藍坊主 | Column
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藍坊主

Column

マイナスの陰。

前回のコラムの中の「マイナスかけるマイナスがどうしてプラスになるのか?」という疑問に対して、とうとう納得できるレベルの根拠を手に入れました。+-の無機的なイメージに全くリアルさを感じないために納得できなかったこともこれに有機的なイメージを与えることによってぐっと現実感が湧いて理解できるようになったように思われます(この+-に与えるイメージの選別にひどく難航しました笑)。俺が定めたイメージは『+は前方に進むこと、-はその反対に進むこと』つまり自分の前進とその反対への前進(表記がながいので『反進』と呼ぶことにします、あくまで『後進』ではありません)でイメージします。これを+と-は“反対同士”だから、「左と右」や「白と黒」や「東と西」や「肯定と否定」などに設定すると俺には全く理解不能になってしまいます(これについては後で説明します)。あくまで+は前進-は反進で。で、「マイナスかけるマイナス=プラス」の解明にさけては通れなかったのが実は足し算引き算でありました。これもなぜかは順々に明らかになっていきます。ので、では足し算引き算から行ってみます。
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これが加減(足し算引き算)の全基本パターンです(1の部分への-導入はあまり意味がないので割愛します)。①は1+3を、②③は1-3を細かく表記しています。実はこの表記にでっかい秘密が隠れているので笑、こう表記します。
ではまず、①を例にとってこれが現実世界においてどういうことなのかをリアルに感じられるようにhozzy流に意味付けしていきます。では。
1+(+3)。この1は自分が今立っている位置(0をスタート地点にして一歩進んだ場所)、一つ目の+は「前進する」という行為、二つ目の+は「素直」という姿勢、3は歩数。つまり文章にすると「私は、1という位置から前進するということに対して素直に3歩進む」ということになります。結果、4が導かれ、0から4歩進んだ場所に私はいますということになる。同じように②③に適用すると、②「私は、1という位置から前進するということに対して反対に3歩進む」③「私は、1という位置から反進するということに対して素直に3歩進む」という形で表せます。こうやっとけば難解そうな④も(-を引くってどういうことなんだよ笑)なんなくリアルに感じることが出来ます。「私は、1という位置から反進するということに対して反対に3歩進む」、つまり①に等しくなります。これで「-を引く」っていうわけわからん観念から逃れられました。ははははファック!
では、ここで後回しにしておいた「前進反進」に設定した理由を説明します。先に例に挙げた「左と右」や「白と黒」や「東と西」は確かに「前進反進」のようにお互い反対側にいるし、プラスマイナスの性質にも合っていてどれでも適用できるような気がしますが、けれどどれもこれもまずかった。なぜか。それは、初期設定として+の方向に向かっていなければならない必然性がそれらにはなかったからです(俺の考えだと数式は始めはプラスに向かっていなければならない)。つまり「左と右」や「白と黒」や「東と西」はお互いが平等すぎてどちらかを始めに指定していなければならない必然性がなかったんです。「前進反進」にはそれがあります。なぜなら、俺は必ず前を向いて生きているからです(気持ちが前向きということではありません)。前進する時は必ず前を向き、かつ前は「前」でしかありません。ここに「前進」に対する+と同じ初期設定としての必然性があります。結論すると、+と-って俺の考えによると完全に平等ではない。始めに必ずプラスの方向にベクトルが向かっている思われます。+の方向に向かう力が初めにありきで数式は成り立っている。そうでなければ、とりあえず俺は1+(+3)と1-(-3)をリアリティを込めて感じることができませんでした(この式を「左と右」で考えてごらんください、+と-の力が俺には理解できなくなる。どうでしょうか?)。そういうことで、「前進反進」がぴったりの設定でした!(他にもなんかあるかもしれないけれど。)あ、あと+-を「肯定否定」で考えてみてもダメでした。つーかとんでもないことになる。肯定はまだいいとして、+3→「3である」、否定は範囲が無限になってしまう、-3→「3ではない」(4でも100でもよくなってしまう。)ということでがっつり却下であります。
では、もう一度加減の式を示してみます。
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これ、実はもうこの中に「マイナスかけるマイナス=プラス」の秘密が表れています。ちなみにひとつ俺が気づいたことなんですが、全式通して、一つ目のプラスマイナスと二つ目のプラスマイナスは全く性質が違う。つまり、①1+(+3)のふたつのプラスは別のことを表していると思われます。俺のリアリティ獲得式に即すなら、ひとつめは行為(前進反進)、二つ目は姿勢(素直、反対)。つまり1+(+3)は『1△(+3)』にした方がむしろ理解の混乱が省けていいじゃないかと思ったりしてしまったり。まあ、普通に計算するだけならそんなことしなくて良いんだけど。
で、とうとう本題に入ります。いきます。
a①(+2)×(+3)
a②(+2)×(-3)
a③(-2)×(+3)
a④(-2)×(-3)
とうとうでました。大ボスのa④!この野郎、ぶっとばす。比較として、
①1+(+3)
②1+(-3)
③1-(+3)
④1-(-3)
これもだしときます。俺はこの二つをじっくり眺めてかけ算ってそもそもどういうポジションでどんな働きを持つのかをリアリティをこめて考えていきました。初めこの二つの加減と乗の表をみても何も気づかずにあれこれ考えていました。が、気づいてしまったのです。もう気づかれた方も、もしく始めから気づいていたかたもいるかも知れませんが、これ!
(+2)×(+3)って1+(+3)の+(+3)の部分にプラスの働き方がそっくり!同じように(-2)×(-3)と1-(-3)の-(-3)も!!
んんんんん!!
こ、これは、とうとう見つけたか真実?落ち着け、落ち着いて、落ち着け。こんなふうにじっくり考えていきました。
今上に上げた(+2)×(+3)と1+(+3)の類似部分。一体どういうことかと考えてなんどかリアリティ獲得式に当てはめていたら、とうとう浮かび上がってきました、意外な真実。つーか、もうめんどいんでいきます。

