1379面体。
知ると言うのは恐ろしいことだ。
人生が多面体だとすると、知るたびにまたそこに面が増える。
知る、増える、知る、増える、知る、切る、増える、知る、切る、面が増える。
そして、その一面がしっかりと映るのは、決められた角度からでしかない。
始めは球だったのか。
全体が一面だ。地続きに、初点から初点まで、どこを通っても区切られることはない。
故に、広すぎて、一度に全体をつかむ力は無に等しい。
だけれど、凄いのは、つかむ以前の、感性を映せる範囲。
区切りが無いから、全体が感性だ。
理屈も、言葉も無いから、映ったものがすべてだ。
裏も表も、右も左もない。
全感覚が全宇宙。
天然の大芸術家。
そこにカットをいれる初めての出来事は一体なんなのか。
球が転がらず、コロンブスの卵みたいに、直立不動にこの世界にたてる、その一撃はなんなのか。
そして、その初めての一面に映るものは?
裏も表も無い世界から、飛び出す第一歩が人間としての始まりかもしれない。
踏み出さなければ、もしかしたら無垢な、純粋な、非人間的な完璧なままでいられたかもしれない。
けれど、人間は踏み出すことを、なぜだか、選ぶ。
選ぶようにできている。
明るく言えば「生をつかみ」、暗く言えば「崩壊をつかむ」
自らの意志でもなく、球は始まりを選び、自分をカットしながら、創造的に自分を面に映していく。
知ることで、削られたところが、肌寒い。
少なくとも、俺はぴゅーぴゅーする。
面が増えれば増えるほど、一つの面の幅は、狭く狭くなる。
やがて感性も、場所によっては、芥子粒ほどの輝きしか映さなくなるだろう。
ぴゅーぴゅるるー、だ。
ところが、どっこい、面と面は、合わすことができる。
お互いを、少なくとも球よりは歪曲すること無く、ずっと安定して映すことができる。
寒いところが、それで埋まったりする。
埋まらなかったら、それはそれで、「なぜなんだろう?」と、またカットすることもできるわけだ。
希望がある。
少なくとも、一筋の線が、光が、か細くても、可能性を紡ぎ続けてくれる。
それも、その可能性は生きてる限り無条件に、誰にも無料で配られている。
球は美しいけれど、そのままじゃ、抱き合うことも、映し合うこともできない。
ただ莫大な量の感性を、その表面に、一方的に、映し続けるしかできないんだ。だから初めて、そこに切り込みを入れるのが母性なんだろうな。
知るというのは寒くなるし堅くなるし恐ろしいことであるけれども、間違いなく、バランスの取り方だけは教えてくれる。
感性が、枯れてしまいそうになるのなら、それこそ枯れ葉に、なるべく広く残った面を向ければいい。
コネクト!!
なるべく、長く、じっくりと。
最近気がついたのだが、世界に散らばるあらゆる物は、目を凝らしてまたよーく見てみると、素晴らしく新鮮で、心がわくわくしてくる。
鮮度が違うのだ。チラ見と、じっと見では、物の鮮度が違う。
川をぼーっと見るのと、じっーっと観察するのでは、世界の活発になる感じが全然違う。
コンクリートの壁でさえ、ぐっと睨んでいると、ぼーっと眺める金閣寺なんかより、ずっと金色の生命力のようなものが感じられる。
忙しかったり、気疲れしたり、にっちもさっちも行かなくなったりした時に、ちょっとおすすめです。
狭くなった面を最大限に生かすには、その場所を大きくはできないけれど、拡大することはできる、と思えるようになることが重要かもと、最近思っている。
自分からその面に近づくことができるようになったら、どこまでも小さい種みたいな輝きも、相対的に、太陽のような大きさ、暖かさに感じられるようになるんじゃないかと、ちょっと無謀な考えの中、じっと見を継続中。
ちなみに、みなさんから頂いたメールはゆっくりとですが、確実に読んでいます。
予想以上にたくさんのメッセージを光栄ながら頂きましたので、読むのに相当時間がかかりそうです。
一括で申し訳ないのですが、とりあえず、ここでお礼を言わせて下さい。
ありがとうございます!
YES.ganmi/hozzy