膜の中にいる感じ。

膜の中にいる感じ。

春がやって参りました。
くしゃみがとまんねー。「アレルギー」って言葉をみるだけで余計にかゆくなる。
「くそ花粉の野郎どもが、麗しき春のぬくもりを、ねちゃねちゃに濁しおってからに、、、」なんて思いたくなるし、「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」なんて嫌な事も鼻水でぐちゃぐちゃになってくるとつい思ってしまうものですが、そもそも別に花粉はなんも悪くないのですね。
こっちです、悪いのはこの私のイカレ体内器官なわけで、花粉は自然界の生命活動の一環、実に正常なサイクルの一部でしかなく、全う過ぎる位まっとう、俺がこんな正論を吐ける位にまっとうである。

俺の体はいつ頃からか狂い始めて、なんだかわからんが、花粉という大自然を拒否してしまうようになってしまった。いったいどうしたわが体よ笑。
辛いですよね、自然を拒否してしまうってのは。こっちで拒否した瞬間、自然にとってもこちらは異物。まるで自然からはじき出されてもうその一部ではいられない感じです。

アレルギーって、要は過剰反応のことですよね。医者じゃないので詳しいことはよくわからないのですが、普通なら自分にとって敵にならないような無害な相手に極度に攻撃をしかける行為のようです。花粉なんて毒でもなんでもないし、むしろ某ハン○ーガー店の品物の方がひどい毒性をもっている感がありますし、なんでアレルギーの原因の一つが杉なんだとひどく理不尽な感じのイメージがあります。

鼻がまた花粉を吸い込んだみたい。くしゃみ、はなみず。勝手にでてくる。人間ってすげえ。

で、攻撃するってことはそこが平和ではなくなって戦場になるから、結果として交戦後の荒廃した市街のように俺たちの身体上に炎症とか発熱とかになって後からそのツケが表れてくる。喘息やアトピーもアレルギーの一種で、アトピーは軽く、喘息はひどく、患っていた時期がありました。思えば俺はアレルギー症状を以外と抱え込んでいるな笑。喘息はひどかった。生き地獄。患っている方はよくお分かりになっていただけると思います。

杉の花粉さんたち。まさか彼らもこんなに我ら人間たちを苦しめているなんて思ってもないでしょう。ただ命を繋ごうとしているのね。
仮に俺たちを苦しめたくて飛ばしているとしても、なんとなくその理由が直観的に理解されてしまう。俺らひどいですもの、周りの生き物に対して。

杉が生き物であるということの前に、俺らは、俺らの人間的な視点で、彼らを「スギ」として平面化している。
杉は「スギ」である前に、一個の生命、こんなの子供でも直観でわかってる。けれど、私らより逆に子供の方がわかってる節もある。

「杉は生きていますか?」
「生きています!」
「生き物を無闇に殺したらどうですか?」
「いけないと思います!」
「なぜですか?」
「私たちと同じで生きているからです!」

大人に成った俺。今でも、子供と同じ考えに立つにはどうしたらいいんだろうか。

杉は「スギ」である前に、一個の生命。

これをもうちょっと押し進めて、スギの事を考えてみるのが大人の立場としての行動だと、勝手に思いつつ考えてみる。

杉とは、もうなんやかんや前にも書いてきましたが、ここ最近だと随分負のイメージに浸されている。実際、俺は花粉症にひどくいらだっています。やつらが消えれば、あの素晴らしき優しい春がまた俺の心に燦然と降り注いでくるし。蝶々も涙でぼやけず、軽やかなのその羽ばたきの無規則さをしっかり眺める事ができる。なのに春は今ではすっかり不安な季節です(喉もアレルギーで荒れるし)。
杉ってなんて忌々しいんだ。って実際問題相当忌々しいです。生活が楽しくなくなるし(毎日風邪みたいな感じ)。
そんな状態でみる「すぎ」は敵でしかありません。どうにかして花粉を吸い込まないようにマスクをして、部屋は常に空気清浄機を回して、点眼剤は常にポケットに携帯して、、、。
もう面倒くさいことこの上ない。「杉なんて全部たたんで燃やしてしまえ」まさにそんな気分にしかならん。けれど、

杉は一個の生命。

この立地点でみることができるから、またなんだか複雑なわけで。あからさまに杉を批判するのもなんか申し訳ない気がするのです。

「杉は杉。されど“杉”ではない」
また面倒くさい方向に流れようとしている私hozzyのそっち側行きたがり症候群、笑。
まあ、聞いておくんなさい。ここに座ってゆっくりしていきなさいな笑。

杉って、俺たち日本人が呼んでいる言葉ですよね。英語だとJapanese?Cedarと呼ぶみたいです。この英語から見るとどうやら日本によく生えてる木のようですな。

杉。

人間、とりわけ俺たち日本人は、針葉樹の、細長い、幹が少し赤みがかった、全体的に三角形の木、見れば誰もが解る明確さで、その葉が濃い緑色の木のことを「杉」と呼びます(こんな書き方すると逆に杉がなんなんだか解らなくなってくる笑。説明なんてしなくても杉は杉として俺たちにはよくそのイメージがわかっている、これすげえ)。

