藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

カランコロン。

水のように薄いブルーのセロファンを越したような夜明けの薄明かり。
きれい。
こんな光加減の映像集があったなあ、となんだか泣きたくなるような気持ちでぼんやりしています。ふと目が覚めてしまいました。

「自然をお前が解った気になるな」
どこからともなくまだ何かの声が自分に向かって喋っています。
昨日の夜聴いていたドビュッシーの月の光も大音量で頭の中に流れています。
まだぼんやりとした頭の中で響くこの声も、今のこのうすら哀しい気持ちとその言葉の体感へのリアリティも、だんだんと目が覚めるに従って霧のように薄れていってしまうんだろうな、と思っていたらまた少し目が覚めてきました。
現に今、文章にしながらさっきのあの純粋な感覚が思考の枠組みに向かってどんどん統制されていっています。半分くらいはもう死んでしまった。こっちに来ると、あっちが偽物のような気になってくる。さっきはこっち側が偽物っぽかったのに。

「自然を俺がどうして解る?」
音階の数も、「夜明け」の光も、窓から見える「緑」の森も、5;35分のこの時間も、この「哀しい」という気持ちも、自然ではない?
人間としてのフィルターを通してしか「ここ」に居られない自分に、本当の意味での「自然」など解るはずも無い。自然は人間の都合で構成されている。「山」なんて意味の枠組みは自然にとって何の意味も必要もない。
この「自然」という言葉の意味さえも人間の都合で存在している。五感のない岩に「自然」なんて言葉が必要でしょうか?いるはずもない。
「解った気になるな」
ごもっともです。
自然本来の姿は「不自然」でなくてはならない。
人間に統制された自然が自然であるなんておかしな話です。

ならば、その本来的自然には人間としての自分には絶対手が届かない?

けれど美しいこの朝は紛れもなく美しい。

人間的解釈で感じる美しさを他の何が必要とするでしょうか。それは俺たちだけに響けば十分だ。うん。スズメはスズメ、ヒトはヒト。

ドビュッシーの曲を聴くといつも人間の範囲を超えた感覚を、どうにかして人間的感覚に変換して表現しようとしているような気がして震えます。超すげえ。

完全に寝ぼけが消え去って、今日のライブのことを考えています。ツアーファイナルどうなるかな。目が覚めた今、もう「自然」なんてどうでもよい笑。
今日のライブを人間として精一杯楽しむのみ。
レモンホールでお会いしましょう。

YES.Clair De Lune/hozzy

ありがとうございます。

今年も祝いの言葉をたくさんありがとうございます。一年前からもう一年たったのかー。。。と当たり前の事がやけにはっきりした一日でした。誕生日はきりっとしますね。この一年で成し遂げられなかったたくさんの事や、新しく気づいた今まで見えなかった事をもっとゴリゴリと磨いていきたいと思います。ツアー残りもよろしくです。シェーシェー!!

YES.Debussy/hozzy

キコリ。

細かい雨のせいで静かな夜です。私は何だか眠れなくなってきてしまいました。帰りがけに飲んだぬるめのエスプレッソのせいかもしれません。
今、ペンを撫でながらノートを眺めています。何本もの横線のあいだに雨と私の関係についての考えを書き連ねました。箇条書きで簡潔に9番まで。

孤独な人間だと思いますか?
今夜は細かい雨のせいでひどく静かでひとりぼっちなのです。
部屋は四角でかどは硬いです。電気もぼやけている気がします。
薬指の爪の根元にささくれも発見してしまいました。
けれど彼はきっとこう言って笑うでしょう。
「本当に孤独な人間は自分が孤独だなんて気づいちゃいないよ」
そして、ふん、と言って、こう付け加えます。
「ご飯を食べてる最中に“私はご飯を食べている”なんて考える人間がいるかい?」
ひどい言葉です。
けれど彼はそういう人です。

私は孤独をブロックのようにして引き出しにしまっておいています。
そしてそれをこんな雨の夜にだけ空に積み上げて行くのです。
コトリコトリ。
もちろん孤独に形なんてありません。
形のあるものはこの手で触れられるものだけです。
けれど私は形のないそれとどこかで触れ合って確かにどこかで見ている気がします。
それは大きいのもあれば小さいのもあります。
丸いのもあれば長細いのもあります。
だからそれを引っ張ったり削ったりして徐々にブロックに変えていくのです。
小さい欠片のようなものは粘度のようにくっつけてしっかりした一個にします。そんな風にしてブロックを集めていきます。
そしてこんな静かな雨の夜にだけその立方体を積んでいくことを自分に許しているのです。
雨雲の上に浮かぶ小さなブラックホールへの到着を想像しながら。

外は奇妙なほど静かな夜です。
窓が濡れていて、近くの電灯がいつもより遠い所にあるような気がします。
宇宙に浮かんでいるガスのように窓をぼんやりオレンジ色にくすませています。雨はこの世界で一番穏やかな「了解」のように感じます。
「了解」というのも変な気がしますが、
「誰にも疑われず、驚かれず、ただやってきて、去って行く」というような感じの了解です。
まるでわたしにとっての「わたし」という存在のようです。