{俺の結論}かけ算とは、加減の式の中にあらかじめ組み込まれているシステム。つまり加減と乗は同系統に並べるべきものではない。除(割り算)はちょっとまた変わったシステム。まだこっちの方は完璧に理解できていません(正直に)

どういうことかっていうと、1-(-3)って引き算の中にはすでにかけ算のための椅子が用意されていてその気になればすぐに顔をあらわすことができます。
1-(-3)は1-1×(-3)ということ。1+(-3)は1+1×(-3)ということ。つまり俺がかけ算と呼んでいるものは、この1-(-3)って引き算だったら、この-(-3)の部分の働きのことを指しているわけです。だから文章で1-1×(-3)を表すと「私は、1という位置から反進するということに対して反対に3歩の1倍進む」というなんともリアリティ溢れる表現で示すことができます。ぎこちない文だけれども笑。
つーわけで、?(-2)×(-3)は「反進するということに対して反対に3歩の2倍進むという結果の歩数」という文で表せます。あくまで最後に「結果の歩数」をつけます。俺の文章表記方法ではかけ算は行為と姿勢しか表していないからです。これに例えば0+(-2)×(-3)という0が加われば、「私は、0という位置から反進するということに対して反対に3歩の2倍進む」となり、完全に理解の着地点に降り立つことができます。

ずいぶん、ながく変に理屈っぽく書いてきましたが、こうでもしなきゃ-かける-もましてや引き算とかけ算の意味もその働きの仕方も全くわからないままぐちゃぐちゃになっていたまま何も進まなかったので長々と申し訳ないですが、自分にも再度理解をさせるために書き連ねてしまいました。俺は、まだ存在していない出来事や明らかに感じることしかできない物後(物事ですらない気がする)に関しては無条件に論理的な考え方を放棄して、寄り添いたいと思っていますが、現存している事実に関してはわかりそうな物事からひとつずつ解決していきたいと思っています。むずむずしてしょうがねー。いやー、しかし俺はもうすっきり。新たな問題にチャレンジする勇気がわいてきました笑。音楽ももちろん頑張りますとも。ではまた。

