藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

膜の中にいる感じ。

春がやって参りました。
くしゃみがとまんねー。「アレルギー」って言葉をみるだけで余計にかゆくなる。
「くそ花粉の野郎どもが、麗しき春のぬくもりを、ねちゃねちゃに濁しおってからに、、、」なんて思いたくなるし、「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」なんて嫌な事も鼻水でぐちゃぐちゃになってくるとつい思ってしまうものですが、そもそも別に花粉はなんも悪くないのですね。
こっちです、悪いのはこの私のイカレ体内器官なわけで、花粉は自然界の生命活動の一環、実に正常なサイクルの一部でしかなく、全う過ぎる位まっとう、俺がこんな正論を吐ける位にまっとうである。

俺の体はいつ頃からか狂い始めて、なんだかわからんが、花粉という大自然を拒否してしまうようになってしまった。いったいどうしたわが体よ笑。
辛いですよね、自然を拒否してしまうってのは。こっちで拒否した瞬間、自然にとってもこちらは異物。まるで自然からはじき出されてもうその一部ではいられない感じです。

アレルギーって、要は過剰反応のことですよね。医者じゃないので詳しいことはよくわからないのですが、普通なら自分にとって敵にならないような無害な相手に極度に攻撃をしかける行為のようです。花粉なんて毒でもなんでもないし、むしろ某ハン○ーガー店の品物の方がひどい毒性をもっている感がありますし、なんでアレルギーの原因の一つが杉なんだとひどく理不尽な感じのイメージがあります。

鼻がまた花粉を吸い込んだみたい。くしゃみ、はなみず。勝手にでてくる。人間ってすげえ。

で、攻撃するってことはそこが平和ではなくなって戦場になるから、結果として交戦後の荒廃した市街のように俺たちの身体上に炎症とか発熱とかになって後からそのツケが表れてくる。喘息やアトピーもアレルギーの一種で、アトピーは軽く、喘息はひどく、患っていた時期がありました。思えば俺はアレルギー症状を以外と抱え込んでいるな笑。喘息はひどかった。生き地獄。患っている方はよくお分かりになっていただけると思います。

杉の花粉さんたち。まさか彼らもこんなに我ら人間たちを苦しめているなんて思ってもないでしょう。ただ命を繋ごうとしているのね。
仮に俺たちを苦しめたくて飛ばしているとしても、なんとなくその理由が直観的に理解されてしまう。俺らひどいですもの、周りの生き物に対して。

杉が生き物であるということの前に、俺らは、俺らの人間的な視点で、彼らを「スギ」として平面化している。
杉は「スギ」である前に、一個の生命、こんなの子供でも直観でわかってる。けれど、私らより逆に子供の方がわかってる節もある。

「杉は生きていますか?」
「生きています!」
「生き物を無闇に殺したらどうですか?」
「いけないと思います!」
「なぜですか?」
「私たちと同じで生きているからです!」

大人に成った俺。今でも、子供と同じ考えに立つにはどうしたらいいんだろうか。

杉は「スギ」である前に、一個の生命。

これをもうちょっと押し進めて、スギの事を考えてみるのが大人の立場としての行動だと、勝手に思いつつ考えてみる。

杉とは、もうなんやかんや前にも書いてきましたが、ここ最近だと随分負のイメージに浸されている。実際、俺は花粉症にひどくいらだっています。やつらが消えれば、あの素晴らしき優しい春がまた俺の心に燦然と降り注いでくるし。蝶々も涙でぼやけず、軽やかなのその羽ばたきの無規則さをしっかり眺める事ができる。なのに春は今ではすっかり不安な季節です(喉もアレルギーで荒れるし)。
杉ってなんて忌々しいんだ。って実際問題相当忌々しいです。生活が楽しくなくなるし(毎日風邪みたいな感じ)。
そんな状態でみる「すぎ」は敵でしかありません。どうにかして花粉を吸い込まないようにマスクをして、部屋は常に空気清浄機を回して、点眼剤は常にポケットに携帯して、、、。
もう面倒くさいことこの上ない。「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」まさにそんな気分にしかならん。けれど、

杉は一個の生命。

この立地点でみることができるから、またなんだか複雑なわけで。あからさまに杉を批判するのもなんか申し訳ない気がするのです。

「杉は杉。されど“杉”ではない」
また面倒くさい方向に流れようとしている私hozzyのそっち側行きたがり症候群、笑。
まあ、聞いておくんなさい。ここに座ってゆっくりしていきなさいな笑。

杉って、俺たち日本人が呼んでいる言葉ですよね。英語だとJapanese?Cedarと呼ぶみたいです。この英語から見るとどうやら日本によく生えてる木のようですな。

杉。

人間、とりわけ俺たち日本人は、針葉樹の、細長い、幹が少し赤みがかった、全体的に三角形の木、見れば誰もが解る明確さで、その葉が濃い緑色の木のことを「杉」と呼びます(こんな書き方すると逆に杉がなんなんだか解らなくなってくる笑。説明なんてしなくても杉は杉として俺たちにはよくそのイメージがわかっている、これすげえ)。

