コトダマ。
雨
降る
私
見る
声
響かない
明日
晴れない
そして
私
眠れない
だから
光
待つ
この文章、っていうか文章って呼ぶのかわからないけど、この言葉の羅列が気持ち悪いのはどうしてだろうか。
こんな表現方法の詩や文章があっても面白いと思うし、実際あると思うし、あった気がするけど、やっぱり普通の感覚からしたら奇妙である。
何が奇妙なんだ。
それがなんのか、わかったりしたらやっぱりそれはたいしたものだろう笑。
あるヒントを経て、一つの解釈に事実到達した気がするのでここにしるしてみます。
なんか眠れないので、眠くなるまでそれを書き連ねさせて下さい、、、、。
上の言葉の羅列、文章で見ないで音の響きだけ、口から出てくる言葉だけで聴いたら外国人が日本語を喋ってるようなぎごちなさには聴こえるけど、文章で見るよりもかはまだ奇妙には感じないと思う(暇な人、実際やってみて下さい笑)。
なのに、文面でみると非常に平面的と言うかわざと感情を抜き取ったような機械的な印象が際立ってくる。
まるで半分人間半分ロボットの生き物がなまなましいラジオボイスで語りかけてきているような感じがする。
一体この同じ文章が口からでるのと目で見るのとの違いはどこからやってきているんだろう。
口で発音した方がまだ温かい感じがするのはなんでだい?
って考えてみたら、その違う所がゆっくり浮き上がってきた。
表情。
何かを伝えようとする意志が、口から発せられる場合にはほんの少しだけだとしても伴っている。
たとえ無表情にこの文章を読み上げたとしても、その「無表情」という表情がちゃんと空気を伝播して、相手のもとには届く。
少なくとも、感情がその文章にともなう。
だけど、書いてある文章からだけではそれがどうにも伝わってこないから、なんか奇妙というか、無音のようなのっぺりした感じがする。
じゃあ、目で見る場合のこの文章にたりない表情ってのは、一体なんなのか。
何を足せば、それが補えるのか。
というかそもそもこの文章に足りなかったものは何だったのか。
辞、だ。
現代では助詞という。
辞、って笑。
古いのかなやっぱ。
つまり、「てをには」ってやつです。
雨
降る
だったら、
雨
が
降る
って本来はするし、
私
見る
だったら
私
は
見る
って本当は書く。
単語と単語をつなぐ言葉。品詞と品詞をつなぐ言葉。それをアル言語学者さんが「辞」とよんで総括していたのです。
今日「は」私「の」誕生日「が」ワラワラ「で」開かれます
の「」のなかのやつが辞と呼ばれるやつです。
私
見る
が
私
は
見る
になったらそれだけで、表現に普通の表情が出てくる。
ありきたりでつまらない感じがするけど、馴染んだ感じがするにはする。
さらにその言語学者は、「、」や「。」にも辞としての機能をみてとっていた。
そして、
わたしは、
だったり
私
は
見る。
だったりって感じで、辞がとても重要性をもって文章に意志を与えて行くものらしい。
ここで更に突っ込んでいってみよう。
いったん、辞の事は忘れて下さい。
もっと奥まで下っていってみよう。
西田幾多郎という哲学者の「場所の論理」というやつの中に、「どこまでも述語となって主語とならないもの」、「述語的統一」というのがあります。
それが一体なんなんだ。
それは一体なんなんだ。
これは一体なんなのかっていうと、「なんなんだ」って感じです。
が、非常にキ違っていて面白い話ですので頑張って説明を書ききってみせます(俺には面白く書けそうも無いけど、、、、)。
大抵、常識的に言って「主語」はメインで「述語」はサブメイン、「主語」が主役で「述語」はその主役を支える引き立て役ってイメージがあると思いますが、まずはそういう風に普通の文章を見ていってみましょう。
『私は雨を見ている。』
この文の主語は、「私は」。
述語は「見ている」です。
主語の「私」が雨を「見ている」
小学生の授業なみに簡単な例文。
当たり前すぎるこの文章。何の変哲も無い記述、、、。
ところがこれを西田哲学を通してみると、全く様相を変えて行くのです。
ここで問題になってくるのが、そもそもどうやったら「私」という主語が雨を見ているという瞬間に、たち現れてくるのか。
現実的に、「私は雨を見ている」というのはどんな状況においてなのか。
一気にきました。いきなり次元がワープしましたが、いきます。
この文章が現実に起きるのはどういう状況に置いてなのか。
主語になっている「私」が雨を「見ている」というのはどういうことなのか。
雨を見ている私はどうやってこの現実のその瞬間に私として現れているのか。
そもそも私が、「私」と「雨」を区別するのはどんな仕方によってなのか。
それを更に拡張するとこの世界に「私」が私として現れてくる、私としての自己同一性が確立される瞬間はどうやって現れてくるのか。
といった、哲学なんだから当たり前だけど実に雲をつかむかのような主題がやはり西田先生に置いても重要になってくるわけです。
『私は雨を見ている。』
この状態がある瞬間に成立するには、実際にどういうことが時間の経過の中で起こっているんでしょうか。
『私は雨を見ている。』
さあ、実際に雨を見ている気持ちになってみて下さい、、、、、。
回想、、、、、。
しとしと、、、ぱらぱら、、、、、さーさーさー、、、、。
雨が降っているのを私は見ています。
「降っている」雨を「私」は見ています。
降っている、雨
それを見ている「私」。
さあ、見えましたか?
降っている雨を見れましたか?