最近私は、私についてよく考えます。
まるで思春期に逆戻りしたかのような悩みですが、それとはまた違ったもやもやなのです。
それは、私は「私」ではない、ということことなのです。
変な話ですか?
はい。
けれど私には変だとは思えないのです。
それは、人が「私」と言う言葉を使うとき、「私」という言葉はどの人にとっても「私」という意味を持ってしまうからなのです。
私が自分を「私」と言い、あなたも自分を「私」と言う。
世界中の人々と同じ数だけ「私」という人々がいる。
おかしな話です。一体この「私」は人の何を指しているのでしょうか。
どの人の上をも渡り歩く「私」。
なんて本当の意味からかけ離れた言葉なんでしょう。
ぺらぺらと風に飛ぶちり紙のようです。
かといって「キリコ」という両親からもらったこの名前も私ではありません。
「キリコ」は世界中にたくさんいるし、仮に私が父に「ぺるにょんて」なんて変てこな世界で唯一人の名前をつけられたとしても、それは名前という点で「キリコ」と何の違いもありません。
もし私が記憶喪失になって「ぺるにょんて」という自分の名前を失ったとしたらどうなるでしょうか。
なんのことはありません。
記憶を欠きながらも私はそこに存在しています。
「キリコ」でなくても「ぺるにょんて」でなくてもそこに存在している私。
むしろ「キリコ」という名前を受ける対象を存在させている私。
しかも私は「私」ではありません。
では何と呼べばいいのでしょうか?

野良イヌやトカゲの方があるいは自分の存在についてもっとわかっているのかもしれません。
ネコのようにニャー、と雨の中を走りだしたい気分です。
言葉はただ私たちが感じるかたちについた、単なる呼び名です。
本物は名もなき形そのもののような気がします。
窓から見えるライトに照らされた駐車場は、誰かに切り取られて打ち捨てられたかのように音も無く危うげに立っています。
この雨を「雨」と呼ぶこともなく、この私を「あなた」と呼ぶこともなしにただ立っています。

テーブルの上のプラムがすっぱそうです。

YES,amaotone/hozzy

象。

お台場でやっているグレゴリーコルベールという人の展覧会に行ってきました。写真展というのか映像展というのかとにかく幅が広い芸術展覧会みたいな感じで、会場も日本の建築家が設計した独特な移動式コンテナでできていました。近くで売っていたシシカバブがやけに美味かった。久々食った。で、エントランスを抜けて入場したら民族系のエレクトロニカとゆるやかな照明、床には敷き詰められた石と木の板と、そして天井からは信じられないくらい幻想的な写真が吊るされていました。とりあえずそれ見た瞬間「やべー」の「や」の字もでてこなかった笑。久々唖然として冷たい鳥肌が立ちました。写真なんて専門的には全くわからないド素人の俺が普段見慣れているいわゆる「写真」なるものとは色味も、なんて言ったらいいのかわからないけど捉え方のコンセプトみたいなものも全然違っていて、その画ごとに写し出されていたのは本当にもしどこかに天国があるとしたらこんなところだろうなー、というくらい美しくてファンタスティックな写真ばかりでした。映像も、「よくこんなのとれたな笑」と思わされるくらいにそのアイデアの凄さとグレゴリーさんのただならぬ根性をただただ感じました。すげー綺麗なんだけど、すげー大変だったんだろうなー、と10分くらい観た後辺りからなんやらかんやらいらんことばかり色々考えてしまいました(いささか長かったので笑)。写真集ほしかったけど、ちょいと高かったので無料パンフレットで我慢しました。それでも表紙の写真で十分素敵。荒涼とした世界にすわっている象の前で本を読む子供の写真。夢で見そうだ笑。

最近は映画もたくさん観ました。本も何冊か読み終えました。
前もいつかのコラムで書いたけど村上春樹氏の「ノルウェイの森」が、俺はもうなんでか知らないけど気違いなほど好きみたいで、上巻を4冊下巻を5冊持っています。旅やらツアーやらにでたりすると何故かやたらと読みたくなって何度も買っちゃうんだよね。実はインド行った時もこれだけは持っていきました、服は2着しか持って行かなかったけど笑。で、とうとうあまりにも好きすぎて英訳版にもに手を出してしまい、長い時間かけてようやく今日読み終えました。英文でよんでも素晴らしくセンチメンタルで哀しくてまた泣きそうになりました。何カ所かオリジナルバージョンの時には特に何も感じなかった箇所で、英語だとすごい感動するところがあったりして、新たな「ノルウェイの森」の発見もあって、さらにこの小説の吸引力に拍車がかかってしまいました。言葉が違えば表現が違うのは当たり前なんだけど、それがどういう風に実際そう感じるのかがなんとなくわかったような気がしました、なんてまだまだ言えないペーペーな俺ですが笑、このために英単語帳一冊をちょっと暗記してみたり、英語に詳しい友達に言葉の意味を尋ねてみたり、受験生みたいになってる自分が単純に新鮮で面白かったです。まあそんだけこの小説が俺は好きなんだなー。三島の金閣寺もいいねー、こないだ読み返したらやっぱ好きです。えぐってくる。ぐりぐりしてる。