誰もが杉をみれば杉って解るくらいに、杉は明確な形で俺らに見えている。
じゃあ、山にいる山鳩がスギをみたらどうか。
山鳩からみたら、俺たちが杉と呼んでいる木を、勿論「杉」とは呼ばないし、花粉症を発症させる負のイメージとしては見ない。
鳥にはそもそも言語がないのだし(当たり前やん)、もし彼らに言語があるとしても、人間の俺たちには何を喋っているのかはわからないし、鳥が花粉症になったらそれこそ重大な環境問題になってしまいます笑。
けれど、山鳩にはその木が彼らのシステムの中で、生きる環境の中で、あるポジションを占めているのは事実で、彼らにとって杉は人間的な「スギ」ではなくても、自分たちの環境に利用できる生きるための「素材」として見えている(例えば体を休める休憩所として)と、イメージできます。
この山鳩の視点に立ったときに、俺たちの「スギ」っていうイメージはかなり一カ所的なものの見方でしかないと、当然、言えます。
山鳩に限らず、てんとう虫でも、もぐらでも、寄生虫でも、それぞれの立場になったら、それこそ俺たちの立場は大多数の中の一つにしかならない。
いやいや、人間は、そんな生き物たちの何よりも勝って高等で真理に近く、それを追求するものであるがために、もぐらなんかと同じにされたらたまらんよ(その気持ちも非常によくわかる。俺ももぐらと一緒はなんか嫌だし笑)となっても、事実、命をもつもの、生命体というラインにたった時には、俺たちはみんな平等におんなじラインに並んでいる。
そう考えるのが逆に理性的な人間の公正な考え方だと思う。
「人間がナンバー1!」って俺たちが思っていても、モグラにとっては「モグラ(自分)がナンバー1」(俺たちみたいな思考方法では考えないだろうけど)って思っているだろうし、実際、生き物の形を俺たちなんかより必至に生きているエネルギーは感じる。

俺たちはみんな生命と言う同じラインに立っている(子供でも知っている)。おれたちはどんなに頭が良くても、宇宙にまでロケットを飛ばすアグレシヴな性質を持っているとしても、生きている、命を持っているというラインに立ったら、スギもてんとう虫も人間も全く同じ地平に立っている。モグラの気持ちが俺らには解らないように、モグラには俺たち人間の気持ちなどわからない。それは俺たちが脳が発達した高等な生き物である、という浅薄でつまらんせまっくるしい自己欺瞞から生まれてくるモグラを見下した考え方ではなく、モグラも俺らも、生体構造が違うだけで、命をもっているという至上、生きているという条件においては全く持て一緒であるということ。モグラももしかしたら俺たちからは愚鈍に見えているけれど、おそろしく理知的な性質を持っているかもしれない。それはモグラではない俺たちの思考回路からは決してわからない事柄だけれど。

つーわけで杉を「スギ」と呼んで、その言葉に負のイメージ喚起するのはとりわけ我ら人間の日本人の花粉症者に限られているわけで、全世界の他の生命たちにとったら全く別のイメージに映っているだろうこの木は、そもそも自分で「私のことスギと呼んでください!」とも言わず、「げはははは、死ねー人間どもー」なんて悪意を持っているわけでもなく、ただ生きているだけであります。
杉を「スギ」と何気なく呼ぶ事で、同時にそれは彼らの存在を僕らの意識に引き込んで、平面化している。
腹減ったトラが人間とウサギを全く同じ餌としてみるように、俺らは言葉でスギやモグラを同じように殺して心に映している。実際に殺す訳ではありません。かれらの命も死にません。けれど彼らは俺たちの言葉によって死んでしまうのです。
スギは自分のことを「スギ」だなんて一言も言ってないし思ってない、ただ生きている。この「ただ生きている」が、俺たちの言葉にかかると消えてしまう。なんとなく伝わりますか?

杉は杉。されど“杉”ではなく、その言葉の奥がわに生きている、そもそもとして、一個の生命だあああああ。
むずむずするぜ。

なんでこんな話になったんだ笑。杉から言葉へとなんて、まるでニューシングルの宣伝みたいじゃないか笑。
「言葉の森」
とても良い曲ですので、ぜひ皆様聴いてみてください。
そして長々、正義ぶったことを書いてきたのですが、随分と鼻水頭痛がひどくなってきた現在、やはり「杉など燃やしてしまえ」と思ってしまうのは、俺がどうしようもない人間だからでしょうか笑。

杉の生命に敬意を表す事で、なんとか春を乗り越えたい今です。

YES.cedar/hozzy

氷と水蒸気、結局「水」として同じってのがいかつい。

水面に揺らめく光に、匂いはない。
けど、その光のようなもの、鼻をひくひくさせても匂いを嗅ぎ取れるはずもなく、青臭い生き物の匂いがするだけ、ですが、徒歩10分の釣り堀にては、水の光は目よりも鼻にくる感じがするのですが、そんなの勘違いかも。けど鼻にくるんです。

夕方が夜になる瞬間、そんなもん生まれてこのかた見た事がない。
気がつけばいつも夜で、気がつけば夕方はすっかりあしたに退散してる。
ここ何日かじっと日が沈むあっちの方を、それこそ目が潰れんばかりに、熟視していたのですが、見れば見るほど夜と夕方の境目が分らない。目がかすむし、ヒンヤリしたらもう夜です。

冬→春は、くしゃみがでたらわかります。まだ冬です。暖かくてもだまされません。冬はまだ終わらない。

ベランダから見えるゴミ処理場の煙突は、真夜中になっても、雪が降っても、処理物を処理してるっぽいもくもくをすぱーとだしていますが、この吐き出し方が実にトロトロしていて静かです。日によっては笑ってしまいます。煙突が優しい。夕方は特に。冬は特に。雪の日はアガペー。

