世界に打ち抜かれた、その瞬間、
俺の「自我」は、解体されそうになった。
仙台のあるラジオ局の控え室にて、椅子の上、腰掛けていた数秒のあいだ。
「自我」とは、「俺」のことであります。
佐々木健太であり、hozzyであるこの、俺。
狂った発言でしょうか。
いやいや、私は正常です。
ただただ真面目です。
つーっ、と部屋と俺が溶け込んで肉迫する。
恐れと、不気味なほどの歓喜に波打つ。
視界は意味をなくし、意味を超える。
俺は俺を失い、一つになる。
がちゃ。
ドアが開いて、スタッフの松下さんが現れて、世界の統一感が戻る。
思わず笑う。
「西田幾多郎は危険だ」
一昨日にユウイチ越しに聞いた、ある人の言葉の意味がわかった。
危険かも。
心がばらばらになっちゃうかも。
ぎゃー。
しかし、その危険は、「何に対して」危険か。
社会?生活?日常?精神?
社会も、生活も、日常も、精神も、
ほんとうの所、俺には、既にして、現実感がなく、はりぼてに感じる。
つかみ所がなく、虚ろだ。
これは、然すると、精神病者の典型であると、知識のある人は言うかもしれない。
ところが俺は、自分が精神を「病んでいる」とは全く思っていない。
しかし、それこそが、「病んでいるのだ」と言われるかもしれない。
俺には、全くそうは、思えない。
ならば、どっちが、正しいのか。
そんな基準は、この次元では、結局の所、どこにも、無いのだ。
俺が、病院に行ったら、「病んでいる」
行かなかったら、「病んでいる」 とは、勿論、診断されない(そんなこと、誰にだって言われる筋合いはない)。
俺は、病院になどは、決して行かない(誰かに、行くな、と言っているわけでは勿論ありません)
自分で、この「膜」と対決し(自分は何かに詰まっている)、制圧して、「病」と呼ばれる機械的な領域があるならばそれを超えて、血のちゃんと通った世界を生きたい。
俺の生に、他人の、強制的判断は不要である。
そもそもにして、この世界は狂っているのだから(そうとしか思えない)、
まともに、生きようとすればするほど困難です。
日に日に実感する。
東北の空気は、やっぱり俺にはぐっとくるみたい。
みなさん、ありがとうございました。
YES.ihatobu/hozzy