さあてさてそろそろツアーが始まるぞ。水をたくさん飲んで今回は万全の態勢で臨みますので、よろしくー。

YES.storm?trooper/hozzy

空を作りたくなかった。

いやはや、新曲賛否両論のようですね笑。わたくし的にとても嬉しいです。というか「え?これでいいの‥‥?」っていう意見がなかったら逆に涙がでてきます。だって“普通”に考えたら全然“普通”じゃないもの。だって変じゃん笑!全然メジャーっぽくないし。今回何の摩擦も無く「いいね!」って言われてもそれは全然「良い」じゃない。それは「良い」ふりをした「空っぽ」と同じです(逆に、心の底から良いと思ってくれた方はきっと俺たちの音と信じられないくらいスピーディーな意思疎通があったと思います笑)。拓郎もブログで書いていたけど、藍坊主を聴いてくれる方々を遠ざけたいんじゃなくて更にもっと近づきたいからこその今回の新曲です。裏切るわけないじゃないですか笑、だって今まで通りにやろうと思えばそうやることだってできますのですよ全くもって(違う意味で裏切っていきたいと常に思ってはいますけど)。過去の作品を否定しているわけでもなく、そのスタイルを捨てようとしているわけでもありません。今でも俺の心はパンクソウルで燃えていますよ笑。より昔より慣例に対してアンチになる気持ちはむくむくと育ってきています。パンクとは反体制です。俺は基本そっちよりです。というか、むしろ今回の作品を通して今まで自分たちが作ってきた音楽をもっと愛する事が俺はできるようになりました。事実です。俺が今回も造語を使い、なんやら昔に比べたら解りにくい歌詞を書いて歌っていますが、何も難しいことなんか無い。そのまま、そのままです。言葉にできない物事の重要性とそれを言葉にするナンセンスさを歌っているだけです。例えば、例えばね、俺が青森のりんごをめっちゃ好きだったとします。もう本当に好きで好きでしょうがない。「ああああ!俺は青森りんごが大好きだーーー!!!」ってあなたに叫ぶとして。で、どこまで伝わりますかね、この俺のりんごに対する愛情の大きさが笑。愛情は「好き」「愛してる」「必要だ」「無けりゃ死ぬ」などなど、まあいくらか表現方法はあるけれど、結局おれの中で燃えに燃えているこの愛情の熱は完璧には伝えられない。単純に言って、俺とあなたの「好き」って捉え方も感じ方も違うに決まっているんだし、どこまでいっても俺は俺で、君は君なんです。だから、言葉でコミニケーションする人間としての俺たちは、相手の言葉を自分の感覚に変換して始めて理解し合える。ここが大きな問題なんです。だって、それじゃあ、俺の「好き」は永遠に誰にも『実質上』伝えることができないじゃないか、、、ということ。ほら、言葉で説明していくとどんどん面倒くさくなっていくでしょ笑。この、言葉にしないうちの、感覚や、感情って、とてもとても、一人一人にとって優しくて輝いていて純粋なものだと俺は思うんです。「言葉にできない美しさ」ってよくあるけれど、それってなんか解るでしょ?しゃべると壊れてしまう空気になる前の空気みたいなやつ。それを今回新曲に、「空を作りたくなかった」にパックしたつもりです。つーか、本当はこんなことを補足として書くのって“音楽”としてはとても不純であると思っているんですが、まあ俺たちがいつもぴょんぴょん飛び回ってるんで笑、やっぱ必要なのかなと思いました。解りにくくてごめんなさい。が、これは進化でも、進歩でもなく、闘いなのです。拓郎がいった「誇り」も含めてね。俺には本当に「世界」がねじまがって見える。世界がなんぞやという尺度さえ世界は考えようともしない。おかしいよ。狂ってる。俺は自分が立っている場所をしっかりと明かそうとしている。音楽の美しさと素晴らしさと誠実さに近づこうとしている。つまらん曲をつくってため息ついてわけわからん世界に合わせて自分たちの枠を作って疑いをもつべき所に疑いをもたず畏まって自分を“およそに”確定する、くそくらえだろ、そんなの。俺があの日言った「目指すべき高み」は俺たちが作るべき場所です。世界にある場所では断じて無い。そこは言わせてもらいます笑。包括して、自分たちの音楽を包み込んで、俺は最上級で肯定する。心配しなでください、俺たちは過去を捨てたわけではないのです、国を作っているだけなのですよ笑。不安にさせてしまったあなた。ツアーに絶対来い!きっと安心できると思うよ笑。

YES,sorawotsukuritakunakatta/hozzy

もうあったんだ。

ところでさ、カンディンスキー知ってる?