「見ている」つまり
「見る」という瞬間。
その「降っている雨」を「見ている」瞬間が、とても大事な事に気がつきませんか、、、。
その瞬間を「見ている」、わたし。
その「見ている」という行為が、瞬間的に、正に「私」と呼べるこの自分を成立させてはいないかな?
「雨を見ている」と言う行為があるからこそ、それを意識する「私」という存在がここに生まれると言えはしないでしょうか。
「私」が、わたしとして既にここにいるという感覚は、実はよく検討してみるといつだって「見る」や「聞く」や「触れる」という行為、「ぼーっとする」「酔っている」という何かを常に「している」という状況の中にいて、それと自分とは切っても切りはなせない関係にある。
俺たちの存在は常に何かをしながら、その「行為」を伴いながらここに「存在している」という意識を伴っている。
だから、その何かを把握するということから、自分というものをとらえて行く俺たちの存在の仕方を、「述語的統一」と西田先生は言ったんだと思う(見ている、という述語的動作が、私、という主語的存在を統一して存在させている)。おそらく笑。たぶん。
本当の主体(自分)というものは主語に記されるものではなく、述語にその本質がたち現れてくる、という理論ですな。
「私」という主語は私について何も語ってはいないけど、「見ている」という行為は私の状態を少なくとも「私」よりは語っている、、、。
こ難しい。
で、この述語の論理に関連して、中村雄二郎と言う人が時枝誠記と言う言語学者を紹介していて、興味を持ったのがきっかけで例の「辞」というものの考えに出会う事が出来たわけです。
ここで辞の話に戻ると、とても根本的なところに行ける気がしてしまう。
西田幾多郎の場合は、述語的統一といっても実際に問題にしている場面は文章の中ではなく、現実の中においてであるから、「見る」や「聴く」といった実際的な行為を述語的と呼んでそこから主体が統一されると考えたわけだけれども、時枝の場合は言語が活動の場面であったから、現実を把握するというよりも、現実のなかでの言語の把握が重要であった、当然ながら。そしてその中で、辞の重要性を強調したのは、文章における辞が表情を強く持つ事、そこに人間の行為と同じく動きを生み出す力があふれている事、言い換えればそこにこそ主体の意志が強く宿されると言う事、本当の主語的な部分は実は主語ではなくて、辞に強くあらわれているということを示したかったからだと思う。
だから実際には、言語学的な枠の中でいうと述語と辞というのは捉える範囲、指摘する部分がちがうけれども、
西田における「述語」、時枝における「辞」は本質的には似たようなものをさしていると言えると思う(西田幾多郎の哲学はここから更に深いところまで発展して行きます、、、怖い)。
現実的生活の中では「述語的」な動きが人間の本質を規定しているのに対して(西田)、文章表現の中では「辞」がその文章の本質的な規定を示している(時枝)。
違うフィールド、違う角度から、見えないものをとにかく見ようとする人間の努力の結晶、ほんときわきわな思考的な巨大遺産ですな。
美しい!
私は雨を見ている。
この文章に込められた、この文章を書いた人間の意志が一番こもっている辞(俺がここまで書いてきたこの文章全体が、俺の意志を持った「辞」に貫かれて、正に俺が「書いた」という事実が事実として成立している。この文章が「俺の文章」といえるのも、俺が配置し続けてきた「辞」があるからこそだ。こんな面倒くさいことは普通考えないけれど笑)。そしてまた、
私「は」雨「を」見ている「。」
という文章は、辞の操作のおかげで実に同じ状況に対して、様々な形に変化させる事ができる。
見ている。雨を。私は。
雨が、私を見ている。
見ている私は、雨だ。
雨に、私は見ている。
、、、、などなど。
同じ雨が降っている状況に対しての違う表現方法、そう表現したいという意志が各々の文章において貫かれている(実はこの「違う表現方法」に対する理解を西洋の言語学はなかなか捉え切れてないでいるという事実があるっぽい。日本語は特殊な構造をしているから、言語の構造に大きなヒントを持っているのかもしれないね)
そしてつまり
「私は雨を見ている」
の「私」ってのは、結局それを表現している当人の個性を表現してはいない。
その「私」は、主語だけれども、「私は」の『は』の方がむしろ主体の意志を文章に反映している。
りんごは、りんごではない。と前から俺言っているけれど、「私」も私でないのです、、、、、。
むしろ私とは、文章表現においては、「は」であったり「が」であったりの方なのだ、、、、、。
そして、現実的生活の中でなら述語的作用に、文章表現の中でならその辞の作用に、どれだけ人間と人間がお互いにコミットし合っていけるか、というのが言語における基本的な関係規定である、と言える。
まぁあくまで原理的で基本的な一つの考え方だけれど、、、。
ただ、言語表明というのは、およそまともに枠内に収まっておとなしくしているものではない(ここが言語学的にも最も難しいところのひとつではないかと思う。哲学者ウィトゲンシュタインの抱え続けた苦悩が真っ先に頭に浮かぶ、、、)。
それは俺たちが、デジタル的に規定された生を生きていないということの証明でもある。
はみでるということは、規律を犯すと同時に、その表現の底にうごめいている生の躍動の証明でもある。
その躍動にこそ、俺たち個人の生が宿っているとまた言えるわけです。
その関係の中で、俺たちはすり減りながら生きるのか。
それともそれを豊かさと受け取って進んで行くのか。
言語とは、実に人間の本質にべったりとくっついていて興味深い。
意志を表現する言葉、それにとりつかれたらもう恐ろしい。
だから俺は恐くて余計に愛してしまうのかもしれない、、、、。
今回はかなりマニアックでした。
ねむい。
YES.tokiedamotoki/hozzy