ハイデガー。

『存在と時間』

ハイデガー理解への走り書き。

当たり前のように、了解されている「存在」とはなにか。
存在とは何か。「存在とは何であるか」→この時点で、この問いの中にも「何であるか」という「ある」という存在を示すフレーズが表れてくる。
これを問う事自体が、存在に関する問題を孕んでおり、間違えれば循環論的になり得る危険性を抱えている。
「存在」といは限りなく問うのが困難な枠組みである。かつ、当たり前すぎるほどにありきたりなので誰もが解った気にもなっている。自明の前提として認識されている。
で、まずはこの存在に優位性があるのかを問う。あるのならばそれは何か。それは、現存在。

「現存在」
まず現存在という定義に言及。現存在とは、言ってしまえば「己」。
人それぞれにおける自らの存在。これがほかの限りない「存在」を存在させる、というのは通常の考え。
私がいなければ、空も、ビルもない→私が世界を見なければ、生きなければ、私の感じる世界もない→自らが存在しなければ、世界もまた、無である。
すなわち、現存在とは、あらゆる存在への前存在論的な意味合いをを持つ、特別な存在様式であるといえる。そしてこの現存在にかかわる存在性を「実存」と呼ぶ。言うなれば、この現存在自体も「実存性」という性質をもちながら存在している。あらゆるものにおいて優位性をもつのが現存在。

「歴史性」
現存在の経歴の存在構成をさす。ようは、経歴。ここから、通常一般の「歴史」が成立する。世界歴史と呼ぶ。
過去というのも現存在の後ろについて回るものではなく。言わば、未来において存在するものである。現存在がまさに今にいるとき、そこには歴史性はない。
反省によって歴史性がうまれ、時間制がうまれる。過去もそういう意味では、先取された場所においてその本性を現す。

「現象」
ありのままを示すもの。また仮象としての意味でも使われる。
「おのれを示さずにおのれを通示するという意味での現象」
「それを通示するもの自身、通示者としての現象」
「おのれを示す力学としての現象」
このように3つの意味にもわけられる。1は仮象、2は本質、3は定義、として「現象」という言語をふりわけることができる。
さらに、
「あらわでない通示者が、あらわでない表面に流出するという仕方で表れるところでの現象」というカント的な現象定義もある。
→純粋直観という不明のものが、カテゴリーを経て現象という仮のものとして現出する、ということ。これは1の仮象とは異なる。1はあくまで真理的意味合いのものが、現象をとおして仮の姿として現れるという意味合いがあるから。4は大本さえも不分明としている、というか知覚としては到達できないものとしている。

『世界=内=存在』

現存在の在り方を示す造語。

1道具

壁と椅子は触れる事ができない。カント的な本質の問題を指すのではない。実存論的に言って、壁や椅子には、現存在的な固有の存在様式がないため、触れる事ができない、と言っている。椅子には世界がない。故に壁に触れる事ができない。
世界は客観的に存在するのではない。まず世界という客体的存在があって、主観がそれらに出会い物事を認識するのではない。この客体性を掘り下げていくのがハイデガーがいう「道具」のたとえの項。ものの存在が急に閃かれる瞬間とはなんだろうか。それに違和感が顕われた時である。通常の生活のなかで何も問題のない物事が続くのならば、それらはどこまでも生活に馴染んでいくのでその物事たちはどこまでも主観から遠ざかった存在である。つまり客観として意識しない状態。ストーブの灯油が切れなければ、ストーブに意識を向ける事は無い。温度が心地よければ、ストーブを意識しない。意識するのは、ストーブに欠如の相が表れた時である。ここがミソである。
客観、主観と、常識的にいって、わけることができるのが当たり前だが、この主観、客観とはなんだろうか。
欠如したストーブを意識した時点で、ストーブは客観として主観に認識される。しかし、欠如しない、心地いいままのストーブの状態には主観の意識は向かないだろうから、なんと、それを客観としては認識しないではないか!つまり、客観というのは主観があって客観になりうるのであって、客観がまず先行してそこに存在するというのがおかしい。確かにストーブという存在はそこに既にあるが、要は、認識の問題である。主体は主体を離れて、客体を感じることができない。つまり、現存在的立場からみたら、客体はどこまでも現存在の範囲の中に組み込まれていると言う事である。欠如にして初めてその存在が認識として現れる。認識なくしては、存在はない、というのは存在論的にいって、間違いないだろう。
つまり、客観は主観と一部。現存在の従属部であり、実存の相である。
これを道具の例えを駆使して明かしている。欠如が世界内存在を意識として生む。