誰もが杉をみれば杉って解るくらいに、杉は明確な形で俺らに見えている。
じゃあ、山にいる山鳩がスギをみたらどうか。
山鳩からみたら、俺たちが杉と呼んでいる木を、勿論「杉」とは呼ばないし、花粉症を発症させる負のイメージとしては見ない。
鳥にはそもそも言語がないのだし(当たり前やん)、もし彼らに言語があるとしても、人間の俺たちには何を喋っているのかはわからないし、鳥が花粉症になったらそれこそ重大な環境問題になってしまいます笑。
けれど、山鳩にはその木が彼らのシステムの中で、生きる環境の中で、あるポジションを占めているのは事実で、彼らにとって杉は人間的な「スギ」ではなくても、自分たちの環境に利用できる生きるための「素材」として見えている(例えば体を休める休憩所として)と、イメージできます。
この山鳩の視点に立ったときに、俺たちの「スギ」っていうイメージはかなり一カ所的なものの見方でしかないと、当然、言えます。
山鳩に限らず、てんとう虫でも、もぐらでも、寄生虫でも、それぞれの立場になったら、それこそ俺たちの立場は大多数の中の一つにしかならない。
いやいや、人間は、そんな生き物たちの何よりも勝って高等で真理に近く、それを追求するものであるがために、もぐらなんかと同じにされたらたまらんよ(その気持ちも非常によくわかる。俺ももぐらと一緒はなんか嫌だし笑)となっても、事実、命をもつもの、生命体というラインにたった時には、俺たちはみんな平等におんなじラインに並んでいる。
そう考えるのが逆に理性的な人間の公正な考え方だと思う。
「人間がナンバー1!」って俺たちが思っていても、モグラにとっては「モグラ(自分)がナンバー1」(俺たちみたいな思考方法では考えないだろうけど)って思っているだろうし、実際、生き物の形を俺たちなんかより必至に生きているエネルギーは感じる。

俺たちはみんな生命と言う同じラインに立っている(子供でも知っている)。おれたちはどんなに頭が良くても、宇宙にまでロケットを飛ばすアグレシヴな性質を持っているとしても、生きている、命を持っているというラインに立ったら、スギもてんとう虫も人間も全く同じ地平に立っている。モグラの気持ちが俺らには解らないように、モグラには俺たち人間の気持ちなどわからない。それは俺たちが脳が発達した高等な生き物である、という浅薄でつまらんせまっくるしい自己欺瞞から生まれてくるモグラを見下した考え方ではなく、モグラも俺らも、生体構造が違うだけで、命をもっているという至上、生きているという条件においては全く持て一緒であるということ。モグラももしかしたら俺たちからは愚鈍に見えているけれど、おそろしく理知的な性質を持っているかもしれない。それはモグラではない俺たちの思考回路からは決してわからない事柄だけれど。

つーわけで杉を「スギ」と呼んで、その言葉に負のイメージ喚起するのはとりわけ我ら人間の日本人の花粉症者に限られているわけで、全世界の他の生命たちにとったら全く別のイメージに映っているだろうこの木は、そもそも自分で「私のことスギと呼んでください!」とも言わず、「げはははは、死ねー人間どもー」なんて悪意を持っているわけでもなく、ただ生きているだけであります。
杉を「スギ」と何気なく呼ぶ事で、同時にそれは彼らの存在を僕らの意識に引き込んで、平面化している。
腹減ったトラが人間とウサギを全く同じ餌としてみるように、俺らは言葉でスギやモグラを同じように殺して心に映している。実際に殺す訳ではありません。かれらの命も死にません。けれど彼らは俺たちの言葉によって死んでしまうのです。
スギは自分のことを「スギ」だなんて一言も言ってないし思ってない、ただ生きている。この「ただ生きている」が、俺たちの言葉にかかると消えてしまう。なんとなく伝わりますか?

杉は杉。されど“杉”ではなく、その言葉の奥がわに生きている、そもそもとして、一個の生命だあああああ。
むずむずするぜ。

なんでこんな話になったんだ笑。杉から言葉へとなんて、まるでニューシングルの宣伝みたいじゃないか笑。
「言葉の森」
とても良い曲ですので、ぜひ皆様聴いてみてください。
そして長々、正義ぶったことを書いてきたのですが、随分と鼻水頭痛がひどくなってきた現在、やはり「杉など燃やしてしまえ」と思ってしまうのは、俺がどうしようもない人間だからでしょうか笑。

杉の生命に敬意を表す事で、なんとか春を乗り越えたい今です。

YES.cedar/hozzy

hozzy