藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

カパーゾ。

また、プライベートライアンを観てしまった。
これでおそらく7回目だ。
始めて観たのは小田原のオリオン座という映画館で確か高校1年生の時。
ありえない衝撃をくらって、駅まで友達と無言で帰ったのを覚えています。
オリオン座は潰れてしまいました。

ノルウェイの森とプライベートライアンはほんっとに飽きねえ。
どっちも小説と映画でとても有名な作品なだけに、本当ならもっとマニアックなやつとかを「これが私のお気に入りです」とかって、実は人に言いたいあまのじゃくな自分もいるんだけど(いやらしい笑)、しょうがない。良すぎるもんは良すぎる。

しかしあの映画はどうやって撮ったんだろうって、いつも不安に思ってしまう。本当に撮影中に事故で何人か死んでいるんじゃないかってくらい戦闘シーンが強烈だし、カメラのアングルの捉え方も緊迫感剥き出しで神がかってるし、俺はもちろん戦争に行ったことは無いけど、戦場ってこんななんだって本物を見ているかのようなあのリアル感が半端じゃない。

「戦争」は絶対悪だ!って言うにはいささか複雑な時代背景があったり、当時の政治状況があったりって、人間それぞれのそれこそ「正義」の体系の上で戦いは行われているものだから、むしろ俺みたいな何も知らないやつが「戦争反対!」なんて、その場限りの薄弱な意志と「こわいこわい」って何が恐いのかよくわかっていない無知に等しい経験をもって、世間に誘発されて何事かを叫んだとしても、数時間後にはそんなことすっかり忘れて結局カップラーメンとか食いながらケツをかいてゴロゴロするのが行き着くところです。最悪です。

誰だって殺し合いなんかしたくなんてなかったんだろうけど、するしかなかったんだろうなと戦争資料を見るたびにいつも思います。
誤解を恐れず言うとかの悪名高き某総統さえも悪く思えなくなってしまう時もあります。どの立場に立つかで全然見え方が変わってしまう。
人間全体の目線で見れば、悪い立場なんてないようにも思えてきます。

一番悪いのは、良い悪いで分けるこの世界の法則だと俺は思います。何が悪いのか良くわからないのに、悪いものは悪い、だから疑いなく「悪いの反対!」って、逆に言うともの凄く悪いことのように思えます。
戦争って何に向かってどこから手を付けて理解すればいいのか、あまりにも巨大すぎて俺にはわからなくなってくる。
そして同時に「平和は善」ってものすごく頼りない主張に思えてしまうのは俺だけでしょうか。

ただ、プライベートライアンを観ればそんな頭で考える物事なんてぶっ飛んじまうくらいおっかねーし、戦争の是非うんぬんをおいといて、人間はあんなおもちゃのように死ぬべきではないと思わされます。
映画の中で牛もいっぱい死んで転がっていました。銃弾の盾になったりしながら腐っていくのは、牛にとっても悲しいに決まってる。

そんな複雑怪奇な戦争や人間へのテーマをハイクオリティーなエンターテイメントに仕上げたスピルバーグってどんな人なんだろうって今更ながらすっげー気になる。こないだ拓郎に薦められて「ジョーズ」もまた見たけど、あれも凄いし笑。あのおじさんが見ている人間への眼差しを一度で良いから俺の濁ったマナコと交換してほしいなああ。

YES.ryan/hozzy

あの化け物は狂ってやがる。

風の谷のナウシカのアニメになる前の原作、さっき読み終えてぶるっときてます。
今更ながら、こりゃすげえ。
ずーっと前からうちの旧スタッフのユウスケに「読め、絶対!」と薦められていたんだけど、なんかずっと無視してた笑。
いや、すまんミタケ殿。すごい事になっていたよほんと。

アニメ版のやつは何度も何度も見ていたけど、結局原型のほんの一握りしか見ていなかったんですね。奥深い映画だとは思っていたけれど、もっとずっと遠いところにこんなおっかないもんが配置されていたとは知らなんだ。ジョッキリされちゃいました。

巨神兵オーマのポジションには本当にずーんとなりました。空を飛んでいる彼の姿が特に救いようがない印象をびしばし放っているように思えてしまって、過去の回想シーンで巨神兵が集団で空を飛んでいる画は、小さいカットなのに今も強烈に頭の中に残っています。ただの兵器じゃなかったと話の中で仄めかされていたけど、あれは何だったんだろうってどえらく気になっている始末。