月をなぜ月と言うのか。ツキ。わからないからいいのかもしれない、と最近思うようになりました。「月光」よりも「月の光」の方が、イメージとして透明さが増して感じられるような気がするのは、俺だけなのか、他にも思う人がいるのか、もっと一般的にそう思うのか、わからないけれどなんか「月の光」っていいですよね。「月」って響きが羨ましい。hozzyってなんで、なんでアルファベットやねーん!!佐々木健太っていう本名です私。そろそろ名前変えようかな。そもそも名前ってなんなんだい。記号かい。精神かい。愛情かい。それとももっと空気を震わせるようなエネルギーの一種かい。わからん。
つーかムーン。って変な響き。月は月ですよ。日本人の俺にとって。lunoってエスペラント語のは好きですけれども。

あーあーあーあー。おもしろいことをたくさんやりたい。
おもしろいこととつまらないことをちゃんとわけれるひとになりたい。
うんこ食ってうんこしたくない。
糞食っても糞は出るし、みかん食っても糞は出る。
ならばですよ、ならば、うまいもんで糞した方が、ストレスなく、というか、食い物をちゃんと食わねば、我ら人間は、病気になってしまう。倒れる。痛む。苦しむ。死にたくなる。自殺。終わり。嫌ですよそんな、誰だってねえ。嫌だ。
それは一つの方法ではあるけれど、終わりを自ら選ぶのは決して、美しくはないです。
切腹の美、武士道的な日本的な死の美、ここに憧れを持つ人ならば、どうぞ結構、死を生として爆発させて、生を究極的にまで拡張して生ききってください。
三島由紀夫(作家)が切腹した心情を俺は決して理解することができない。彼のファンとしてする必要はあるのかもしれませんが、したくはない。
一体何の話?

洗濯をするとき、洗剤を、まず始めに浴槽の下の方にいれますか?それとも洗濯物の上から洗剤をかけるように溶かし込みますか?

人間はなんて感性的な生き物なんだろう。

YES.humo/hozzy

でろろーん。

今日、下北沢のモザイクに友達のライブを見に行きました。
ライブを見ていた時に、何故か色んな思い出が湧き出てきました。
藤森がモヒカンだった姿とか、ユウイチが作務衣を着ていた姿だとか。
下北沢は藍坊主にとって、とても特別な場所です。
この場所に育てられたと言ってもいいくらいです。特に屋根裏にはお世話になりました。内田さん(当時の店長、現渋谷クロールの頭取)の笑顔が鮮明に浮かんできます。
下北沢はすてきな場所ですな。
歩いているだけで酔ってくるよ。
とっても良い飲み屋がたくさんあって、帰るのが億劫になる。
ガディス(空を作りたくなかったの写真を撮った所)にいこうと思ったんだけど、定休日で閉まっていた笑。残念。このお店はとてもおすすめです。お茶もおいしいいです。

藤森と初めて会ったとき、高校生の頃でした。
ムースでパリパリに固めた短髪で、最高な笑顔で俺に語りかけてくれました(目だけは笑っていなかった)
藤森の高校の文化祭に行ってなんとなく初めて会話をしました。

その後、小田原のシャノアールと言う喫茶店にて、初の、バンド会合が行われるということで(藤森と初めてコピーバンドをするための話し合い)、俺がブラックコーヒーを調子こいて飲んでいたところ、10分遅れで、完全にガン飛ばし状態のモヒカン野郎が階段を下ってきて、初めて発した言葉が「ふざけんなよ、ピッチつながんねーよ」と、しょっぱなからケンカ腰の物言い。怖かったです。
「うろうろしちまったじゃねーかよ」と、終始不機嫌の藤森氏がご機嫌になったのは、その近くのカラオケボックスにて。
「咲けー!!」
と、イエローモンキーの「球根」を熱唱してからは、随分打ち解けて、皆で今後頑張ろうと、大大円にて収まる所に収まりました。

ユウイチは、高校生の頃、俺のヒーローでした。
俺らの地元の俺らの世代にて、彼は随分と名を馳せたギタリストでした。
俺も当時、随分真面目にギターの練習をしていたのですが、彼にあってからは、曲作りに専念することにしました笑。もう、ギターの練習するのが空しくなってしまって、あああーあーあーーと、わけわからん曲を作るに終始していました。学校終わってからの楽しみは唯一、作曲でした。停学になっても曲は作りました。そのとき作ったのがプリティーパンクミュージックでした。

タクロウは、ユウイチ同様、当時俺らの世代で随分派手に表立って目立っていたドラマーでした。彼のライブをその頃何度か密かに見に行っていたのですが、彼は勿論俺のことなど知りません。「よう!」と言っても、「ん?やあ?」と言うくらいな感じ。俺はあまりタクロウさんと話す事ができなかった。つまりは、いつも派手にライブをかましやがってからに、毎回なんだか悔しくなっていて、劣等感に自らを支配されておったのですな。ユウイチとタクロウは同じ学校で、この二人が組んだバンドは文句なしにかっこ良かったです。俺と藤森は1リスナーでした笑。

