エンジンダウン。
タナトスは丘いっぱいに広がる菜の花に目を向けた。
タナトスがそれを美しいと思う前に、それは一瞬で枯れ果て、丘はただの砂山に変わっていた。
タナトスの目には涙があった。
これまで感じたことの無い歪みが、のどの奥に絡まっていた。
「私は生かしてはいけないものを生かしてしまった」
深い後悔が固く細く根を張っていった。
箱の中からは、未だに女のか細い声がしていた。
あれから何年経ったろう、やはり箱は箱のままである。
タナトスは風のような体をしている。
姿形ははどこにもない。
けれど確かに彼はいる。
誰につかまれることも、ましてや抱きしめられることもなく、やってきてはただ通り抜けてゆくだけ。
そして多分、彼は誰にも愛されたことがない。
愛されたとしても、それはまともな愛ではなかったろう。
彼を愛した人間は、彼への愛に触れたとたん、彼の心を知る前に、すっかりここから消えてしまう。
彼への愛はおそろしい。
おそろしいから、人を魅きつける。
生きる退屈さに疲れ果てた人間は特に、タナトスの影が大好きである。
その影で、自分の影を塗りつぶす。
黒く黒く、塗りつぶせば塗りつぶすほど、生きてる感じが嬉しくなる。
これは何なんだろうか。憧れと呼べば足りるのだろうか。
ソフィもそんな人だった。
タナトスが唯一愛したその人は、今も箱の中で、四角になって生きている。
彼女を死なせたくないから、
彼は彼女を閉じ込めた。
彼女を愛していたいから、
南京錠でロックした。
自分の瞳に映らないように、自分の息吹に触れさせないように。
狭い箱に、押し込めたのだ、、、。
タナトスは死。
ソフィは知。
気の遠くなるような昔から、二人は大事な役目を背負ってきた。
タナトスは膨張し続ける世界にクサビを打ち込み、ソフィがそのクサビに存在理由を与える。
命の系譜。
滞りない流れといえど、そこには色んな悲しみが澱のように沈んでいる。
時間は何一つ留まらせはしない。
命はそこにいたいのにしがみつく窪みはどこにもない。
だから皆が悲しみにくれないように、ソフィは薬を処方する。
美しいうたをうたって聴かせ、清廉な詩をつづっては落とす。
世界が傾き沈まぬように、二人は無言で働き続けていた。
誰のためだったろう。
何のためだったろう。
ソフィはその理由をやはりうまく作り出すことはできたが、それが真実本当かどうかは彼女にもわからなかった。
タナトスだけがその理由を今でも覚えていて、誰のためにか、何のためにか、必死になって今でも彼は自分の役目を怠らない。
休むこと無く、ただただ空白を創り続けては、新しい命のためにその場所を差し出し続けている。
ある時ソフィの様子が急におかしくなった。
彼女は見てはいけないものを見てしまったような顔つきで、自分の顔を虚ろなまなざしで眺めていた。
鏡。
彼女は鏡を覗き込んだまま、そこからじっと動けなくなってしまった。
脇目も振らずあらゆるものに理由を与え続けてきた彼女にとって、最も理由を与えなくてはならないものをそこで見つけてしまったのだ。
「あ」
がしゃん、と鏡が砕ける音とともにソフィはその場にへたりこんだ。
無数に散ったガラスの破片に、彼女の青白い顔が点々と映し出されている。
「私の理由はどんな理由…んぅ…」
それから何日も、何ヶ月も、ソフィは殻に閉じこもり続けた。
美しかった光り輝く振る舞いは見る影も無く、惨めで陰鬱な骨と皮ばかりのため息が時々口から漏れるだけとなった。
タナトスはそんな彼女の憂鬱を、なぜかひどく美しいと感じた。
できるならば、彼女を救ってやりたい。
この手で、息の根を止めてやりたい。
彼の心はひどく揺れ動いていた。
しかし、結局彼は彼女を遠くから見守ることしかできなかった。
彼女を死なすことは、重大な反逆であるからである。
何があっても、彼女を消し去ってはならない。
これは遠い昔にタナトスが言いつけられた、古い古い契約の一つだった。
彼女を消し去ってはならない。
へたりこんだままのソフィは、今にも消えてしまいそうに背中を丸めている。
そして、世界は徐々に重い暗黒期に変わっていった。
知性的だった規律が崩壊し、猛り狂う人間どもの波は更に大きな波に呑み込まれ、ぶつかっては砕けぶつかっては散らばりを繰り返し始めた。
その激流の中を、タナトスは風のように通り抜け続けた。
「奪え奪え奪え奪い続けろ人間どもよ」
「お前らの命をもってソフィの苦しみの深淵へ遠く祈ろうではないか」
「剣よりも早く、槍よりも固く、お前らの呼吸を貫ききってやる」
「ネズミたちよ、さあ行け。矢よりも早く散らばるのだ!!」
ペストが大流行した。
死体は高く高く山積みにされ、その中心で魔女狩りにあった少女が磔にされた。
世界は混沌としていた。
ソフィはその後も相変わらず臥せり続け、朦朧としながらうわ言ばかりを呟き続けていた。
その声を微かに聞いたのがジャンヌダルクであった、森の奥にひっそりと棲む老婆であった。
彼女たちが火あぶりにされたときも、タナトスは横にずっと佇んでいた。
「答えなどいらない」
「理由などいらない」
「にんげんたちよ」
「どうしてそんなに脆いのだ?」
ソフィはいよいよ神経衰弱になり、タナトスの影を愛し始めるようになっていった。
形あるこの世界に答えを見つけられないならば、もう形無き場所へ救いを求めるより他が無い。
彼女をじりじりと追いつめたものは、あまりにも狡猾で強大でそして紳士的な静けさを持った絶望だった。
あまりにも単純な問いかけに、こんな合わせ鏡のような無限ループが潜んでいようとは、恐ろしさを通り越してやけに滑稽である。
ソフィも何度笑ったかわからない。
鏡に映った自分が一体誰だか、全くわからないのだから。
「ミイラ取りがミイラになってしまったわ」
「もう何もないところで何もなく過ごしたい」
「何もないって素敵だなぁ」
「ここにいるのはもうかないわないよぉお」
乾ききった髪の毛をかきむしりながら、ひび割れた唇で笛を吹いた。
「タナトスさん、きてちょうだい」
タナトスは何も言わず、ソフィの背後に佇んだ。
「タナトス?」
「…………」
「私は、もう駄目だから。代わりの人を連れてきて。そしてその人とまた世界を光で照らしてください」
「…………」
「私は、私の約束をもうすっかり忘れてしまってね。なぜここにいるのかわからなくなってしまいました」
「…………」
「もうここにはいたくはないわ。さあ、私をけしてください。お願いします」
「…ぃ…」
「え?」
「……っ」
ぱちん。
それからずっと、ソフィは箱の中である。
彼女の後継者は実に優秀であったから、今もタナトスとうまくやりながら世界のバランスを監視し続けている。
減りすぎないように、増えすぎないように。
夢を見すぎないように、絶望を抱えすぎないように。
フリーメーソン。
その後継者が人間たちに作らせた、彼のコントロールルームの名前である。
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