2指示、記号

記号は関係の一種である。関係とは形式的規定である。関係が形式。記号から導かれる指示、例えば信号、は存在論的な構造をもっているわけではない。簡単に言えば、青が止まれになっても、その意味を人が把握できていれば問題ない、ということ。逆に、有用性としての指示、すなわち、はさみはこう使う、というような指示に関しては存在論的な構造を備えているし、これがなければ道具たり得ない。有用性と、表示としての指示が合体してはじめて指示記号になる。記号とは、認識にとけ込んだ用具的存在者をことさら浮かび上がらせるための表示であり、記号と道具とが別々に分離していたものを合わせるというようなものでもなく、現存在がかかわるところとして、これは不可分なものである。可分になり得ない。客体として別々なもの、とはすなわち、それは主体にとりこまれた客体として別々なもの、と言えるから、つまりは主体においてはそれらは別々ではない。不可分なのである。
そして指示関係そのものは存在論的に記号として記述されることはない。記号は指示関係を表す道具でしかないから。形式を表すことしかできない。こうであるという提示でしかない。その関係の存在構造を示すことはできない。まるでウィトゲンシュタインのような言明だ。

3デカルト批判

デカルトの主張する存在論を批判。空間性や存在を延長という視点から捉えるのでは、ハイデガーの主張する存在本質にまでたどり着けない。客体として物質が存在するのではなく、己も物質的規定と同じラインで主観としてあるのでもなく(精神をいくら高く掲げたところで、始まりの視点が客体、主客、と同値になっているのならば、同ライン上でのものの見方である)、現存在という優位、世界=内=存在的、関連から空間性や、もちろん存在論も考えなくては、存在は「思考不可能なもの」という所で結局はストップしてしまう。カントも直観や純粋悟性をただあるものとしてしか定義できなかったように。ギリシアから続く存在論の通例的見解に批判を加えている。

4開離

開離が起きることによって、世界内部の存在に現存在は近づく。開離とは離れる事だが、現存在の範囲が拡大することを指すのか、用具的存在者がその目たたなさを捨て、浮き上がってくることを開離とさすのか、沈んで目立たなくなることをそう呼ぶのか。恐らく3を指すのだろう。用具的存在者に開離が起きる、とういうのはつまるところ現存在に乖離が起きる事に等しいから。うん。
開離。意識が離れる、すなわち、他者に意識が向うその事をさしているのではないか→違う。開離とは、存在がどれだけ現存在に馴染むかと言う事。眼鏡は意識されない事にこそその存在価値があるように(眼鏡として存在できるように)その意識の遠さをこそ開離と呼ぶのである。眼鏡よりも、遠くにある山の方が現存在にとっては近いのであるように。
距離についての考察。この乖離によって空間性が生まれる。空間がまず客観的にあるのではない。現存在の開離が空間を生むのである。
道具はそこに安置され、手元や目先に配置されている。そこにこそ空間が付随的に生まれている。現存在が意識しないところにはこの立場から見たときの空間は無い。宇宙的空間もないに等しい。現存在が恣意すればこその宇宙空間である。近い、遠い、も,計測的、数学的な遠近には当てはまらない。遠くのでかい山、近くの小さいやま、どちらが遠いのかは、わからない。現存在の空間性とはこんなものである。そしてこれこそが世界空間の厳密的な本性である。山と山に距離は無い。現存在が距離を作るのである。

5共同現存在

現存在そのものとは一体誰なのか?という問い。今までの流れでは、現存在はこの私というポジションで表されてきたが、ではこの私の私とはなんであるか。本当に現存在は私自身であるのか。幾分厳密に掘り下げていく。
共同現存在、共同世界、共同存在。これらは全て現存在そのものである。主観と客観のように、まず主観があり、客観が存在するとしたら、これらの弐項はともに遭う事、接触する事ができないだろう。なぜならば始めからそれらは違うものだから。ではなくて、もともと同じものに対して事後的に弐項の関係を「与える」からこそ主観と客観が表れうるのであり、前に上述したように客観は主観の一部である。このことからも現存在とは主観であり客観であるもの「共同的」なものである。もとの「共同的」なものがそこから派生することで「共同的客体」が生まれうるのである。共同でありつつも現存在を可能にしているこの「存在根源」に関してはなお優位性があるにしても(だからこれを「主観」と呼んではならない)、同時に共同的な現存在がなければ「この」現存在もない。「この」とは「あの」から導かれうるものだからである。「ここ」は「あそこ」があって、そこを目安にできるからこそ「ここ」がありうるように。つまり、ここにいる、という現存在の優位性も共同のなかに、共同そのものの属性を持たぬ限り、実現しないということ。ここは、どこまでも、あそこ、から導かれる、相対的なものである。