巨神兵が「調停者」ってのは彼らの生みの親が彼らにインプットした名目上の役割で、結局世界再生のために作られた「兵器」だったのか、それとも本当に何事かの「調停者」として役割を与えられながら生まれてきた疑似神様みたいなものだったのか、それともまだ想像もつかないような秘密がもっとよく読めば現れてくるのか、ぐるぐると色々想像してしまいます。
でも、どれにしても結局悲しい理由があるような気がするのは否めないし、だからこそこの物語の中でオーマは一番美しく思えました。あと、清浄になった世界に成仏していった皇弟の魂。最後の彼の魂の無邪気さに泣きそうになった。

らんっ、らーらららんらんらん…、らんっ、らーらららーーん…。

あの不気味なシーンのような感触をじっくりと眺められた全七巻でした。

ユパ様に合掌。

YES.daikaishou/hozzy

ヒグラシの声からヒノキの匂いがする件。

然も暗。
然と暗は友達のようで「も」で語り合っている。

ヒロシゲと散歩。
ひぐらしが鳴き始める。
ファミリーマートの横でプールの匂い。
セミは夜には鳴かない。

扇風機の「せ」と「ぷ」の調和が傾く。
るくるく、と云う。

な、な、な、な、な、な、な、
な、な、な、な、な、な、な、
72の200七夏です。
九官鳥の9から2をひいてみる。

スパナのぎらつきから。
汎月論を支持します。
ルニロ。

ここまでの文章を90°傾けてビルに見せる。

シャガールの絵に月の光をかけて食べてみたいと思う。
水を滑らす。
渦巻く泡は虹のカプセル。

ケミカル“ゴッド”ブラザーズ。
セックス“アンチ”ピストルズ。
ブロック“デヴル”パーティー。

「私」と「全て」

全てから私が生まれ。
私から「全て」が生まれ。
そして全てが生まれ。
私が《私》を生んだ。
全ても「全て」も「私」も生んだ私。
全てが私を生んだ後にそれを生んだ私。
親は子に。
子は親に。

回想。

まだ起きないように眠ろう。
「まだ、起きない、ように、眠ろう」
この違和感を人にうち明ける言葉がどこかにある。

森が夏の風でふるえる。

YES.ankone/hozzy

ささくれ。

ぶっちゃけ俺は純粋さというものを基本的に憎む性質です。

純粋さは純粋であればあるほど攻撃力が高くなり、逆に防御力は弱くなるように感じます。

削られた鉛筆の芯のようなこいつに何度深く刺されたか。

逆に俺のは何度折られたことか。

人の純粋さに傷つけられる時が一番ぶっ壊れそうになる。

透明であればあるほど痛いいたい。

しかし憎しみと愛は表裏一体とはよく言ったもんですが、こんだけ自分で怖れている純粋さと言うものに傷つけられること、特に自分も本当に純粋さが高まって防御力が落ちている状態で傷つけられること、これを心のどっかで期待している自分も正直いるので面倒くさい。マゾか笑。いや、サドだ。

 

純粋さを全く持ち合わせない人間なんていないし、勿論俺の中にもあるわけで、要は人間性としてそれが浮かび上がるのはその人その人がそれを擁する多寡によるってことだろうから(失っていないとロマンチックに言った方が良いのかな)、俺は純粋さ自体を憎むというより、純粋さを表面に多くまとって見えるということが鬱陶しく、とても鬱陶しく感じます。

この世界には純粋さを装った不純が多すぎるし、何より仮に本当の純粋さだとしても表面にまとってるのなんて見たくねえ。

純粋さっていうものは俺にとってとにかく面倒くさい。

だから憎くもあり愛しくもあるんだけど。

 

 

北海道、マジいいとこですね。

Air-G様ありがとうございました。

ライブも打ち上げも本当にいい空間を提供して下さって感無量でした。

北海道の人たちの純粋さはとても慎み深い。

なんか滞在中に漠然と感じまして、純粋さっつーのはなんだべと考えてしまい今日は長い前置きを書いてしまった。

つまるところ北海道は素敵だ、と、そういうことです!

