理由。
ちょっと驚いて、話を進めて行くうちにその事に深く納得してしまった昨日の出来事。
ごく近しい人に言われた言葉。
「hozzyが哲学みたいな事やってる理由がやっとわかった」
やっとわかったって、今までわかってなかったんかい笑。
と、俺は少々ガーンとしたのだけれども、よくよく話を聞いてみると、「なるほど、そういう風にとらえられて映っていたのか」と、何だかやけに納得してしまったのでした。
冒頭から、方向定まらぬ文章の書き方をお許しください。
まさにこんな感じで、少しばかり混乱したのです。
フォレストーンに関する所、色々な場所で哲学の話が話題になりました。
「今回はやけに哲学的な感じが強いですね」とか、
「おおげさに言うと、かなり哲学的な歌詞ですね」とか、
「なんでこんな事を歌詞にしているんですか」とか、
「意味がわからないです」とか、
「昔から、実は変わりませんよね」とか、
たくさんの話を色々な方々と重ねてきました。
謙遜するでも誇張するでもなく、フォレストーンはぴとんっと「哲学」に触れているアルバムだと思います(勿論それだけではありません)。
ここでへりくだって「哲学なんて、そんな、滅相もございません」なんて言ったって本当じゃないし。
で、さっきからさんざんでてくるこの「哲学」ってのは、つまる所なんなんだよ、というところなんだけども。
端的に言えば、世界への「視点を変える」こと。
俺個人の解釈で言ってしまえば、哲学は究極の人間ドラマであり、哲学者が組み立てるものは明らかに芸術の形の一種だと思っています(絵や音楽や詩等と並ぶもの)。
音楽や詩に感動するのと同じくらい、哲学に生命が飛び散ります。
で、俺が言われてびっくりしたのは「哲学って、何でも言葉にしようとする、堅苦しい理論に当てはめようとする、感覚とは正反対のものだと思ってた」と言われたこと。
ノーン笑!
違うよ、違うよ、その反対です。
むしろ哲学に求められるのは、普通にしてたら言葉や理論じゃ追いつかないような真っ暗闇な領域を(そもそもにして、普通には気づかないような当たり前な現実の中のひび割れを)、どうにかして言葉と理論を使って(絵や詩と同じように、独創的な方法で)、照らし出して浮き彫りにしようとすること。
哲学者には並外れた感性と、それを可能にする超人的な努力がなければならない。ただの「石頭」には哲学はできません。
俺はそんな哲学者たちの恩恵に少しずつあやかっているだけです。
言葉にできない、世界にまで到達できない、胸の奥で止まってしまっている「この感じ」としか言えない、もどかしいながらも、逆に言えば自分にだけは純粋なもの、自分を自分にしているこの感覚、感情、その正当性を守るための努力でもあるし、または気がつけば世界に放り込まれて、当たり前のように生きてしまっている現実、この命の頼りなさ、不安や絶望に、生きる指標を与えるものであったり、と哲学は、超おおまかに言ってしまえばそんなものだと言える。
おおまかに、だなんて本職の人に聞かれたら怒られてしまうな笑、すいません。
まだまだ超勉強不足なので、本当はこんなこと語れないんですけどね。
こないだもラジオで「なんで音楽なんかやっているんですか?」と聞かれて、
「???」となってしまって、もしかしたら哲学と音楽が、もの凄いかけ離れたもの(理論的なものと感性的なもの)として捉えられていたんじゃないのかな(どちらも本質は感性的なものだと俺は思っています)とも思って、ここに書きました。
哲学は、既成の理論の先を目指す、理論を使った感性的なものです(こういうと、すげーわかりづらくなりますね)。
哲学者たちは、その多くが芸術批評なんかもよくやっているので、じつは、彼らほど感性に鋭い人たちもいないのです。
俺の憧れの大人たちです。
もっとしっかり勉強します。
YES.philosophy/hozzy