なんだっけそれ。

アマデウスは?

モーツァルト?

ミルキーは?

ママの味のやつ?

トリケラトプスは?

恐竜?

スフィンクスは?

エジプトのなんかでかいやつ。

じゃあ、エジプトってなに?

エジプト?エジプトはあのエジプトだよ。ミイラで有名な国。アフリカの上の方の国。

じゃあさ、国ってなに?

国?国は、くに、国だよ。ほら、ここの僕らが今いる場所。足で踏んでみ。この踏んでるところが国。日本。

僕が踏んでるの土じゃん。雑草じゃん。ねえ国ってなに?

だからこの空間のことだよ。

さっきは地面のこと国って言っていたのにな。おかしいな。

おいおい、普通にひろーく考えろよ。

うーん。土は土で、雑草は雑草で、土は国で、雑草は国ってこと?ねえ、なんか変じゃない?土は土だし雑草は雑草だもの。あのさ、国ってなに?

あのね、土も雑草も国なんだよ。国の一部で空も雲も土も雑草も全部「国」。一緒なの。そういう風になってるの。

それ、だれがきめたの?

そんなの知らないよ。気づいた時にはあったんだ。

ふやけてるねー。

おまえの頭がふやけてるんだ。

おまえってだれ?

おまえはおまえだ。

ぼくは、ぼくだよ。やめてくれよ。

おまえはおまえだろ。

違うよ。てゆうかきみはだれ?

ぼくはぼくだ。

ちょっと待ってよ。ぼくが「ぼく」だよ。

ああ!ねえ、ぼくも「ぼく」だし、きみも「ぼく」なんだ。習わなかったの?

だって変じゃない?ぼくが「ぼく」なのに、きみも「ぼく」だなんて滅茶苦茶じゃないか?じゃあもう一度聞くけど、きみは「ぼく」?

ぼくはぼくだ!

ほら、へんだ。ぼくがぼくだよ。

この野郎。

野郎じゃない。僕だ。

ああ面倒くせえ。じゃあもういいよ。きみが「ぼく」で。勝手にしてくれ。

言っちゃった。本当にいいの?

いいよ。

じゃあきみはあのトラックに乗らなくちゃ。

なにそれ。

工場にいくんだよ。

そうなの?。

ほら、あの運転手と助手。意味わかるだろ?

わからないよ。

とりあえず、あのトラックに乗るんだよ。

ドナドナみたいに?

