3月 2006

指先に食い込む赤外線。

鋭く、速く、硬く、ドイツラスクを噛み砕く。
宙に浮くホコリのような破片。
風もないこの部屋で、パンの粒子はどこへ消えるのだ。
目ではとらえきれない小さい世界やとてつもなく大きな世界。
疑いようもなくそれはそこには存在しているのに、自分にはまるで無関係かのように時間を食いつぶしていく俺。
何度となくそれを悔い、悔しがり、瞳を広げて宙を端からめくっていこうとするのだけれど、気づけば寝転がって俗な妄想、考え事ばかりしている。
人間の脳、もしくは心には、ストッパーが用意されていて、知ろうとするとシャッターが下りてしまう領域があるらしい。
自分の存在の意味さえもその領域なのかと、14の頃から何度もその意味について考えてはいるものの、辿り着くのは結局、聞きたくもない使い古された道徳的観念、耳の穴に突っ込んだらたちまち発狂してしまいそうになる安楽的思想、そんなものがふりかけのように俺の頭の上にぱらつき続けていただけでした。
そういうことじゃないんだよ求めているのは。
つまりは愛や、平和や、自由、以前の重要問題なんです。
俺がくたばったら俺においての、愛も、自由も、平和もない。
愛も自由も世界の基準にあるものはそこでちゃんと存在していればいい。
けれどそれは決して俺の基準じゃない。
それは俺の感覚でしか存在しないに決まっているから。

つーか、愛、自由、平和、って文字にして並べるとすげー陳腐だな笑。
ちょっと多用すると吐き気がしてくるね。
何故だろうその意味はとても素敵なことなのに。

哲学、宗教、青春時代に色々と手を出してみたけれど、結局よく明確な答えはよくわかんなかったし、途中からそれを探る意味もよくわかんなくなってきて、一年近く堕落に時間を費やしたりもした。
今でこそ一応ミュージシャンやっているけれど、中身は今でもストレンジャー、浮浪旅人であると自覚しています。
つーか、悟りでも開かない限り、俺の欲しい答えは死ぬまでわかんねーな、と随分前から気づいてもいるんですけど、もしかしたら、とまだまだあきらめきれないんだよね。

認識できないことを理解する。
これは最高に生きていて幸せなことなんじゃなかろうかと俺は思っています。

ラスクの破片がどこに消えていくのかも、目に見ることがもしできたなら、もっと広い世界も構えることなく理解することができるような気がする。
人間ってつくづく可哀相な生き物だな。
可能性を見ることは出来るのに、それ以上の絶望的な現実が間違いなく目の前には存在している。
ゴキブリが羨ましくなることさえあります。

YES.rusk/hozzy