そんな俺と藤森の当時ウンコみたいだったバンドに、ユウイチとタクロウが今メンバーとして加わっているという今の状態は、奇跡的に凄いことなんです(俺にとってね)。これは俺とか藤森にしかわからん感覚なんだろうけどね。
冷静に当時の事を考えると、なんだか冷や汗が湧き出てくるよ笑。
徹夜でミックスした藤森と俺のデモテープは、藤森の学校でプラスチックの破片になっていた(踏みつぶされて、びよんびよーん。おうおう)。
そんなバンドが今、こうして、皆さんの前で、ライブやら、なんやらできていることは、半端無く奇跡的なことなんだと、改めて考えさせられている、夜の夜です。



YES.sandlot/hozzy

うにゅるーん。

近いものほど限りなく遠い。
遠くを眺める彼にとって、あの真っ白い山よりも、鼻上にかかった眼鏡の方が、ずっと遠い。フルマラソンを走る彼女にとって、そのゴールよりも、さっき飛び越えたスタートラインの方が、ずっと遠い。分刻みに日々を踊る彼にとって、数分先の「予定」よりも、何より近いこの「瞬間」の方が、ずっと遠い。イタリアンに舌鼓を打とうとする彼女にとって、口に放りこまれるそのパスタよりも、正にそれに触れるはずの舌の存在感の方が、ずっと遠い。当たり前になってしまえばなってしまったものほど、その本質はずっとずっと遠い。
息の仕方なんて誰も理屈でなんて分ってないのに芸術的に繰り返している。
「よし、今日も生きるぞ!」なんて決意しなくても、しっかりと俺たちは生命活動を行っている。
そして俺は「俺」を知らずしても、自分を自分として生きていける。生きていけるのよ。なんでなのよ。
こんなに近いものがこれ以上あるかって位近い「自分」そして何よりも限りなく遠い「自分」

「己とは何か?」

自分探し、とか、若い悩み、とか、よく言われるこの台詞ですが、果たしてこれは笑い飛ばして終わりにしていい事なんでしょうか、と、未だにもやもやして眉間の3ミリ位先っぽがぞわぞわして唸る。頭の良い人ほど、このことをうまく処理してる。つまり、不問に処する。問題にしない。俺は問題にしてしまう笑。
「自分」が何なのかなんてわかっていなくたって立派に生きていけるし、むしろそんなこと考えている間に、社会的に生産的なものごとを考えたり発明したり、実際に行動した方が、みんなが幸せになるし、美しい形だし、通常だし、学校の道徳の時間にもそんな話を教職者たちはしていたし。「地域社会に役立ちましょう、語らいよ、団らんよ、佐々木君、相変わらず姿勢がしゃんとしていて、よろしい」
今ではすっかり猫背ですが。
昔はぴっとできていたのです。
しかし「語らい」と「団らん」は先生語録の中でも上位にランクインする、俺の最も嫌いな言葉の2つでした。なんだか極度に嘘くせえ響きなんだもん。「一家団欒」って聞くたびに大人のエゴと言うか作為というかくっさい匂いをガキながらも敏感に嗅ぎとっていました。嫌な子供である。
で、俺は大バカなのか、単に疑い深い性分なのか、どうしても忘れる事ができないのですよ。存在の何たるかとは何たるかについて。
だって、おかしくないですか?
なんでこんな世界がこんな世界の形として存在しているのか。
そして俺は偶然として命を受け取ったのだろうけど(父母にとっては必然かもしれないけれど)、生きたからには生きねばならぬのだが、それは何のためだ。子孫繁栄とか、そんな人為的な解釈にはすっかり馴染めん。それが正当ならば、その子孫繁栄の先には何が在るか(もっと違う何かがあると信じたいし、自分に子供ができたらそう伝えたい)。命をつなぐ事、それはそもそも何なのだ。決して否定的な意味合いで言っているわけではありません。ただ単純に不思議でしょうがなく思うのです。あまりにも不可解で、吸い込まれていく。

YES,danran/hozzy

時間の形。

風呂に浸かっている時、ふとわかったんですが、時間って変ですよ。
「時間が変」
というか、どちらかというと「お前が変」って突っ込まれそうですが、時間の方が変です。やつらネコかぶってます。穴からのぞいてにやけてます。

「時間」ってなんだ?って言われたら、
「過去、現在、未来、今は時計だと1時56分です」とかって答えます、普通。子供でも知っています。
「じゃあ、過去、現在、未来ってなんだ?」って言われたら、
「昨日、今日、明日のことです」って言いながら、例えば地面に1つ線を引いて、その上に三カ所点を打てば図にして時間を示すこともできます。わかりやすくて嬉しいです。

けど俺が思ったのは、
「過去は未来の中にあり、未来は過去の中にある。そして、過去も未来も、現在の中にある」ってことです。
文章にするともの凄く奇妙です。あたまの奥が痒いです。けど、俺にはちゃんとそう思えた。