6世間

日常的自己存在、つまり通常的な自分とは、いかにも自分らしく振る舞っているが、己とは到底呼べないものである。
共同存在としての自分、共同現存在としての日常的現存在。現存在が向う存在安定に、疎隔性、均等化、平均性、というのがある。社会がこれらがこれらを形成し、またこれらが社会を共同世界として形成していく。そして社会が事実現存在を可能にする。まず疎隔性とは、己を失うということである。失えば失うほど社会性は向上し、共同存在として完成していく。一所懸命に生に没頭すればするほどに己は社会化し共同化し隠されていく。均等化、平均生、とは呼んで字のごとく、社会性そのもである。規律、規制、等の共同としての存在は円滑に機能するようなシステムルール。これに則せば則すほど共同存在としては好評される。ともかく自己存在とは、社会性において初めて自己を獲得する、というのは現存在が共同現存在を含み込んで初めて存在となっている事実に則しても、反しない事になるだろう。厳密ではないかもしてないけれど。そしてこれらの疎隔性、均等性をもたらすのはなんであるか、と言えば、「世間」というもマッドモンスターである。
世間とはある個体的な対象ではなく、実態もなく、誰かが操っているということもなく、ただ、明らかに強力な権限をもって存在する無人の巨大存在である。現存在もこの世間の一部を作り、他者からしてみれば己も他者である。コントールされつつコントロール機能の強化の一旦を同時に現存在も担っている。世間とはこの意味で無人であり、存在的である。共同存在の代表であるとも言える。真の芸術を孤高の個別的光明だとするならば、そんなものは「芸術」になり得ない。均等化、平均性の網を抜けた物でなければ、その表現も存在しえないのだ。それをふるいにかけるのが世間である。誰ともない存在である。日常的自己存在とは存在忘却をした自己であり、価値観の首輪をつけた奴隷であり、誰ともない他人である。社会性を身にまとった自己は他者同様である。唯一他者に抜きん出ている点は、このように、巧妙な罠を抜けようとする努力を、それが微力な抵抗だとしても、奮起させることができる意志を持ちあわせているという点である。この日常からの脱却をもって、狂人となることも可能であるということだ。それは極端になると統合失調症という社会的レッテルを付与されることにもなるのだけれど。

7被投性

共同現存在としての己を引き合いにだしたけれど、なお一層、根源的な存在様相に焦点を当てると、「現にこのありさまでこの存在を存在ている」という現存在の独自性が表れてくる。共同性よりももっと根源的であり、また現存在の殊特性を閃かす性質である。
世界=内=存在というありかたで、この存在を現に存在として存在している。これを被投性とハイデガーはいう。そしてこれをまず始めに可能にしているのが「心境」である。
心境とは気分のことである。客観、主観、云々のあとにこのような曖昧なものがテーマになってくると、首を傾げたくなるが、この「気分」というのを客観的に眺めてはならない。
あくまでも現存在のみている世界に則して理解する必要がある。気分とはなんであるか、現存在が世界を見やるとき、もっと言えば、世界を生きるときに、必ず伴う現象である。
山を見るとき、景色を見ずに思考に耽る時、思考しながら歩く時、音楽を制作するとき。常に気分はこれらの状況に帯同してやまない。そして、この「気分」が現存在の行動している世界を面白いくらいに変動させてゆく。ふさぎ込んだ時に見る海と、高揚している時に見る海とでは、まったくその映り方が変わる、と言う事があるように。現に生きる現存在には常に気分と言うものが先行的に眼鏡のように付随している。気分というレンズを覗いて世界を眺めている。被投性という性質を持ちながら、常に開示されている世界に対して、心境によって現存在は、その世界を明るみにだしたり暗がりに引っ込めたりしながら、開示と連結をとり(その開示を存在させ)存在している。

8了解

世界が「現に」存在しており、その世界が現=存することは、内=存在である。実存する世界=内=存在がこのように開示されており、この開示態のことを「了解」と呼ぶ。
つまり、世界がこのような有様で現存し、それを認識にまで押し上げる事ができるのはこの「開示」に対しての根本的な「了解」があるからである、ということ。カントの純粋直観から純粋悟性への構想力を指すような言明であるが、切り込み方における立ち位置が違う。この了解とは現存在の在り方そのものを指す。純粋直観や、純粋悟性というような、すでに客体化された概念、すなわち、主観という観念から導出された概念と同じラインにあるものではなく、その主客にわける客観的視点が分け入る以前の現存在の世界=内=存在という有り様にそなわる性質を指すのであり、根源的な存在様相にともなう性質を指しているのである。非常に文章にすると解りにくい。つまるところは、カントの思索とハイデガーの思索のスタートラインが違うように、表現も変えなくては混同する、というような意味で、「了解」とはカントでいう「構想力」と同じ思想表明の言語に過ぎない、と言語的には言ってしまってかまわないのではないか。ニュアンスの違いはこの本を読み進めて獲得していくしかない。