そう、あの悲しい歌みたいに。

それはちょっとさみしいな。

さみいしいよ。

やっぱぼくのぼくかえしてくれよ。

ババロアが食いたいんだ。

YES.dona/hozzy

Lumo。

秋田県の男鹿(おが)へ、「ナマハゲ」に会ってきました。去年の遠野旅行から約一年が過ぎ、前回のカッパ探索から今回はナマハゲ体験へ。
実際、ナマハゲがどういうものなのかってのを運良く実体験することができました。秋田県は男鹿の山奥にある真山神社の側、ナマハゲ資料館並立真山郷土館にてナマハゲ実演の講習会に立ち会うことができました。講習会って言っても堅苦しい講演みたいなものではなく内容は男鹿の年越しを再現する、というものでした。俺も正直ナマハゲについてはよく知らなかったのですが、どうやらナマハゲは秋田の年越しにやってくる神様の使いのようなものみたいです。
「わるいごはいねがー、なぐごはいねがー」って叫びながら出刃包丁を振り回す鬼のような恐ろしい形相をしたあのナマハゲさんです。この講習会、俺含めて五、六人くらいしかいなかったんですが、みんなナマハゲにびびってました笑。だって実際恐いんですもの。人間がナマハゲに扮装してるとは思えなかったくらい。
まず、年越しと言う設定で古い日本の家屋に招き入れられそこで講習の始まるのを各々じっと待っていました。いろりの上には湯気をたゆわせる鉄のやかんみたいなやつがぶらさがっていて、煙の匂いと畳の匂いが混じった何とも日本昔話風な雰囲気の室内でした。そして係の人のナマハゲ説明をボケーっと聞いていたら、そこへいきなりナマハゲがドンドンッと戸を勢いよく叩きながら登場してきました。「ウオー!ウオー!」と叫びながら足をダンダンと踏みならし畳の上にのしのしと上がってきた時、普通に顔が引きつりました笑。こわくって笑。
ここからの実演の流れは、ナマハゲとその家の主との問答から始まり、家主の今年の収穫への感謝、ナマハゲのまた来年への安定した収穫の約束、そして子供たちが隠れている場合はナマハゲの恐ろしいマジかくれんぼ実践、そして最後に家主が餅をナマハゲに渡し、またドンドンと足を踏み鳴らして彼らは次の家に去っていく、という流れでした。「ウオー!ウオー!」がマジすぎてほんと恐ろしかった笑。
この家主とナマハゲの問答には、子供や嫁たちの普段の行いについての質問や「ナマハゲ手帳」なる怪しい手帳に書いてあるナマハゲから見た嫁子供の日々の素行についての言及が繰り返されます。そして「親父よ、子供をもっとしっかり躾けろよ、子供が言うことを聞かなかったら三回手を叩け、そしたらまた儂がやってくるからな」と子供に聞こえるように戒めて、恐ろしさをアピールするようなシーンもありました。
ううーん、と、この講習を見ていて畏怖と同時にふかく感動しました。人間ってやっぱり弱くて強いんだなーと。そもそも「ナマハゲ」と言う名は、「ナモミを剥ぐ」という所からきているみたいです。ナモミとは火型とも言い(毎日働きもせずいろり等でぬくぬくしていると出来る軽い火傷みたいなものをさすみたいです)そんな人間を戒めるために出刃包丁等でナモミを剥ぎにくる鬼のようなものが「ナマハゲ」みたいです。子供にとっての強烈なしつけ道具、怠け者にとっての恐ろしい戒律の権化、村人にとっての豊作をもたらす神の使い、色々な面を持つ「ナマハゲ」は厳しい環境に住む人にとって神様よりもある意味必要とされた生きる力みたいなものだったんじゃないかと俺は思いました。遠野の河童や、様々な伝説もそうだけど、それらも人間が生きるために必要な力の源だったんじゃないかと思います。柳田邦男の「遠野物語」を東京で読んだって「ふーん」で終わってしまうかもしれないけど、現地に行って自分でその場所を歩いたとき「ふーん」以上の大きなエネルギーを感じるのは俺だけじゃないはず。だからこそあの著作や遠野があんなにも支持されているんだろうし、河童にロマンを持って接している人もいるんでしょう笑。
今回の件で更に考えが深められた点は、「人の神への依存性」についてです。なんだかうさん臭いタイトルですが笑、これすげー重要で笑えないことです。
俺たち、今、どこへ行ったって基本電気がある場所で一日を過ごせます。よっぽど物好きでなければ「アンチエレクトロニクス」を掲げる輩はおらんでしょう。神様は「光」にとって変わられてしまいました。
そもそも神様っていうのは光の中には居ない。というか必要がない。とうのも日光があるときって人間は不安にならないからです。実際、神様が必要なのは闇の中です。夜の闇夜があるから太陽に対して人は「おてんとさま」を見る。
だから「神様は光の中に居る」と逆説的にそう俺たちは思う。そして、光=神になる。人間は闇に滅法弱いから。そんな中、現代科学の発達によって俺たちは夜でも光を手に入れた。整備された道路も手に入れた。もう夜の山も恐れることはない。山は肝試しでびびる。くらいなもんです。俺たちはもう新しい「神」を手に入れてしまったんです。「科学」ね。古くさい「山岳信仰」や「地母神信仰」は非科学的とされて、単なる慣例の一種になって地域地域に異なる形で細々と根を下ろしている程度になっている。それはそれで人類の素晴らしい進歩だ!と勿論言えます。便利だし、食いもんは臭くならないし。ただ、面白いなぁと思うのは、その巨大なものへの依存具合は全く変わっていない、という点です。目に見えない精神だろうが、いつでも部屋を照らす電灯だろうが、俺たちは必ず「闇」に対抗する力を欲してる。暗闇から逃げ出したい欲求に支配されている。ここが俺が興味を引かれるポイントです。光への希求は本能なのか、はたまた別に闇へのなんらかの人類的レベルでのトラウマなのか。
神様は確実にいると思われます。人が光や希望に依存する限りにおいて。気をつけてください。科学的生活ではカバーできない不安をヒドい新興宗教はうまい具合につついてきます。まあ偽だろうが本当だろうが、本人にとってどうか、って事が全てだけれど。
そして、妖怪や神の使い「ナマハゲ」は確実にいます。今まで書いてきた意味においても勿論そう。その土地の人間に必要ならばいる。いらなければいらない。遠野いった時も思ったけれど、俺があの山に冬に迷い込んで今みたいな生活に出会っていない昔の人間だったら俺は確実に「雪女」を見ているでしょう。それは「幻覚」だ、とも言えるだろうし、はたまた本物の「雪女」がいた!とも言えるでしょう。どっちだっていいんだ。「幻覚」も「本物」も判定するのは結局時代や他人なんだから。見た“本人”にとってはどれも「本物」でしかない。だって見てしまったんだから。この「見る」は自分以外、どの人間にだって見ることは出来ないんだから。見る、見えない、触れる、触れない、これらを細かく問答していくと哲学的問題に膨れ上がって何時までもかかってしまいそうだからやめときますが、要は自分が見たものは「見た」限り、現実でしかない。誰に否定されようが肯定されようがそれは全て無意味だ。残された選択は自分が見たものにどういう解釈を与えるかということだけです。そこで肯定や否定を与えればそれが真実になる。それ以上でもそれ以下でもない。ちなみに俺は妖怪見た事あるので肯定します笑。