YES.yasaisan/hozzy

虫眼鏡を捨てるものか。

久しぶりに紙とペンで計算式を解いてみました。
小学生か中学生か忘れたけど初歩的な簡単なやつ。
14.1×0.63とか1.372÷0.49とかこんなやつを何十個か。カリカリ淡々とやってみたんだけれども、しかしねぇ見事に間違えますな笑。計算ミスは昔から直らないなぁ。
てゆうかなんで急に計算をしてみたくなったかというと、昨日読み終えたある本の著者(こないだコラムで書いたやたら読むのに時間がかかった本、やっと三巻全部完読できた。。。)が言うには、この世界で最も完璧なのは「数学」だと断定していたからです。俺はこの人の言うことにいちいち感嘆していたので、単純に「ああ、数学ってすげえ」って思い込まされてしまいました。例えば俺が現にここに生きていることや、バラの色が赤くあること、サティのジムノペディを水のようなイメージにたくさんの人が感じることや、拓郎が大食いな人間として生まれてきたこと、そして生き物全てが必ず死ぬこと等々。これらの一番もとになる理由(完全な完璧な第一の根拠)はどこまで考えても確実にはわからないけれど、「三角形は三本の直線から成る」は確実に真実で、誰にも否定できない(らしい笑、たしかに否定できないし他になんとも言いようがない)。なぜだか知らないけど、空間の中だとそれぞれの異なる3つの点は必ず同じ平面上にあってこれを直線で結ぶと三角形になる。これは誰にも否定できない真実です。だから、数学はこの完璧なものを基礎としてどんどん新しい分野に進んでいきながら今も限界を知らず現役で頑張っていられるみたいです。確かに「なんで俺とあなたは違う人格を持っているのか」って考えてもある程度までは答えられるけど(育った環境の影響によるだとか、年齢がそれぞれ違う等々)つきつめていくと根源的には絶対にわからない(なぜ自分が自分でなければならなかったのか{他の誰かとして生まれてきてもよかったのに}、あなたはなぜあなたなのか{君が俺でもよかったのに}、、等々)。そうすると確かに、数学の明らかさに比べたら他のものごとはずっと曖昧に構成されているんだなぁ、と改めて痛感しました。数学ずっと嫌いだったけど、ちょっとかなり尊敬の部類に昇格しています笑。ブラボー!俺は単純だ。
ところがしかあーし、そんな完璧そうな数学にもいまだに謎なことが俺の中であるのです。これは多分おれの数学への理解力が足りないとかそういうことじゃないと思う。たぶん笑。
それはですね、
「三角形はなぜ三本の直線からならなければならないのか」ということ。もっとくわしくいえば「三角形を三本の直線からなると俺が認識するのはどういう理由なのか」ということです。確かに三角形の成り立ちの法則は否定できないけれど、何を根拠に俺はこれを肯定するのかがわからない。そもそも直線とは何なんですかね。この「直線」は一体どこから俺のもとにやってきて俺の思考の基礎に当たり前のように設定されているのかわからんちん。そうすると、基礎中の基礎の計算「1+1=2」も、この必然性がわからなくなってきてしまう。
詭弁でありましょうか笑。しかしそんな疑いをもったとしてもりんごが二個あってそれを拓郎が一個食ったとしたら残りは一個になるから「2-1=1」という生活する中ではとってもやくにたつ数式を否定することなんて『生活レベル』で決してはできません。
あああ。

長くなってきましたがあともうひとつ。これに関してはきっとおれの理解がとどいてないんだろうと思います。

1×2=2。
これは理解できる。1の2倍は2だから。
1×(-2)=-2
これも理解できる。0を中心とした直線の表を作って右に向かう方を+、左を-にすれば簡単に理解できる。
問題はこれ、
ー1×(-2)=2。
なんじゃこりゃぁあああああ笑!!
いまだにすごい不思議なんですよこれ。なんなんだよ。つーか確かに理論的にはわかるんですよ。一個前の形「1×(-2)=-2」に対してその全く同じ性質をもつ「ー」が1の前について×という行為をしたら「理論上」その反対の性質を持たなければならないからそうなるってことは。そしてそうしなければこの「1×(-2)=-2」という式のもつ意味自体が成り立たなくなってしまうというのもわかるんですが、どうして-が+になるんですか笑。この論理形式は未だに謎であります。÷の式になるともっとです、、、、。
けれど数学が世界で一番確実と思われる形を提示してくれるならば、俺はちょっと好きになってみようと思います。けれどやはり音楽が一番です。

YES.norwegian?wood/hozzy

煙突と塔の間にある『空』は?

以前ある雑誌のライターさんが言っていた印象的な話を今コラムにあげている写真見て思い出しました。

「こないだ娘がやかんの先端を指差して言ったんですよ。
『おとうさん、この湯気が消えるところはなんていうの?』
って。僕このとき面倒くさくて
『湯気は湯気、湯気が消えるところは湯気が消えるところ!』って当たり前のように言ったんですけど、よくよく考えると面白いですよねー。」

このとき俺は非常に感動しました。「湯気が消えるところ」ってなんて呼べばいいんでしょう?この想像だけでビール三本はいけますね。ほくほくとして消える湯気の境目に湯気と同じだけの意味を見いだせる娘さんにさらにワンカップで2回乾杯。
つーか、このことについて俺もよく考えることがありこの話にえらく共感してしまいました。例えば、『森に降り注いだ後の雨のにおい』に一個のれっきとした名前があってもいいんじゃないのか(もちろん樹々や土の違いによって匂いの質も違ってくるだろうけれども、それを越えた一個の概念として)、むしろ『森に降り注いだ後の雨のにおい』なんてながったらしい表現はいらないんじゃないか(詩的美しさがあるとすればそれは別として)、と何に向かってか誰に向かってかわからんけど提案したくなってしまう。