さて、では長い話の始まりです。

俺たちは時間を、いわゆる直線の状態、過去、現在、未来、って上に書いたような図のように実際感じているでしょうか。きっと違くて、そんな図のようには絶対に生きていないはずです。まず、「未来」なんてのは今感じること、見ることができないものです(予知能力でもないかぎり)。「過去」や「現在」ってのはまぁ、あり得る感じではあります。けど「過去」も見方を変えるとおかしな感じにみえてきます。どういうことかというと、過去って要するに時間の感じ方としては「思いで」とか「記憶」のことじゃないですか?記憶にない過去を、俺は思い出すことができません。「昔、どこどこの某さんが、偉い事をしました」なんていういわゆる歴史的な過去なんてのも、自分の記憶になければ、無いに等しいものです。実際にそんな歴史があったとしても、知らなかったら「過去」と呼びようがない。そんな過去は、もちろん過去になりえません。そして、おれが今話しているのはあくまで、自分そのもの(あなたそのもの)が感じている「時間」についてです。そして厳密に言ってそれ以外の「時間」は存在しないはずです。例えば、宇宙のどっかで流れている時間を地球にいる俺はどうやったって感じられないし、300年前の時間的なことを知れるのは、歴史として、「自分の時間の中」で勉強して知る以外にはできないし、あなたの時間さえ、例え同じ部屋に一緒に居ようとも、俺には感じることはできません。なぜなら、あなたの感覚は、俺の感覚ではないし、俺の感覚は当然、俺の中にしかそなわっていないからです(当たり前すぎて馬鹿みたいです)。それに極端な話、死んでしまったら、時間なんてもう関係ないものです。だって、死んだ後に、どうして世界を見れるのか(幽霊になれたら別だけど。けれどそうなったとしても、どこまでも時間は幽霊の俺につきまとってくるはずです。幽霊だって消えたりするんだから。動くってことは時間があるってことです。時間が無いのに動いたら、それこそ「時間」の意味定義は崩壊します)。つまりは自分の「時間」が正に、「時間の全て」ってことです。時計の針の動きが時間そのものでは無いように、時間は言ってしまえば、空間に漂っているようなものではなく、俺らの中にあるものです。楽しいとき、辛いとき、の時間の流れ方が違うのが何よりの証拠。時計の針が怠けたり、いきりったったりしているわけでは勿論なく笑。その原因はあくまで、俺たち個人のなかにある。時間は中にある。ブラックホールの時間が歪むといおうが何だろうが、それを体験しなければ、結局は時計の針を時間として見ているのと同じ。「ブラックホールの時間が歪む」というのは、地球での時計の針の動きに対して、相対的に、ブラックホールでは「歪む」ということでしかない。時計はさっきも書いたけどそもそも、時間そのもそではありえないので、ブラックホールがうんたらの話も、なんらこの話に影響を及ぼしません。問題にしていることは、あくまで、「時間」です。時計の針が計測する間合いが問題なのではありません。
話をもとに戻すと、「過去」も怪しいってことなんですが、過去って、どっからやってくると思いますか?言い換えれば「思いで」はどこからあなたの心にやってくるのか。
思い出を振り返るとき、記憶をたどるとき、ふと誰かに借りた映画のことを思い出すとき、全部「今」からやってきます。その思い出タイムが終わるまで、「今」によってどんどん記憶の欠片が頭の中に組み立てられていきながら、それを完成に導いていくはずです。見方を変えてあの直線の図の中で考えると、いわゆる「未来」の方から「今」へ順番に記憶の破片が流れ込んできて、ある瞬間に思い出が蘇り、完成。めでたしと思う暇もなく、またぱちっと違う事に心を向ける。そこで思いで終了。他の物事に集中したら、もう「過去」は消えてなくなってしまいます。「いやいや、それで過去が消えるわけないじゃないか、思い出はそう簡単には消えないぜ」って言われたら、こういいます。「思い出は消えないけど、過去は消えてしまうよ、「今」思い出す事をしなければ」
思い出さない過去は、過去じゃない。記憶が残ってようが、思い出さなければ、それは存在しないからです。言ってしまえば「過去」は記憶として「今」思い出しているからあるもので、「今」の連続の中でなりたっているものです。言ってしまえば、過去の完成系は、未来の中にあると「予想」できる(そこが、すなわち「今」)。つまり、あの直線に書いた図のように見ると、過去って未来より時間的に手前にあるとは思えないのです。未来の方が過去より時間的に手前になければ、過去(思い起こした記憶)は存在しえない(理解する「時間」がなければ、記憶を理解することなんてできない)。さっきも書きましたが、時間は、俺らそれぞれを離れては存在し得ないため、そして過去は時間というものを離れては存在するはずもないため、こう思うのです。「過去は未来の中にある」
じゃあ、次「未来」とは何なのか。「未来」は時間としては存在しないもの。存在しえないものだと思います。なぜなら、僕らは時間を「今」この瞬間しか感じる事ができないからです。「過去」もそういう意味では時間ではないと言えます。過去を「時間として」感じる事はできません。記憶として感じることができるだけです。最初の方でも書きましたが、未来を感じれるなんてのは「予知能力者」くらいしかいないと思います。俺には未来は見えません笑。じゃあ「未来」って何なのかって考えたら(必要なかったらこんな言葉も概念も生まれなかったろうから)、「未来」は時間じゃくてただの「予測」だ、と思いました。とりあえず「あるだろう」という保証。確実ではなく可能性。つまり「未来」は時間じゃない。時間を感じる限界は「今」だけです。限界を超えた時間は時間でありえない。俺(あなた)の感覚を離れた時間は、既に時間として意味を持たないから。「未来」は「今」が連続して起きることでできる道筋から「予測」した想像物です。
するとまた面白いことが起きます。この「未来」はどこからやってくるかというと、「過去」からです笑。「予測」は「記憶」から生まれるからです。パターンという記録から。なんだかあべこべになってきましたが、見方を変えたらなんでもあべこべです。そもそも、時間には「過去」も「未来」もないのに、まるで当たり前であるかのように「今」と同列にこの二つを並べているから、へんてこに映っているだけで、「今」だけを時間として見た場合、全部すっきり解決するはずです。要するに、過去も未来も、全部現在に集約する、ということです。