ナマハゲから色々と刺激をもらいました。ナモミを剥がれないようにでっかい盾を用意しておくことにします笑。俺は適度に怠けますよナマハゲさん笑。

YES.oga/hozzy

マイナスの陰。

前回のコラムの中の「マイナスかけるマイナスがどうしてプラスになるのか?」という疑問に対して、とうとう納得できるレベルの根拠を手に入れました。+-の無機的なイメージに全くリアルさを感じないために納得できなかったこともこれに有機的なイメージを与えることによってぐっと現実感が湧いて理解できるようになったように思われます(この+-に与えるイメージの選別にひどく難航しました笑)。俺が定めたイメージは『+は前方に進むこと、-はその反対に進むこと』つまり自分の前進とその反対への前進(表記がながいので『反進』と呼ぶことにします、あくまで『後進』ではありません)でイメージします。これを+と-は“反対同士”だから、「左と右」や「白と黒」や「東と西」や「肯定と否定」などに設定すると俺には全く理解不能になってしまいます(これについては後で説明します)。あくまで+は前進-は反進で。で、「マイナスかけるマイナス=プラス」の解明にさけては通れなかったのが実は足し算引き算でありました。これもなぜかは順々に明らかになっていきます。ので、では足し算引き算から行ってみます。
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これが加減(足し算引き算)の全基本パターンです(1の部分への-導入はあまり意味がないので割愛します)。①は1+3を、②③は1-3を細かく表記しています。実はこの表記にでっかい秘密が隠れているので笑、こう表記します。
ではまず、①を例にとってこれが現実世界においてどういうことなのかをリアルに感じられるようにhozzy流に意味付けしていきます。では。
1+(+3)。この1は自分が今立っている位置(0をスタート地点にして一歩進んだ場所)、一つ目の+は「前進する」という行為、二つ目の+は「素直」という姿勢、3は歩数。つまり文章にすると「私は、1という位置から前進するということに対して素直に3歩進む」ということになります。結果、4が導かれ、0から4歩進んだ場所に私はいますということになる。同じように②③に適用すると、②「私は、1という位置から前進するということに対して反対に3歩進む」③「私は、1という位置から反進するということに対して素直に3歩進む」という形で表せます。こうやっとけば難解そうな④も(-を引くってどういうことなんだよ笑)なんなくリアルに感じることが出来ます。「私は、1という位置から反進するということに対して反対に3歩進む」、つまり①に等しくなります。これで「-を引く」っていうわけわからん観念から逃れられました。ははははファック!
では、ここで後回しにしておいた「前進反進」に設定した理由を説明します。先に例に挙げた「左と右」や「白と黒」や「東と西」は確かに「前進反進」のようにお互い反対側にいるし、プラスマイナスの性質にも合っていてどれでも適用できるような気がしますが、けれどどれもこれもまずかった。なぜか。それは、初期設定として+の方向に向かっていなければならない必然性がそれらにはなかったからです(俺の考えだと数式は始めはプラスに向かっていなければならない)。つまり「左と右」や「白と黒」や「東と西」はお互いが平等すぎてどちらかを始めに指定していなければならない必然性がなかったんです。「前進反進」にはそれがあります。なぜなら、俺は必ず前を向いて生きているからです(気持ちが前向きということではありません)。前進する時は必ず前を向き、かつ前は「前」でしかありません。ここに「前進」に対する+と同じ初期設定としての必然性があります。結論すると、+と-って俺の考えによると完全に平等ではない。始めに必ずプラスの方向にベクトルが向かっている思われます。+の方向に向かう力が初めにありきで数式は成り立っている。そうでなければ、とりあえず俺は1+(+3)と1-(-3)をリアリティを込めて感じることができませんでした(この式を「左と右」で考えてごらんください、+と-の力が俺には理解できなくなる。どうでしょうか?)。そういうことで、「前進反進」がぴったりの設定でした!(他にもなんかあるかもしれないけれど。)あ、あと+-を「肯定否定」で考えてみてもダメでした。つーかとんでもないことになる。肯定はまだいいとして、+3→「3である」、否定は範囲が無限になってしまう、-3→「3ではない」(4でも100でもよくなってしまう。)ということでがっつり却下であります。
では、もう一度加減の式を示してみます。
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これ、実はもうこの中に「マイナスかけるマイナス=プラス」の秘密が表れています。ちなみにひとつ俺が気づいたことなんですが、全式通して、一つ目のプラスマイナスと二つ目のプラスマイナスは全く性質が違う。つまり、①1+(+3)のふたつのプラスは別のことを表していると思われます。俺のリアリティ獲得式に即すなら、ひとつめは行為(前進反進)、二つ目は姿勢(素直、反対)。つまり1+(+3)は『1△(+3)』にした方がむしろ理解の混乱が省けていいじゃないかと思ったりしてしまったり。まあ、普通に計算するだけならそんなことしなくて良いんだけど。
で、とうとう本題に入ります。いきます。
a①(+2)×(+3)
a②(+2)×(-3)
a③(-2)×(+3)
a④(-2)×(-3)
とうとうでました。大ボスのa④!この野郎、ぶっとばす。比較として、
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これもだしときます。俺はこの二つをじっくり眺めてかけ算ってそもそもどういうポジションでどんな働きを持つのかをリアリティをこめて考えていきました。初めこの二つの加減と乗の表をみても何も気づかずにあれこれ考えていました。が、気づいてしまったのです。もう気づかれた方も、もしく始めから気づいていたかたもいるかも知れませんが、これ!
(+2)×(+3)って1+(+3)の+(+3)の部分にプラスの働き方がそっくり!同じように(-2)×(-3)と1-(-3)の-(-3)も!!
んんんんん!!
こ、これは、とうとう見つけたか真実?落ち着け、落ち着いて、落ち着け。こんなふうにじっくり考えていきました。
今上に上げた(+2)×(+3)と1+(+3)の類似部分。一体どういうことかと考えてなんどかリアリティ獲得式に当てはめていたら、とうとう浮かび上がってきました、意外な真実。つーか、もうめんどいんでいきます。