で、そんなこと考えていると、どんどん自分で勝手に言葉を作って、自分にしか通用しないような言葉ができあがったり(藍坊主ではそれでも緩和しているつもりです)、ぐちゃぐちゃの線ばっかりの夢をみてしまったりしてしまう(非常に恐かった)ようです。しかしそれでもこの世界を見ているのは俺だから(俺なくしては俺が感じる世界はない≒世界は無い)、俺は世界にちゃんと対面しなきゃならんわけです。そしてこの言葉遊びは心のうちにしまっておけば何の問題もないわけで、そんなこんなで生活の中で思いついたときには、いろんなシチュエーションに密かにネーミングを与えています笑。→煙突と塔の間にある「空」は何と呼んで然るべきか(もちろん私を中心とした世界において)。

うううい、北海道の空気はなんと呼ぼう。雪に埋もれたい私は明日札幌へ行ってきます。

YES.ponzu/hozzy

アーヴェー。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、最高だぜ。瞬間、二歩後ろに下がれたような気がした。クソみてえな仮象1(ピーさん。もしくはたまねぎでもいい)をじっくり否定してやった。同時に仮象0(反ピーさん。もしくはたまねぎの反対のやつでもいい『たまねぎの反対』がわかる人がいたら是非教えてください。知りたい)も、だ。貴様らのせいで俺は幻であるべき不安をむしゃむしゃ食べるはめになったんだ。ってワンカップ大関の瓶の底に向かって言ってやった。おーいおーい。しかしお前さんうめえよこの野郎。

俺は素敵なものに対して「くっそ」をよくつけますが(例→たんたん麺食って「くっそうめえ」)、ファックなことに対してももちろん「くそ」をつけます。俺は『水に似た感情』という曲で~消えてしまいたい~と歌っていますが何故あの時あの歌詞が浮かんできたのかよくわかった。虚ろな中でそれよりさらに虚ろなことに目を凝らして僕らは生きているんだもの。消えてしまいたいと思うのも無理ありません。
ああどこいこう。
リトアニアかも。

むしろ戻りたい。

YES.flash/hozzy

3

あさだ。
通勤ラッシュだ。
おはようございます。

YES.coke/hozzy

あたたかいとくしゃみ。

銀のポールとポールを繋ぐ鈍い色した鎖のはしっこ。そこを錆びさせる雨と孤独。緑色の帽子を被った掃除のおじさんは落ち葉と牛乳パックとタバコの吸い殻は拾うけど鎖の落とす影は拾わない。痩せたぶち猫がポールの鳥居をひゅるんとぬける。「なあずいぶん雲っていたから、また曇ってしまった」からすがかあ、って図書館の角を飛ぶ。「なあ僕らが生きているというのなら、あの鎖は死んでいるのかい。そしてまた死ぬのかい」「バカだな、あれは生きていないだけだ」「なら生きてもなくて死んでもいないあれに僕は憧れる。壊れるだけなんだろう」
あかい木の実がまた枝から落ちて、駐車場の白線と6の文字の間に転がった。
空からもひとつふったつぽっつんぽつん。
からからに萎びたキャベツの破片も回収されなかったウイスキーの角瓶も鎖のむこうで同じように打たれている。
「何が違うってんだ」
「全部同じじゃない、ただそれだけさ」
空がごろごろし始めたので、ぼくらは階段をのぼった。

YES.mocha/hozzy

3-3=1、形はあるのにあってはいけないのはなぜか。

近頃もっぱら朝から晩まで時間がある限りもしくは俺の集中力が萎れるまで単語と文章とトピックスとを行ったり来たり、なんのためかわからんけど誘われるまま本読んでメモ帳にその構成と著者の意図する真意の俺なりのおよそな解釈を図と記号と文字で筆記しています(なんだかめんどくせーな、すいません)。視力落ちた絶対。ふと明け方に目が覚めると昨日読んだ本の内容を反芻、(つーかなんで目が覚めた時って昨日わからなかったことが突然理解できたような気になるんだろか)気づくと空中に指でわけわからん図を書いてたりする。そしてなんだかよくわからないまま寝る。朝起きると背中が痛い。

