見えないもの、俺たちは見ているのに。
俺、なんでhozzyって自分で改名したのか今日のリハの帰り道に解った。
俺、自分と対話したいの。
真剣に話し合いたいの(ヤバめですか?)。
私、「佐々木健太」っていう者ですが、「佐々木健太」でいたら、佐々木健太がわからんの。
俺たちは自分に名前を持っている。
それって、なんでなのよ。
この「俺」を解りやすくするため?
人に解ってもらいやすくするため?
俺は、佐々木健太である。
しかしながら、佐々木健太は平凡な名前のため、日本の至る所に存在する。
しかし、俺は、ここに、俺、として存在する。
佐々木健太には集約しきれない、「俺」の現実がある。
俺は、「佐々木健太」ではない。
俺は、ここにいる「俺」だ。
同様に、君は、名前を超えた存在だ。
hozzyって、別にhozzyじゃなくてもよかったの。
なんだってよかった。
ただなんとなく、hozzy、にした。
作詞作曲の記述はずっと、「佐々木健太」です、俺の場合ね。
なのに歌う俺、ギター弾く俺はhozzyです。
これは、俺(実は「俺」も日本中にたくさんいる笑。タクロウも「俺」というし、小島よしおも「俺」という。だから、言葉じゃ言い表せない「この、俺」のことを仮に「根っこの人」と呼ぶ)が根本的なところで何を見ているのかを、少しでも明確に感じたいから、こんなふざけた「hozzy」なんて形をとっているのは、その根っこの人がこっちのほうに問題をひり込んでくるから、なのかなと思った。今日、リハの帰り道に、その「根っこのひと」がちょっとはみでてきた。
俺は、中学生の頃から、一歩も進歩していない笑。
わからん、俺が「誰」なのか(真剣です)。
「先生!僕は誰なんでしょうか?」
「あなたは佐々木君でしょ?」
「そうじゃなくて、僕は、一体なんなでしょうか?」
「佐々木君、あなたは佐々木君よ」
「そうじゃないのです。佐々木である前に、僕は、生きているひとつとして、僕は存在しています、僕は何なのですか?」
「やめてよ、ほら、あなたは佐々木君でしょ」
「先生、、、、、、。」
伝わらないのです。
規律にそった教育では、そもそもの、根本的な謎は、開示される術がない。表面的なうわっつらだけの知識が、馬鹿みたいに、うすっぺらに「教育」によって増えていく。これのせいで、余計に本質は見えにくくなってゆく。子供は、大人たちの犠牲者だ。かわいそうだ。
俺がhozzyと自分を指したのは、この、しがらみから抜け出すためだったんだと思った。
佐々木健太で居る限り、佐々木健太である俺自身の存在がわからない。近すぎる故に、見えない。
俺はそもそもhozzyでもなく、佐々木健太でもない。
俺はそんな言葉を超えた何者かである。
同様に、あなたも、あなたの名前を超えた何者かである。
俺、俺、俺ばっかりですいません。
けれどここから始めないといけないのです。
優しさとか、善悪とか、道徳的な事って、自分に立ち返ることができて初めてちゃんとわかる気がする。外にいくら求めてもあやふやもやもやよ。
そんなことを思った。さっき。
YES,unko/hozzy