「過去は未来の中にある」→過去は記憶としてよみがえるもの、そのよみがえる場所は「今」という唯一本物の時間の中で。そして、「過去」を記憶として完成させるのは「未来」という仮想の時間から、流れてくるであろう「今」の連続という時間によって。過去は未来の中にある。

「未来は過去の中にある」→「未来」は時間ではなく「予測」である。「今」という唯一本物の時間の連続が生む「記憶」という「過去」から類推される「予測的な仮想の時間」。未来は過去の中にある。

「過去も、未来も、現在の中にある」→「今」という唯一本物の時間があればこそ、過去や未来が蓄積、予測される。この今という時間、一瞬が全て。

なので、
「過去は未来の中にあり、未来は過去の中にある。そして、過去も未来も、現在の中にある」
つまり、今、が一番偉い!!
優勝!!!
ってことですね。
ぱんぱかぱーん。
ああ、なげえ。うんざりした人ごめんなさい。

リアルな時間は今この瞬間しかない。「今を大切に」ってとてもいい言葉だと改めて思いました。

ちなみにここまでうだうだ書いてきましたが、この時間に関する考えは、時間に関する「考え」でしかありません。
時間に対する「感覚」によっては、もっと凄いことが起こりうるとも思っています。つまり「今」がでっかくなったり、小さくなったり、それこそ「予測」という「未来」を大幅に「今」が包んでいまったりっていうこと。予言とかって、もしかしたらこういうことなのかも知れないです。時間がゆっくり流れたり、早く流れたりってのも要はこういう事だと思います。「今」の膨張、縮小。言葉で言うと嘘くさくなってしまって嫌だけれど。お坊さんみたいに修行すれば、もしかしたら遠くまで「今」を、それこそ宇宙全体の大きさで、長さで、包み込めるのかもしれません。「時間」は「感覚」。自分そのもの。だとしたら、人によってはどこまでも行けてしまうのかもしれません。タイムマシンにはあまり期待していません。だけど乗ってみたいです。

YES.zeit/hozzy

エジソンさんをちょっと消す。

ユウイチにこないだもらったロウソクがとても綺麗です。
あわせてその後ヴィレッジで買ったちっさいのがたくさん入ったろうそくもとても綺麗です。やつらには明日が来ないから異様に美しくかんじられるんだと思います。紙幣には明日も変わらない価値があるけれど、ろうそくには明日も変わらない価値はもちろん保証されていません。火をともらす瞬間にしか存在理由はない。燃え尽きるまでが存在理由、輝かさ。ロウの塊を眺めているだけじゃ、それはただの塊でしかない。だからもったいないけど燃やしちゃうよ。消えてほしくないけどどんどん光れい。太陽が下って山に埋まる時の何にも変えがたいあの色は、雲の配列や、空気の質感や、月の位置や、その日の俺の機嫌によって、表象されている。明日も同じまだらさはこないだろう、たったの1分がこんなに世界を変えるのかい、あららら、もう後半歩で夜がくる、って予測がありきであの美しさは成り立っている。短いのってなんて重みを帯びるんでしょうか。綺麗だからいつも悲しくなります。夕焼けに意識を持っていかれるたびに穏やかになる心の動きと、同時に、それを腐らせずに奥の方でとっておきたいって、妙に落ち着きのない焦った心持ちにさらされます。悔しいのよ。なんか、とても。
綺麗な夕暮れの日ほど、何故か残念な気持ちになってしょうがなくなってしまうのが我ながら許せん。

どんっ、っべっばんら、ででぐらしかっつぇ、えいらえいらっ、ろ、すんびからん?ぇいら。しおかしかろんんた、でじぇいでじぇいふぉぜふ、じんぎりぎりぎろ、れんたかたんたらどどげらどげらら、

じわじわと流れてくるともしびの中のダンスの振り付けに、にわかに酔ってきた模様です。白ちゃんはグリンテルをなだめ清し、ロクオンさんは夜をじぎりぎりし、ベス●モラ●エディト、空間はより密に、境をなくし、デンデタル。

あのろうそくはあまりにも美しいのです。

はらはらするよほんとに。

グレはある日大きな樹の下で昼寝をした。
樹は尋ねた。
「お前は何ものか」
グレはあまりの疲労のため熟睡し続けた。夢さえ無い眠り。
樹はひたすら尋ねた。
「お前は何者か」
グレは、眠り続けた。自分を自分として存続するために。
樹は、樹らしく、樹の領分の中で、樹を全うする事にした。
「最後に問う、お前は誰だ」
やはりグレは眠りつづけた。

ベランダから見える樹の塊に、ごみ処理煙突の黒ずみに、形無き感触の優しさに。

YES.nuj/hozzy

明けまして。

遅くなりましたが、皆さん明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。今日も寒いですね。
今年で26歳になりますが、未だに夜の便所が恐ろしいです(まじ)
特に、水を流すときがおっかねえ。なんであんなにおっかねえ。
ドアをいつも少しあけたままにしているんですが、その開いてる方じゃない方の蝶つがいで止まってる方がそうすると少し開くじゃないですか?そこがまたおっかねえんです。夜の何かに睨まれてる気がする(だったら全部閉めろっつー話なんですが、全部閉めたら水のながれる音に逃げ場が無くて怖いのです)流す前にいつも2回後ろを見ます。