そんなこんなでやっと上巻を読み終えたこの本。買ってからなんだかんだ三ヶ月くらいたってるかも笑。あと中と下が残ってるなんてほんと作者を殴りたくなるね。

何かを理解するために発する熱は、疲れさせられるけど恥ずかしながらもやっぱ健全な力だと俺も思います。学校がその熱を発することができる場所だったら俺もこんなにひねずにすんだかもしれないのになあって今更ながら思う。まぁきっとそうしたら音楽やってなかったろうな。そういう意味ではありがたいエネルギー源ではあります学問の集い場。

とりあえず目の前のこれを理解できなければどこにも進めない気がするので、気合い入れて足踏みしたいとおもいます。

YES.hakusturu/hozzy

FinePix F610。

最近よく携帯してるカメラ。型が古くてでかいけどデジカメにしてはかなり良い色だして頑張ってると思われるF610さん。もう2005年半ばには出荷も終了しているらしい。後輩はどんどんスリムにコンパクトに。もう彼女が入る大きさのケースさえほとんど売ってない。だから余計にたまたま今手元にあるのが嬉しい。よくぞ参りました。先日の北海道でもチッチッと撮ってきました(パシャッやカシャッではなく610はチッチッです)。いい天気の日に家に置き忘れたまま外出した時は近頃本気で後悔します。電車の中でも落ち着かない。

北海道あいかわらず最高でした。ありがとうございました。また3月に!

YES.a priori

エチルくんメチルさん。

明けましておめでとうございます。イノシシ年ですよ。イノシシといえば藤森氏。今年は彼年男です。今年も俺らをぐいぐい引っ張っていって欲しいです。

去年できなかったたくさんのこと。一昨年の終わりに立てた去年の目標はほとんど達成できなかった。やはりうまくいかないものです。心の余裕と行動力。酒の力は借りないこと。
コーヒーサイフォンを買ったので理科の実験のようにコーヒーをいれてます。アルコールランプとフラスコで湯を沸かしあからさまな科学的さで豆を蒸す。単純な構造だけどコーヒーがコポコポとフラスコに降りてくる時何度でもにやけてしまいます(加熱を終えると上のビーカーもどきからコーヒーがこされてフラスコに降ってくるんです。気圧のせい?くわしくはわかりません笑)。水の電気分解とか今あえてやってみたい。懐かしい。
4日にダリ展行ってきました。展示がラストの日ということでもの凄い長蛇の列が上野公園に展示されてました。2時間待ち。びびりましたほんと。一緒に見に行ったサウスブロウのはじめと友人のマイケルとで暇つぶしに記憶しりとりをして時間つぶし。一人じゃなくてよかった。ダリの絵はとても綺麗でした。発想をぴっしり左脳的にまとめたような神経質な絵。個人的に「愛情を表す2切れのパン」という絵に目がうるみました。構図バランスとタイトルで殺された。やっぱり画集だけ眺めているのはもったいない。きっと画集でこの絵をみかけても何にも心に引っ掛からずに次のページをめくっていたと思います。本物を見れるときはできるだけ本物を見よう。ダリおじさんありがとう。
さあではまた曲作りに戻りたいと思います。今年もよろしくお願いします。

YES.hario/hozzy

シネリキヨ。

沖縄に行ってきました。久高島という本島から少し離れた小島のなにやら神秘的な雰囲気に誘われてまたまた衝動旅行のはじまりはじまり。で、なんで久高島を選んだかと言うと、どうやらここのカベール岬と言うところに沖縄を創った神様が始めて降り立ったという伝説があるらしいのです。こんなん大好きな自称探検家の私にはたまらん魅力です。ほかにも男子禁制の聖地”クボーウタキ”やら特別な意味のある井戸のような場所“ヤグルガー”やら俺の心を刺激する響きの言葉がこの島にはころころと転がっていて前々から行けるチャンスをうかがっていました。そしてきた。いけてよかった笑。久高島研究の本も途中で買い勉強しながら島を回ろうと思ったけど結局読む暇ないくらいゆるやかな時間の中に沈んでいました。夜に見た引き潮になった海岸の月光がとてもとても神がかっていた。別の星に立っているような感覚でした。北海道もすごかったけど沖縄もすごい。日本って本当に面白い国だと改めて思いました。そしてアイヌと沖縄がなんだか繋がっているような気がしてならない今日この頃。諸説あるようですが俺はぱっとそう感じました。日本にある文化にもっと触れていきたい。久高島のおじさんに教えてもらった沖縄民謡、古典、ギターで弾く三線の音。ピースフルで暖かかった。そしてカベール岬で歌ったLumoが見えない何かにあの時少しだけ届いたと俺は信じています笑。沖縄今度はライブでいきてー。

YES.amamikiyo/hozzy