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『魚と猫とゴムとネコ』の2。

「ネコちゃーん、今日は牛乳にお砂糖を入れてもいいのかしらぁ?」
台所の向こうから母の声が聞こえる。
グツグツグツ、と何かを煮ている音が、それと一緒にくぐもって聞こえた。
彼女は私のことを「ネコ」と呼ぶ。
「寧々子」という祖父が名づけた名前では、どうしてか母は私を呼ぶことはない。
ある日、「ネコ」と母が私のことを呼ぶのを、近所の友人がふと耳にしてから、友人内でも私の呼び名は「ネコ」になった。動物と一緒にされているようで始めは正直気に入らなかったが、いつからか慣れてしまって、いまでは「ネコ」と呼ばれたらすぐに振り返ってしまう。習慣の魔術はおそろしい。
「ねぇ、聞いてるぅー?お砂糖入れてもいいかしらぁー?」
彼女の少し間延びした喋り方に、私は相変わらず少し苦笑いをしながら、今日もあえて優しい声で答える。
「そうね、入れといて。でも少しでいいからね。」
母は鼻歌を歌いながら、カチャカチャと食器の音を響かせている。
「るーるるるーるるーるるーるるるー」
ゆっくりと私の息は熱くなる。
いつからだろう、彼女に対してこんなにイライラするようになったのは。
耳を切り取ってしまいたい衝動に駆られる位じりじりしてしまう。
「もう少し待ってねぇ、もうすぐピザトーストできるからねぇ。」
母の明るい声がキッチンから響いてくる。頭の奥が重い。
そもそも私は牛乳が大嫌いだ。
バターもチーズもヨーグルトも生クリームも、牛が関わるものは全て駄目だ。
母は私が、まさか乳製品が苦手だなんてミジンコの卵ほども思っていないだろう。
彼女は平和な人なのだ。人の憎しみを買ってしまうほどに。

ふと私はあることを思い出し、椅子から立ち上がると工具や新聞紙が置いてある棚に向かって、パタパタとスリッパを響かせた。
パンとチーズの匂いをかぎながら、背伸びをして棚の上に手を伸ばす。すぐに目当ての箱に指先が触れた。
輪ゴムの小箱。
今日、学校の美術の授業で使うのだ。
爪先立ちのまま、手探りで箱に人差し指と親指を入れると、三つほど輪ゴムをつまみ上げた。止めていた息を吐いて、ゆっくり視線を指先に落とす。すると目に映ったのは、カラフルな色。
「なによこれ。」
紫、青、灰色のカラー輪ゴムだった。きっと母が買って補充したのだ。前に箱から取り出したときは、それは普通の輪ゴムだった。
「こんなの授業で使えないわよ・・・。」
苛立ちを通り越して、ぎゅーん、と体の力が抜けた。
リビングに戻っても、母はまだキッチンで鼻歌を歌っていた。
私は椅子に腰掛けるとすっと右腕を伸ばし、紫と青の輪ゴムを、エアーガンを打つように母に向かって弾いた。けれどそれは全く届かずに床に落ちた。
残った一つの灰色を仕方なくポケットに入れる。
母の痩せたうしろ姿を、私はため息をつきながら眺めていた。

YES.nekonote/hozzy

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