 

つーか食いもんうますぎ。

 

YES.ezo!/HOZZY

カランコロン。

水のように薄いブルーのセロファンを越したような夜明けの薄明かり。
きれい。
こんな光加減の映像集があったなあ、となんだか泣きたくなるような気持ちでぼんやりしています。ふと目が覚めてしまいました。

「自然をお前が解った気になるな」
どこからともなくまだ何かの声が自分に向かって喋っています。
昨日の夜聴いていたドビュッシーの月の光も大音量で頭の中に流れています。
まだぼんやりとした頭の中で響くこの声も、今のこのうすら哀しい気持ちとその言葉の体感へのリアリティも、だんだんと目が覚めるに従って霧のように薄れていってしまうんだろうな、と思っていたらまた少し目が覚めてきました。
現に今、文章にしながらさっきのあの純粋な感覚が思考の枠組みに向かってどんどん統制されていっています。半分くらいはもう死んでしまった。こっちに来ると、あっちが偽物のような気になってくる。さっきはこっち側が偽物っぽかったのに。

「自然を俺がどうして解る?」
音階の数も、「夜明け」の光も、窓から見える「緑」の森も、5;35分のこの時間も、この「哀しい」という気持ちも、自然ではない?
人間としてのフィルターを通してしか「ここ」に居られない自分に、本当の意味での「自然」など解るはずも無い。自然は人間の都合で構成されている。「山」なんて意味の枠組みは自然にとって何の意味も必要もない。
この「自然」という言葉の意味さえも人間の都合で存在している。五感のない岩に「自然」なんて言葉が必要でしょうか?いるはずもない。
「解った気になるな」
ごもっともです。
自然本来の姿は「不自然」でなくてはならない。
人間に統制された自然が自然であるなんておかしな話です。

ならば、その本来的自然には人間としての自分には絶対手が届かない?

けれど美しいこの朝は紛れもなく美しい。

人間的解釈で感じる美しさを他の何が必要とするでしょうか。それは俺たちだけに響けば十分だ。うん。スズメはスズメ、ヒトはヒト。

ドビュッシーの曲を聴くといつも人間の範囲を超えた感覚を、どうにかして人間的感覚に変換して表現しようとしているような気がして震えます。超すげえ。

完全に寝ぼけが消え去って、今日のライブのことを考えています。ツアーファイナルどうなるかな。目が覚めた今、もう「自然」なんてどうでもよい笑。
今日のライブを人間として精一杯楽しむのみ。
レモンホールでお会いしましょう。

YES.Clair De Lune/hozzy

ありがとうございます。

今年も祝いの言葉をたくさんありがとうございます。一年前からもう一年たったのかー。。。と当たり前の事がやけにはっきりした一日でした。誕生日はきりっとしますね。この一年で成し遂げられなかったたくさんの事や、新しく気づいた今まで見えなかった事をもっとゴリゴリと磨いていきたいと思います。ツアー残りもよろしくです。シェーシェー!!

YES.Debussy/hozzy

キコリ。

細かい雨のせいで静かな夜です。私は何だか眠れなくなってきてしまいました。帰りがけに飲んだぬるめのエスプレッソのせいかもしれません。
今、ペンを撫でながらノートを眺めています。何本もの横線のあいだに雨と私の関係についての考えを書き連ねました。箇条書きで簡潔に9番まで。

孤独な人間だと思いますか?
今夜は細かい雨のせいでひどく静かでひとりぼっちなのです。
部屋は四角でかどは硬いです。電気もぼやけている気がします。
薬指の爪の根元にささくれも発見してしまいました。
けれど彼はきっとこう言って笑うでしょう。
「本当に孤独な人間は自分が孤独だなんて気づいちゃいないよ」
そして、ふん、と言って、こう付け加えます。
「ご飯を食べてる最中に“私はご飯を食べている”なんて考える人間がいるかい?」
ひどい言葉です。
けれど彼はそういう人です。

私は孤独をブロックのようにして引き出しにしまっておいています。
そしてそれをこんな雨の夜にだけ空に積み上げて行くのです。
コトリコトリ。
もちろん孤独に形なんてありません。
形のあるものはこの手で触れられるものだけです。
けれど私は形のないそれとどこかで触れ合って確かにどこかで見ている気がします。
それは大きいのもあれば小さいのもあります。
丸いのもあれば長細いのもあります。
だからそれを引っ張ったり削ったりして徐々にブロックに変えていくのです。
小さい欠片のようなものは粘度のようにくっつけてしっかりした一個にします。そんな風にしてブロックを集めていきます。
そしてこんな静かな雨の夜にだけその立方体を積んでいくことを自分に許しているのです。
雨雲の上に浮かぶ小さなブラックホールへの到着を想像しながら。