9解意

了解を認識に押し上げた状態の了解。つまり開示からの根源的了解が、心境のフィルターを経過し、目立たなさから気遣いに至り、内世界的存在、意味を伴った状態になった了解の表面的形状。

10言明

言明とは解意の一派生体であるとする。ウィトゲンシュタインの思想とは逆転的であるが、そういわれればそのような気にもなってくる、というか、この考え方の方がまともに思える。
言明とは、解意した内世界的存在を言語に当てはめて表明することである。解意は了解的な世界内存在の存在に対する前ーカテゴライズ的なカテゴライズのようである。カントの純粋悟性概念のような思索的ポジショニングである(角度的、段階的には指し示すポジションは全く違うけど)。この前ーカテゴライズに言語を当てはめたものが言明。そしてそれが客体として均等化された平面的な場所へ押し出され、属性やら、類やら、種やらに振り分けされテゴライズ的ポジションを得ると言っている。だから、言明をしなくても、その解意した存在に関してはもはや表面的了解が備わっているとする。りんごを食べたいとする、りんごを目立たなさから解放する心境、気分、がりんごをその存在として存在させる、ということか。いや、これだと「りんご」という言語問題が関わってくるからいけない。目の前の椅子が邪魔だからどけると言う場合にはどうか。これでも椅子というのを「椅子」という言語的了解なしに解意してどかすことができるだろうか。じゃまだからどける場合、まだ解意は成立していないのではないか。目たたなさの中にあって、「椅子」という言語的了解に至らない状態で椅子をどけることにきっとなるだろう。ストーブの欠如状態が明らかになる時は、寒いという状況把握が必要になる。寒いとは何か、そしてストーブに火を点しに行く時の「ストーブ」とは何か、これはプレ段階でその「何か」を言語的に把握していなければ(つまりカテゴライズ的に客体化の属性の中で把握していなければ)成立しないのではないか。この解意と言明に関しては、やはりウィトゲンシュタイン的な思想の方が優位である気がする。すでに言語というものに馴染んでいなければ、解意もおきないに違いない。と、思いきや、突然目の前に訳の分からないオブジェが表れたとして、それは勿論「言語」的には当てはめられないものである。そのときでも当然目立ちから解意が起きる。その後でこのオブジェに言明を加える事にもなりうるなぁ。どっちが先だ。解意か言語か。意味の分からないものでも存在確認する事はできる。しかし、このオブジェも「オブジェ」とする限り言語の枠に収まっている。「わけのわからないもの」も抽象的であるが「形」として言語の中に収まっている。屋根の上にぶよぶよしたものが這っているときにでも「ぶよぶよしたもの」という述語的言語が関わってきている。言語に収まらないものを果たして現存在はそれを存在させることができるだろうか。それを解意した瞬間に「物体」や「色」という「小さい赤い空中に浮かんだもの」のような言語化が起きているのではないか。世界は言語の総体である。というような世界なのではないか。現存在の根源的存在を抜かしては。世界=内=存在とは言い換えれば言語的世界であると言えるかもしれない。世界内存在としての現存在の根源、了解的な「現に」ここにこう存在しているということ、その言語の到達できない場所。それをウィトゲンシュタインが安住する場所としたように。ハイデガーの「世間」「世界」の項目はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」と共通項を持っている。切り込み方が違うだけのような気がする。ちなみに「論理学的な論理」とは、数学的なものも含めてであるが、上述のカテゴライズに属する、最も「客体化された」仕方で存在するものである。科学や宗教や芸術的批評もそうである。そこには共同世界の息が多分にかかっている。「言語」「存在」は最も、根源的に人間の根底に関わってくる問題である、と思う。だからといってカテゴライズ後のものを格下げするつもりはない。音楽はまた別の次元でピンク色に気楽に存在するものであると思う。だから楽しい。

『時間性』

現存在の本来的自己としての形態は「関心」である。了解に先立ち、なによりも先に現存在を成り立たせるのが関心である。では関心は何によって可能であるか。
「時間性」によってである。この時間性という観念は、通常の時間概念とは異なっている。過去、未来、現在、をさすのではない。これらはひいては、日常的=世間的時間である。
本来的な時間性とは、将来することでおきる「関心」そのものの動きに伴う発動性質を指す。つまり、「関心」とは時間性である。これが時熟することで(これを将来に向うと呼ぶ、これに向う働きの性質を先駆と呼ぶ)、関心が動き伴い、本来的自己の基盤が形成される。時間性とは、存在ではない。時間に存在はない。存在を置く空間が時間である。空間は時間である。
時間性に立ち入って、未来や過去をみると面白い。
「過去は、現在より時間的に先にある」し「未来(予測、すなわち記憶)は、現在より時間的に後ろにある」ことになる。あくまで時間性に則して日常的時間を眺めたとき。

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