昔幼稚園あがる前にその蝶つがいの方の隙間から、猿の手みたいのがいきなり出てきて滅茶苦茶パニクったことがありました。これはただの見間違いだったのかも知れないけど、実際、鮮明に、毛もじゃが、ずわっと飛び出してきたんですね。あの瞬間は俺にとってリアルでしかありませんでした(以前もこんなことをコラムでも書いてたけど)見間違いだったとしても、もう二度とあんなものは見たくねえ(ちなみにその手は父親のものとかでは勿論ありません笑、完璧さる系のやつですね)。

友達1は夜に小人がパラシュートで電気の淵から落ちてくるのを見たことがあるそうです。
友達2は夜にオバケのQ太郎みたいのがコタツの向こうで棒2本をカンカン叩いていたのを見たことがあるそうです。
友達3は夜に窓一杯の目玉を見たことがあるそうです。

みんな何故だか夜です。
夜にはなんかがあるのか。
それとも人間の目はやっぱり夜に弱いのか。
ただの錯覚?
それとも実体?
けれども見えたのならそれはその人にとっての現実、リアルです。
自他ともにリアリティーってのは全然ないかもしれないけれど笑。
だけどそれって嘘も本当もなくって、結局それを自分がどう思うかってことでしかないんですよね。おしつけることも、おしつけられることも、超ナンセンス。
自分のみたそのままのものを誰かに貸す術もないし、その逆に誰かにそれを借りることもできないし。
俺のリアルは俺にしかわからんし。誰かのリアルはその誰かにしかわからん。
何も言わなければ、それはその人にとっての侵されることの無い真実になるのに。
喋ると、嘘だなんだ、って変質していくし。
わけわからん、ということにもなるし。
無言って一番きれいなのに。
始まらない分、終わらないからね。
侵さない分、壊されないからね。
かといって何も話さないと、それもまたそれでつまらないのよね。
話さなければ、話さないことも分からないし、話さないことが分かって初めて、今話しているってこともわかる。
疲れやすいくせに、じっとしてられない。
怖いくせに、謎のもつ引力に抗えない。
吐くのに、呑む。

ちなみに、俺が猿の手見たのは真っ昼間でしたのですよ。
はっきり、くっきり。
あれは何だった。
俺にしかわからん。
あれは、あれ。

新年そうそう、さるの話ですいません。ネズミの年なのに。
さっきの便所がひさびさ怖かったもんで。
けど、一度でいいからカッパは見てみたいです。

YES.2008/hozzy

ハノン。

ガーベラはドライにならない雰囲気がしていたけど、なんとかパリパリになりました。東海大の皆さんに文化祭の時もらった花束、今日ようやく「ライトぶらさげ」から解放してやりました。ドライフラワー完成です。とても綺麗な瑞々しい花束を2回に渡って俺らにくれてありがとう。前回はただ枯らすだけで終わってしまったけど、今回はうまく形を残して保存することができました。家に元からついていたわけわからん形した照明にぶらさげて乾燥させていました(最近より郊外に引っ越しました、田舎万歳!)歩くたびに頭にぶつかるちょっと迷惑な照明くん、こんな風に役に立つとは思わんかった。良かったです。

バラ、カーネーション、かすみ草、ガーベラ。花束に詰まっていた彼女たち(くさいですな)、刹那的な美で終わらなくて良かったんじゃないかと勝手にご満悦です。

花って、奇麗ですよねぇ(ダリみたいなヒゲ親父が呟くように妖艶に、大胆に、、真剣に)
これって当たり前のこと?花が綺麗なのは。
この年になってようやく気づきました。
花なんて特に強く興味をもったこともなかったもので(生け花なんてのは未だに植物虐待だと思ってしまう)。

うーん。
いい匂いはしないけど、色が香っている。。ああぁ(バカ)。

乾燥させたほうがいい味だしてる側面もあるのね。

そんな理屈抜きに、形が腐らず残ってよかった。
花は一瞬の輝きが美しいのかもしれないけど、俺もそんな綺麗さをとっておきたくなってしまう。生け花もこれに似た感じなのかな(イメージに残す作業)。よくわかんねえけど。

とりあえず、初めてやったドライフラワー。成功して良かったです。
便所にかざります。
便所はひどい?
それが嫌ならトワレと呼びます。
華々しいトワレは、生活の安定の元です。