{俺の結論}かけ算とは、加減の式の中にあらかじめ組み込まれているシステム。つまり加減と乗は同系統に並べるべきものではない。除(割り算)はちょっとまた変わったシステム。まだこっちの方は完璧に理解できていません(正直に)

どういうことかっていうと、1-(-3)って引き算の中にはすでにかけ算のための椅子が用意されていてその気になればすぐに顔をあらわすことができます。
1-(-3)は1-1×(-3)ということ。1+(-3)は1+1×(-3)ということ。つまり俺がかけ算と呼んでいるものは、この1-(-3)って引き算だったら、この-(-3)の部分の働きのことを指しているわけです。だから文章で1-1×(-3)を表すと「私は、1という位置から反進するということに対して反対に3歩の1倍進む」というなんともリアリティ溢れる表現で示すことができます。ぎこちない文だけれども笑。
つーわけで、?(-2)×(-3)は「反進するということに対して反対に3歩の2倍進むという結果の歩数」という文で表せます。あくまで最後に「結果の歩数」をつけます。俺の文章表記方法ではかけ算は行為と姿勢しか表していないからです。これに例えば0+(-2)×(-3)という0が加われば、「私は、0という位置から反進するということに対して反対に3歩の2倍進む」となり、完全に理解の着地点に降り立つことができます。

ずいぶん、ながく変に理屈っぽく書いてきましたが、こうでもしなきゃ-かける-もましてや引き算とかけ算の意味もその働きの仕方も全くわからないままぐちゃぐちゃになっていたまま何も進まなかったので長々と申し訳ないですが、自分にも再度理解をさせるために書き連ねてしまいました。俺は、まだ存在していない出来事や明らかに感じることしかできない物後(物事ですらない気がする)に関しては無条件に論理的な考え方を放棄して、寄り添いたいと思っていますが、現存している事実に関してはわかりそうな物事からひとつずつ解決していきたいと思っています。むずむずしてしょうがねー。いやー、しかし俺はもうすっきり。新たな問題にチャレンジする勇気がわいてきました笑。音楽ももちろん頑張りますとも。ではまた。

YES.yasaisan/hozzy

虫眼鏡を捨てるものか。

久しぶりに紙とペンで計算式を解いてみました。
小学生か中学生か忘れたけど初歩的な簡単なやつ。
14.1×0.63とか1.372÷0.49とかこんなやつを何十個か。カリカリ淡々とやってみたんだけれども、しかしねぇ見事に間違えますな笑。計算ミスは昔から直らないなぁ。
てゆうかなんで急に計算をしてみたくなったかというと、昨日読み終えたある本の著者(こないだコラムで書いたやたら読むのに時間がかかった本、やっと三巻全部完読できた。。。)が言うには、この世界で最も完璧なのは「数学」だと断定していたからです。俺はこの人の言うことにいちいち感嘆していたので、単純に「ああ、数学ってすげえ」って思い込まされてしまいました。例えば俺が現にここに生きていることや、バラの色が赤くあること、サティのジムノペディを水のようなイメージにたくさんの人が感じることや、拓郎が大食いな人間として生まれてきたこと、そして生き物全てが必ず死ぬこと等々。これらの一番もとになる理由(完全な完璧な第一の根拠)はどこまで考えても確実にはわからないけれど、「三角形は三本の直線から成る」は確実に真実で、誰にも否定できない(らしい笑、たしかに否定できないし他になんとも言いようがない)。なぜだか知らないけど、空間の中だとそれぞれの異なる3つの点は必ず同じ平面上にあってこれを直線で結ぶと三角形になる。これは誰にも否定できない真実です。だから、数学はこの完璧なものを基礎としてどんどん新しい分野に進んでいきながら今も限界を知らず現役で頑張っていられるみたいです。確かに「なんで俺とあなたは違う人格を持っているのか」って考えてもある程度までは答えられるけど(育った環境の影響によるだとか、年齢がそれぞれ違う等々)つきつめていくと根源的には絶対にわからない(なぜ自分が自分でなければならなかったのか{他の誰かとして生まれてきてもよかったのに}、あなたはなぜあなたなのか{君が俺でもよかったのに}、、等々)。そうすると確かに、数学の明らかさに比べたら他のものごとはずっと曖昧に構成されているんだなぁ、と改めて痛感しました。数学ずっと嫌いだったけど、ちょっとかなり尊敬の部類に昇格しています笑。ブラボー!俺は単純だ。
ところがしかあーし、そんな完璧そうな数学にもいまだに謎なことが俺の中であるのです。これは多分おれの数学への理解力が足りないとかそういうことじゃないと思う。たぶん笑。
それはですね、
「三角形はなぜ三本の直線からならなければならないのか」ということ。もっとくわしくいえば「三角形を三本の直線からなると俺が認識するのはどういう理由なのか」ということです。確かに三角形の成り立ちの法則は否定できないけれど、何を根拠に俺はこれを肯定するのかがわからない。そもそも直線とは何なんですかね。この「直線」は一体どこから俺のもとにやってきて俺の思考の基礎に当たり前のように設定されているのかわからんちん。そうすると、基礎中の基礎の計算「1+1=2」も、この必然性がわからなくなってきてしまう。
詭弁でありましょうか笑。しかしそんな疑いをもったとしてもりんごが二個あってそれを拓郎が一個食ったとしたら残りは一個になるから「2-1=1」という生活する中ではとってもやくにたつ数式を否定することなんて『生活レベル』で決してはできません。
あああ。