外は奇妙なほど静かな夜です。
窓が濡れていて、近くの電灯がいつもより遠い所にあるような気がします。
宇宙に浮かんでいるガスのように窓をぼんやりオレンジ色にくすませています。雨はこの世界で一番穏やかな「了解」のように感じます。
「了解」というのも変な気がしますが、
「誰にも疑われず、驚かれず、ただやってきて、去って行く」というような感じの了解です。
まるでわたしにとっての「わたし」という存在のようです。

最近私は、私についてよく考えます。
まるで思春期に逆戻りしたかのような悩みですが、それとはまた違ったもやもやなのです。
それは、私は「私」ではない、ということことなのです。
変な話ですか?
はい。
けれど私には変だとは思えないのです。
それは、人が「私」と言う言葉を使うとき、「私」という言葉はどの人にとっても「私」という意味を持ってしまうからなのです。
私が自分を「私」と言い、あなたも自分を「私」と言う。
世界中の人々と同じ数だけ「私」という人々がいる。
おかしな話です。一体この「私」は人の何を指しているのでしょうか。
どの人の上をも渡り歩く「私」。
なんて本当の意味からかけ離れた言葉なんでしょう。
ぺらぺらと風に飛ぶちり紙のようです。
かといって「キリコ」という両親からもらったこの名前も私ではありません。
「キリコ」は世界中にたくさんいるし、仮に私が父に「ぺるにょんて」なんて変てこな世界で唯一人の名前をつけられたとしても、それは名前という点で「キリコ」と何の違いもありません。
もし私が記憶喪失になって「ぺるにょんて」という自分の名前を失ったとしたらどうなるでしょうか。
なんのことはありません。
記憶を欠きながらも私はそこに存在しています。
「キリコ」でなくても「ぺるにょんて」でなくてもそこに存在している私。
むしろ「キリコ」という名前を受ける対象を存在させている私。
しかも私は「私」ではありません。
では何と呼べばいいのでしょうか?

野良イヌやトカゲの方があるいは自分の存在についてもっとわかっているのかもしれません。
ネコのようにニャー、と雨の中を走りだしたい気分です。
言葉はただ私たちが感じるかたちについた、単なる呼び名です。
本物は名もなき形そのもののような気がします。
窓から見えるライトに照らされた駐車場は、誰かに切り取られて打ち捨てられたかのように音も無く危うげに立っています。
この雨を「雨」と呼ぶこともなく、この私を「あなた」と呼ぶこともなしにただ立っています。

テーブルの上のプラムがすっぱそうです。

YES,amaotone/hozzy

象。

お台場でやっているグレゴリーコルベールという人の展覧会に行ってきました。写真展というのか映像展というのかとにかく幅が広い芸術展覧会みたいな感じで、会場も日本の建築家が設計した独特な移動式コンテナでできていました。近くで売っていたシシカバブがやけに美味かった。久々食った。で、エントランスを抜けて入場したら民族系のエレクトロニカとゆるやかな照明、床には敷き詰められた石と木の板と、そして天井からは信じられないくらい幻想的な写真が吊るされていました。とりあえずそれ見た瞬間「やべー」の「や」の字もでてこなかった笑。久々唖然として冷たい鳥肌が立ちました。写真なんて専門的には全くわからないド素人の俺が普段見慣れているいわゆる「写真」なるものとは色味も、なんて言ったらいいのかわからないけど捉え方のコンセプトみたいなものも全然違っていて、その画ごとに写し出されていたのは本当にもしどこかに天国があるとしたらこんなところだろうなー、というくらい美しくてファンタスティックな写真ばかりでした。映像も、「よくこんなのとれたな笑」と思わされるくらいにそのアイデアの凄さとグレゴリーさんのただならぬ根性をただただ感じました。すげー綺麗なんだけど、すげー大変だったんだろうなー、と10分くらい観た後辺りからなんやらかんやらいらんことばかり色々考えてしまいました(いささか長かったので笑)。写真集ほしかったけど、ちょいと高かったので無料パンフレットで我慢しました。それでも表紙の写真で十分素敵。荒涼とした世界にすわっている象の前で本を読む子供の写真。夢で見そうだ笑。

