「未来」は「今」が連続して起きることでできる道筋から「予測」した想像物です。
するとまた面白いことが起きます。この「未来」はどこからやってくるかというと、「過去」からです笑。「予測」は「記憶」から生まれるからです。パターンという記録から。なんだかあべこべになってきましたが、見方を変えたらなんでもあべこべです。そもそも、時間には「過去」も「未来」もないのに、まるで当たり前であるかのように「今」と同列にこの二つを並べているから、へんてこに映っているだけで、「今」だけを時間として見た場合、全部すっきり解決するはずです。要するに、過去も未来も、全部現在に集約する、ということです。

「過去は未来の中にある」→過去は記憶としてよみがえるもの、そのよみがえる場所は「今」という唯一本物の時間の中で。そして、「過去」を記憶として完成させるのは「未来」という仮想の時間から、流れてくるであろう「今」の連続という時間によって。過去は未来の中にある。

「未来は過去の中にある」→「未来」は時間ではなく「予測」である。「今」という唯一本物の時間の連続が生む「記憶」という「過去」から類推される「予測的な仮想の時間」。未来は過去の中にある。

「過去も、未来も、現在の中にある」→「今」という唯一本物の時間があればこそ、過去や未来が蓄積、予測される。この今という時間、一瞬が全て。

なので、
「過去は未来の中にあり、未来は過去の中にある。そして、過去も未来も、現在の中にある」
つまり、今、が一番偉い!!
優勝!!!
ってことですね。
ぱんぱかぱーん。
ああ、なげえ。うんざりした人ごめんなさい。

リアルな時間は今この瞬間しかない。「今を大切に」ってとてもいい言葉だと改めて思いました。

ちなみにここまでうだうだ書いてきましたが、この時間に関する考えは、時間に関する「考え」でしかありません。
時間に対する「感覚」によっては、もっと凄いことが起こりうるとも思っています。つまり「今」がでっかくなったり、小さくなったり、それこそ「予測」という「未来」を大幅に「今」が包んでいまったりっていうこと。予言とかって、もしかしたらこういうことなのかも知れないです。時間がゆっくり流れたり、早く流れたりってのも要はこういう事だと思います。「今」の膨張、縮小。言葉で言うと嘘くさくなってしまって嫌だけれど。お坊さんみたいに修行すれば、もしかしたら遠くまで「今」を、それこそ宇宙全体の大きさで、長さで、包み込めるのかもしれません。「時間」は「感覚」。自分そのもの。だとしたら、人によってはどこまでも行けてしまうのかもしれません。タイムマシンにはあまり期待していません。だけど乗ってみたいです。

YES.zeit/hozzy

エジソンさんをちょっと消す。

ユウイチにこないだもらったロウソクがとても綺麗です。
あわせてその後ヴィレッジで買ったちっさいのがたくさん入ったろうそくもとても綺麗です。やつらには明日が来ないから異様に美しくかんじられるんだと思います。紙幣には明日も変わらない価値があるけれど、ろうそくには明日も変わらない価値はもちろん保証されていません。火をともらす瞬間にしか存在理由はない。燃え尽きるまでが存在理由、輝かさ。ロウの塊を眺めているだけじゃ、それはただの塊でしかない。だからもったいないけど燃やしちゃうよ。消えてほしくないけどどんどん光れい。太陽が下って山に埋まる時の何にも変えがたいあの色は、雲の配列や、空気の質感や、月の位置や、その日の俺の機嫌によって、表象されている。明日も同じまだらさはこないだろう、たったの1分がこんなに世界を変えるのかい、あららら、もう後半歩で夜がくる、って予測がありきであの美しさは成り立っている。短いのってなんて重みを帯びるんでしょうか。綺麗だからいつも悲しくなります。夕焼けに意識を持っていかれるたびに穏やかになる心の動きと、同時に、それを腐らせずに奥の方でとっておきたいって、妙に落ち着きのない焦った心持ちにさらされます。悔しいのよ。なんか、とても。
綺麗な夕暮れの日ほど、何故か残念な気持ちになってしょうがなくなってしまうのが我ながら許せん。

