キコリ。

細かい雨のせいで静かな夜です。私は何だか眠れなくなってきてしまいました。帰りがけに飲んだぬるめのエスプレッソのせいかもしれません。
今、ペンを撫でながらノートを眺めています。何本もの横線のあいだに雨と私の関係についての考えを書き連ねました。箇条書きで簡潔に9番まで。

孤独な人間だと思いますか?
今夜は細かい雨のせいでひどく静かでひとりぼっちなのです。
部屋は四角でかどは硬いです。電気もぼやけている気がします。
薬指の爪の根元にささくれも発見してしまいました。
けれど彼はきっとこう言って笑うでしょう。
「本当に孤独な人間は自分が孤独だなんて気づいちゃいないよ」
そして、ふん、と言って、こう付け加えます。
「ご飯を食べてる最中に“私はご飯を食べている”なんて考える人間がいるかい?」
ひどい言葉です。
けれど彼はそういう人です。

私は孤独をブロックのようにして引き出しにしまっておいています。
そしてそれをこんな雨の夜にだけ空に積み上げて行くのです。
コトリコトリ。
もちろん孤独に形なんてありません。
形のあるものはこの手で触れられるものだけです。
けれど私は形のないそれとどこかで触れ合って確かにどこかで見ている気がします。
それは大きいのもあれば小さいのもあります。
丸いのもあれば長細いのもあります。
だからそれを引っ張ったり削ったりして徐々にブロックに変えていくのです。
小さい欠片のようなものは粘度のようにくっつけてしっかりした一個にします。そんな風にしてブロックを集めていきます。
そしてこんな静かな雨の夜にだけその立方体を積んでいくことを自分に許しているのです。
雨雲の上に浮かぶ小さなブラックホールへの到着を想像しながら。

外は奇妙なほど静かな夜です。
窓が濡れていて、近くの電灯がいつもより遠い所にあるような気がします。
宇宙に浮かんでいるガスのように窓をぼんやりオレンジ色にくすませています。雨はこの世界で一番穏やかな「了解」のように感じます。
「了解」というのも変な気がしますが、
「誰にも疑われず、驚かれず、ただやってきて、去って行く」というような感じの了解です。
まるでわたしにとっての「わたし」という存在のようです。

最近私は、私についてよく考えます。
まるで思春期に逆戻りしたかのような悩みですが、それとはまた違ったもやもやなのです。
それは、私は「私」ではない、ということことなのです。
変な話ですか?
はい。
けれど私には変だとは思えないのです。
それは、人が「私」と言う言葉を使うとき、「私」という言葉はどの人にとっても「私」という意味を持ってしまうからなのです。
私が自分を「私」と言い、あなたも自分を「私」と言う。
世界中の人々と同じ数だけ「私」という人々がいる。
おかしな話です。一体この「私」は人の何を指しているのでしょうか。
どの人の上をも渡り歩く「私」。
なんて本当の意味からかけ離れた言葉なんでしょう。
ぺらぺらと風に飛ぶちり紙のようです。
かといって「キリコ」という両親からもらったこの名前も私ではありません。
「キリコ」は世界中にたくさんいるし、仮に私が父に「ぺるにょんて」なんて変てこな世界で唯一人の名前をつけられたとしても、それは名前という点で「キリコ」と何の違いもありません。
もし私が記憶喪失になって「ぺるにょんて」という自分の名前を失ったとしたらどうなるでしょうか。
なんのことはありません。
記憶を欠きながらも私はそこに存在しています。
「キリコ」でなくても「ぺるにょんて」でなくてもそこに存在している私。
むしろ「キリコ」という名前を受ける対象を存在させている私。
しかも私は「私」ではありません。
では何と呼べばいいのでしょうか?

野良イヌやトカゲの方があるいは自分の存在についてもっとわかっているのかもしれません。
ネコのようにニャー、と雨の中を走りだしたい気分です。
言葉はただ私たちが感じるかたちについた、単なる呼び名です。
本物は名もなき形そのもののような気がします。
窓から見えるライトに照らされた駐車場は、誰かに切り取られて打ち捨てられたかのように音も無く危うげに立っています。
この雨を「雨」と呼ぶこともなく、この私を「あなた」と呼ぶこともなしにただ立っています。

テーブルの上のプラムがすっぱそうです。

YES,amaotone/hozzy

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