便所を馬鹿にするものは便所で泣く。
トイレが華やかなのはとてもうれしいのです。
ありがとう東海大。

YES,flower/hozzy

イグノラビムス。

今また、人生の中の不思議な出来事に出会って驚いています。
今日読んでいた本に「イグノラムス●イグノラビムス(我々は無知である。そして無知であり続けるだろう)」というフレーズが出てきました(われわれは知らないし、決して知ることはないであろう、とかの訳もあるから『世界は自分の感覚の範囲でしか結局はわからない。→重力なんて目に見えないじゃないか!結局仮定でしかない、真理じゃない、さあ重力を見せてくれよ、さあさあさあ!…..え?この体重が重力だって?意味わかんねー!この重さは俺の重ささ。さあさあさあ!!え?リンゴが地面に落ちる?そんなの当たり前じゃないか笑。もっと違う方法で真理ってやつを絶対的に見せてくれよ!…….ん?できない?じゃあきっかり信じるなんて無理だよプロフェッサー笑、そんなあ、常識って言ったってそんなあやふやなものが常識なら幽霊みたいな非科学的なもんだって同じくらい常識的に存在しちまうじゃねえかベイベー』みたいな意味のことなんだろうと思います)
人間には絶対的に到達することができないポイント、例えば自分の存在への謎や、神様が本当にいるのかどうか、目の前のパソコンが自分が見ているとき以外にもちゃんとそこに在るのかどうか(バカらしいけど笑、厳密に考えると俺は俺以外の視点からは確かにパソコンを見ることができねえ)、ちょっとふざけると自分の後ろ姿を生で見ることは一生できない(鏡や映像でしか自分の背中は見られない、中国雑技団は別だけど笑)とか、そう言うことをレイモンさんと言う偉い人が科学に向けて発した言葉らしいです(科学の根本にある客観性の否定)。
とりあえずその内容は置いといて、気になったのがこの「イグノラムス●イグノラビムス」という言葉の響きです。
俺が勝手に自分の造語たちの総称に名付けた「イグノフォン」という響きになんか似てるんです(イグノフォンも造語)。
ちなみにイグノラビムスはラテン語らしいです。
なんだかすげー気になってしまってちょっと調べてみたら、イグノ(igno)はラテン語で「未知」。フォン(phone)はギリシア語で「音」と言う意味を持っているらしいのです(英語のphoneの語源)。
ignoもphoneも英語にもよくでてくるフレーズなので(ignorance→無知、とか)、アルファベットにするとなるほどなあと思えるんですが、このigno-phone(イグノフォン)と言う思いつきと意味への結びつきの偶然性に一人で強烈に鳥肌が立ってしまいました(できれば誰かと一緒にこの激情を分かち合いたかった、正にこの感覚は他の人にとってのイグノラビムス、わけわかんねえ、です。。。)
俗に言ってしまえば、無意識的に英語の響きからこの言葉を思いついたのかも知れませんが、今日に至るまであまり深くは立ち入って考えたことがなかったので、つーか、思い至りもしなかった。
そもそも「思う」というほど考えもしなかった。本当に衝動的にドンッで使っていた。
何を書いているんだろう笑。。。
とにかくイグノフォンは「未知なる音、無知なる音(知ることができ無い音)→意味を持つまえの言葉→感覚のための響き」という意味に変換できるフレーズであることが運命的に判明したのでここに声高らかに表明します(偉そうに)!
本当にその通りに俺は今までの作品の中で使っているので、もし良ければそういう気分でもう一度聴いてみて下さい(偉そうに)

数学系の本(自分が大嫌いな笑)から音楽へ結びつく、やはり俺は人間に造られた世界に人間として生きているんだなと思いました。
論理も哲学ももの凄い密度で音楽と繋がってる。太陽系から見たら笑。
大層でゴミみたいな思考からでる感情をもっと、自分の音楽へ結びつけられたら、と今日も思います。
形式的宗教、宗教的形式はどこまでもうさん臭くてクソだけど、神秘はどこまでも世界に漂っていると強烈に思う。
そう言う意味での神様はいる。宗教を越えたところにいる。
怪しい新興宗教みたいな発言にはとらえないでください笑。
俺たちが生きている事実がもはや宗教の言う神秘を越えている。
存在が美しすぎます。
また酔ってます。

YES.ignophone/hozzy

僕の両指をかすめて。

タバコやお香なんかの灰が皿からこぼれ落ちたとき、もの凄くやってしまった感に侵されて気分が萎える。
こいつがカーペットなんかの繊維系敷物の上に落ちたときなんてのは焦げる恐れと合わせて最悪であります。
灰ってやつはまず指でつかめない。触れたら確実に崩れて余計に始末がつかなくなる。けれど結局どうにかしないといけないもんだから、とてーも優しくこいつをつまもうとする。息も止めて真剣に、です。しかし結果崩壊、固まりは無数の粉にかわる。あらあらやだやだ。だから始めっからティッュペーパーかなんかでごっそりとっちまえばよかったんだバカ、なんて文句垂れたところで結局もう一回同じような行動をとるに決まってる。俺には分かる。つまるとこ面倒くさいんです。初回にティッシュを取りに行くのがすげえ面倒くせえ。崩れたらもっと面倒くさくなるのはわかってるけど、一次的に「ティッシュを取りにいく」という行為が面倒くせえ。二次になって初めてティッシュ登場の具合がおさまりいいのです。
たかが灰でうだうだと失礼。
灰は触れたら崩れてしまう、灰ではなくなってしまう、別の何かに変形する、けれど触れなきゃどうにもできない。
灰は我々人間の言葉のように思えてしまって、わけわからん告白を述べるに至りましてしまいまして。
「つまり言葉は灰ってことさ、マドモアゼル」
体躯を寄せて、儚げに。。。
ぶぶぶぶん。

ふぃー、今日は曲作りはかどりました。色んな意味でとんでもねえの用意しているつもりなのでお楽しみにしていてください。
焼酎が骨身に刺さってしまった、ヨ。
おやすみなさい。

YES.ash/hozzy