最近は映画もたくさん観ました。本も何冊か読み終えました。
前もいつかのコラムで書いたけど村上春樹氏の「ノルウェイの森」が、俺はもうなんでか知らないけど気違いなほど好きみたいで、上巻を4冊下巻を5冊持っています。旅やらツアーやらにでたりすると何故かやたらと読みたくなって何度も買っちゃうんだよね。実はインド行った時もこれだけは持っていきました、服は2着しか持って行かなかったけど笑。で、とうとうあまりにも好きすぎて英訳版にもに手を出してしまい、長い時間かけてようやく今日読み終えました。英文でよんでも素晴らしくセンチメンタルで哀しくてまた泣きそうになりました。何カ所かオリジナルバージョンの時には特に何も感じなかった箇所で、英語だとすごい感動するところがあったりして、新たな「ノルウェイの森」の発見もあって、さらにこの小説の吸引力に拍車がかかってしまいました。言葉が違えば表現が違うのは当たり前なんだけど、それがどういう風に実際そう感じるのかがなんとなくわかったような気がしました、なんてまだまだ言えないペーペーな俺ですが笑、このために英単語帳一冊をちょっと暗記してみたり、英語に詳しい友達に言葉の意味を尋ねてみたり、受験生みたいになってる自分が単純に新鮮で面白かったです。まあそんだけこの小説が俺は好きなんだなー。三島の金閣寺もいいねー、こないだ読み返したらやっぱ好きです。えぐってくる。ぐりぐりしてる。

さあてさてそろそろツアーが始まるぞ。水をたくさん飲んで今回は万全の態勢で臨みますので、よろしくー。

YES.storm?trooper/hozzy

空を作りたくなかった。

いやはや、新曲賛否両論のようですね笑。わたくし的にとても嬉しいです。というか「え?これでいいの‥‥?」っていう意見がなかったら逆に涙がでてきます。だって“普通”に考えたら全然“普通”じゃないもの。だって変じゃん笑!全然メジャーっぽくないし。今回何の摩擦も無く「いいね!」って言われてもそれは全然「良い」じゃない。それは「良い」ふりをした「空っぽ」と同じです(逆に、心の底から良いと思ってくれた方はきっと俺たちの音と信じられないくらいスピーディーな意思疎通があったと思います笑)。拓郎もブログで書いていたけど、藍坊主を聴いてくれる方々を遠ざけたいんじゃなくて更にもっと近づきたいからこその今回の新曲です。裏切るわけないじゃないですか笑、だって今まで通りにやろうと思えばそうやることだってできますのですよ全くもって(違う意味で裏切っていきたいと常に思ってはいますけど)。過去の作品を否定しているわけでもなく、そのスタイルを捨てようとしているわけでもありません。今でも俺の心はパンクソウルで燃えていますよ笑。より昔より慣例に対してアンチになる気持ちはむくむくと育ってきています。パンクとは反体制です。俺は基本そっちよりです。というか、むしろ今回の作品を通して今まで自分たちが作ってきた音楽をもっと愛する事が俺はできるようになりました。事実です。俺が今回も造語を使い、なんやら昔に比べたら解りにくい歌詞を書いて歌っていますが、何も難しいことなんか無い。そのまま、そのままです。言葉にできない物事の重要性とそれを言葉にするナンセンスさを歌っているだけです。例えば、例えばね、俺が青森のりんごをめっちゃ好きだったとします。もう本当に好きで好きでしょうがない。「ああああ!俺は青森りんごが大好きだーーー!!!」ってあなたに叫ぶとして。で、どこまで伝わりますかね、この俺のりんごに対する愛情の大きさが笑。愛情は「好き」「愛してる」「必要だ」「無けりゃ死ぬ」などなど、まあいくらか表現方法はあるけれど、結局おれの中で燃えに燃えているこの愛情の熱は完璧には伝えられない。単純に言って、俺とあなたの「好き」って捉え方も感じ方も違うに決まっているんだし、どこまでいっても俺は俺で、君は君なんです。だから、言葉でコミニケーションする人間としての俺たちは、相手の言葉を自分の感覚に変換して始めて理解し合える。ここが大きな問題なんです。だって、それじゃあ、俺の「好き」は永遠に誰にも『実質上』伝えることができないじゃないか、、、ということ。ほら、言葉で説明していくとどんどん面倒くさくなっていくでしょ笑。この、言葉にしないうちの、感覚や、感情って、とてもとても、一人一人にとって優しくて輝いていて純粋なものだと俺は思うんです。「言葉にできない美しさ」ってよくあるけれど、それってなんか解るでしょ?しゃべると壊れてしまう空気になる前の空気みたいなやつ。それを今回新曲に、「空を作りたくなかった」にパックしたつもりです。つーか、本当はこんなことを補足として書くのって“音楽”としてはとても不純であると思っているんですが、まあ俺たちがいつもぴょんぴょん飛び回ってるんで笑、やっぱ必要なのかなと思いました。解りにくくてごめんなさい。が、これは進化でも、進歩でもなく、闘いなのです。拓郎がいった「誇り」も含めてね。俺には本当に「世界」がねじまがって見える。世界がなんぞやという尺度さえ世界は考えようともしない。おかしいよ。狂ってる。俺は自分が立っている場所をしっかりと明かそうとしている。音楽の美しさと素晴らしさと誠実さに近づこうとしている。つまらん曲をつくってため息ついてわけわからん世界に合わせて自分たちの枠を作って疑いをもつべき所に疑いをもたず畏まって自分を“およそに”確定する、くそくらえだろ、そんなの。俺があの日言った「目指すべき高み」は俺たちが作るべき場所です。世界にある場所では断じて無い。そこは言わせてもらいます笑。包括して、自分たちの音楽を包み込んで、俺は最上級で肯定する。心配しなでください、俺たちは過去を捨てたわけではないのです、国を作っているだけなのですよ笑。不安にさせてしまったあなた。ツアーに絶対来い!きっと安心できると思うよ笑。