どんっ、っべっばんら、ででぐらしかっつぇ、えいらえいらっ、ろ、すんびからん?ぇいら。しおかしかろんんた、でじぇいでじぇいふぉぜふ、じんぎりぎりぎろ、れんたかたんたらどどげらどげらら、

じわじわと流れてくるともしびの中のダンスの振り付けに、にわかに酔ってきた模様です。白ちゃんはグリンテルをなだめ清し、ロクオンさんは夜をじぎりぎりし、ベス●モラ●エディト、空間はより密に、境をなくし、デンデタル。

あのろうそくはあまりにも美しいのです。

はらはらするよほんとに。

グレはある日大きな樹の下で昼寝をした。
樹は尋ねた。
「お前は何ものか」
グレはあまりの疲労のため熟睡し続けた。夢さえ無い眠り。
樹はひたすら尋ねた。
「お前は何者か」
グレは、眠り続けた。自分を自分として存続するために。
樹は、樹らしく、樹の領分の中で、樹を全うする事にした。
「最後に問う、お前は誰だ」
やはりグレは眠りつづけた。

ベランダから見える樹の塊に、ごみ処理煙突の黒ずみに、形無き感触の優しさに。

YES.nuj/hozzy

明けまして。

遅くなりましたが、皆さん明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。今日も寒いですね。
今年で26歳になりますが、未だに夜の便所が恐ろしいです(まじ)
特に、水を流すときがおっかねえ。なんであんなにおっかねえ。
ドアをいつも少しあけたままにしているんですが、その開いてる方じゃない方の蝶つがいで止まってる方がそうすると少し開くじゃないですか?そこがまたおっかねえんです。夜の何かに睨まれてる気がする(だったら全部閉めろっつー話なんですが、全部閉めたら水のながれる音に逃げ場が無くて怖いのです)流す前にいつも2回後ろを見ます。

昔幼稚園あがる前にその蝶つがいの方の隙間から、猿の手みたいのがいきなり出てきて滅茶苦茶パニクったことがありました。これはただの見間違いだったのかも知れないけど、実際、鮮明に、毛もじゃが、ずわっと飛び出してきたんですね。あの瞬間は俺にとってリアルでしかありませんでした(以前もこんなことをコラムでも書いてたけど)見間違いだったとしても、もう二度とあんなものは見たくねえ(ちなみにその手は父親のものとかでは勿論ありません笑、完璧さる系のやつですね)。

友達1は夜に小人がパラシュートで電気の淵から落ちてくるのを見たことがあるそうです。
友達2は夜にオバケのQ太郎みたいのがコタツの向こうで棒2本をカンカン叩いていたのを見たことがあるそうです。
友達3は夜に窓一杯の目玉を見たことがあるそうです。

みんな何故だか夜です。
夜にはなんかがあるのか。
それとも人間の目はやっぱり夜に弱いのか。
ただの錯覚?
それとも実体?
けれども見えたのならそれはその人にとっての現実、リアルです。
自他ともにリアリティーってのは全然ないかもしれないけれど笑。
だけどそれって嘘も本当もなくって、結局それを自分がどう思うかってことでしかないんですよね。おしつけることも、おしつけられることも、超ナンセンス。
自分のみたそのままのものを誰かに貸す術もないし、その逆に誰かにそれを借りることもできないし。
俺のリアルは俺にしかわからんし。誰かのリアルはその誰かにしかわからん。
何も言わなければ、それはその人にとっての侵されることの無い真実になるのに。
喋ると、嘘だなんだ、って変質していくし。
わけわからん、ということにもなるし。
無言って一番きれいなのに。
始まらない分、終わらないからね。
侵さない分、壊されないからね。
かといって何も話さないと、それもまたそれでつまらないのよね。
話さなければ、話さないことも分からないし、話さないことが分かって初めて、今話しているってこともわかる。
疲れやすいくせに、じっとしてられない。
怖いくせに、謎のもつ引力に抗えない。
吐くのに、呑む。

ちなみに、俺が猿の手見たのは真っ昼間でしたのですよ。
はっきり、くっきり。
あれは何だった。
俺にしかわからん。
あれは、あれ。

新年そうそう、さるの話ですいません。ネズミの年なのに。
さっきの便所がひさびさ怖かったもんで。
けど、一度でいいからカッパは見てみたいです。

YES.2008/hozzy