長くなってきましたがあともうひとつ。これに関してはきっとおれの理解がとどいてないんだろうと思います。

1×2=2。
これは理解できる。1の2倍は2だから。
1×(-2)=-2
これも理解できる。0を中心とした直線の表を作って右に向かう方を+、左を-にすれば簡単に理解できる。
問題はこれ、
ー1×(-2)=2。
なんじゃこりゃぁあああああ笑!!
いまだにすごい不思議なんですよこれ。なんなんだよ。つーか確かに理論的にはわかるんですよ。一個前の形「1×(-2)=-2」に対してその全く同じ性質をもつ「ー」が1の前について×という行為をしたら「理論上」その反対の性質を持たなければならないからそうなるってことは。そしてそうしなければこの「1×(-2)=-2」という式のもつ意味自体が成り立たなくなってしまうというのもわかるんですが、どうして-が+になるんですか笑。この論理形式は未だに謎であります。÷の式になるともっとです、、、、。
けれど数学が世界で一番確実と思われる形を提示してくれるならば、俺はちょっと好きになってみようと思います。けれどやはり音楽が一番です。

YES.norwegian?wood/hozzy

煙突と塔の間にある『空』は?

以前ある雑誌のライターさんが言っていた印象的な話を今コラムにあげている写真見て思い出しました。

「こないだ娘がやかんの先端を指差して言ったんですよ。
『おとうさん、この湯気が消えるところはなんていうの?』
って。僕このとき面倒くさくて
『湯気は湯気、湯気が消えるところは湯気が消えるところ!』って当たり前のように言ったんですけど、よくよく考えると面白いですよねー。」

このとき俺は非常に感動しました。「湯気が消えるところ」ってなんて呼べばいいんでしょう?この想像だけでビール三本はいけますね。ほくほくとして消える湯気の境目に湯気と同じだけの意味を見いだせる娘さんにさらにワンカップで2回乾杯。
つーか、このことについて俺もよく考えることがありこの話にえらく共感してしまいました。例えば、『森に降り注いだ後の雨のにおい』に一個のれっきとした名前があってもいいんじゃないのか(もちろん樹々や土の違いによって匂いの質も違ってくるだろうけれども、それを越えた一個の概念として)、むしろ『森に降り注いだ後の雨のにおい』なんてながったらしい表現はいらないんじゃないか(詩的美しさがあるとすればそれは別として)、と何に向かってか誰に向かってかわからんけど提案したくなってしまう。


で、そんなこと考えていると、どんどん自分で勝手に言葉を作って、自分にしか通用しないような言葉ができあがったり(藍坊主ではそれでも緩和しているつもりです)、ぐちゃぐちゃの線ばっかりの夢をみてしまったりしてしまう(非常に恐かった)ようです。しかしそれでもこの世界を見ているのは俺だから(俺なくしては俺が感じる世界はない≒世界は無い)、俺は世界にちゃんと対面しなきゃならんわけです。そしてこの言葉遊びは心のうちにしまっておけば何の問題もないわけで、そんなこんなで生活の中で思いついたときには、いろんなシチュエーションに密かにネーミングを与えています笑。→煙突と塔の間にある「空」は何と呼んで然るべきか(もちろん私を中心とした世界において)。

うううい、北海道の空気はなんと呼ぼう。雪に埋もれたい私は明日札幌へ行ってきます。

YES.ponzu/hozzy