YES,sorawotsukuritakunakatta/hozzy

もうあったんだ。

ところでさ、カンディンスキー知ってる?

なんだっけそれ。

アマデウスは?

モーツァルト?

ミルキーは?

ママの味のやつ?

トリケラトプスは?

恐竜?

スフィンクスは?

エジプトのなんかでかいやつ。

じゃあ、エジプトってなに?

エジプト?エジプトはあのエジプトだよ。ミイラで有名な国。アフリカの上の方の国。

じゃあさ、国ってなに?

国?国は、くに、国だよ。ほら、ここの僕らが今いる場所。足で踏んでみ。この踏んでるところが国。日本。

僕が踏んでるの土じゃん。雑草じゃん。ねえ国ってなに?

だからこの空間のことだよ。

さっきは地面のこと国って言っていたのにな。おかしいな。

おいおい、普通にひろーく考えろよ。

うーん。土は土で、雑草は雑草で、土は国で、雑草は国ってこと?ねえ、なんか変じゃない?土は土だし雑草は雑草だもの。あのさ、国ってなに?

あのね、土も雑草も国なんだよ。国の一部で空も雲も土も雑草も全部「国」。一緒なの。そういう風になってるの。

それ、だれがきめたの?

そんなの知らないよ。気づいた時にはあったんだ。

ふやけてるねー。

おまえの頭がふやけてるんだ。

おまえってだれ?

おまえはおまえだ。

ぼくは、ぼくだよ。やめてくれよ。

おまえはおまえだろ。

違うよ。てゆうかきみはだれ?

ぼくはぼくだ。

ちょっと待ってよ。ぼくが「ぼく」だよ。

ああ!ねえ、ぼくも「ぼく」だし、きみも「ぼく」なんだ。習わなかったの?

だって変じゃない?ぼくが「ぼく」なのに、きみも「ぼく」だなんて滅茶苦茶じゃないか?じゃあもう一度聞くけど、きみは「ぼく」?

ぼくはぼくだ!

ほら、へんだ。ぼくがぼくだよ。

この野郎。

野郎じゃない。僕だ。

ああ面倒くせえ。じゃあもういいよ。きみが「ぼく」で。勝手にしてくれ。

言っちゃった。本当にいいの?

いいよ。

じゃあきみはあのトラックに乗らなくちゃ。

なにそれ。

工場にいくんだよ。

そうなの?。

ほら、あの運転手と助手。意味わかるだろ?

わからないよ。

とりあえず、あのトラックに乗るんだよ。

ドナドナみたいに?

そう、あの悲しい歌みたいに。

それはちょっとさみしいな。

さみいしいよ。

やっぱぼくのぼくかえしてくれよ。

ババロアが食いたいんだ。

YES.dona/hozzy