3月 2010

つぎはクラゲさ。

ふたりでシルバーも終了し(皆さんありがとうございました)、いよいよこぼれるシルバーが近づいて参りました。
新宿と横浜、タクロウが最後参加しカホーンを叩いてサプライズ。
いわし雲のゆるさがぐんと際立ちました笑。
アコースティックはまた曲によってとても良いですね。
とてもあたたかい。

そんなこんなでミズカネのキャンペーンが終了し、あとはとうとうライブの時間です。

その前にすくない趣味を楽しみます。
空き時間は専ら水質のことで頭がいっぱいです。
水が綺麗になるってどんなこと。

アクアリウムは奥が深いです。
魚そのものより、いつしかそれをとりまく環境(水質)に心を奪われてしまいました。

目に見えない攻防が私の心をぞくぞくさせます。
すなわち、バクテリアと水質汚染物質の戦いです。

濾過。

水を綺麗にするシステムは何パターンもあり、コストパフォーマンスとその効果とそもそもの飼育目的(なに飼いたいか)とで大きく変わっていきます。
それを観念的じゃなくて(例えばゲームのPSPのように仮想的ではなく)実践的に水に触れ、汚水を処理し、餌を与え、濾過システムをメンテナンスする。

手が臭くなる。

しかーし、

それがまたいいのです笑。

しかも、魚たちはプログラミングされたアルゴリズム的な動きではなく、最高にアナログな予想不可能な行動をとってくれる。
わかりきった世界はここには無いんです。
それを改めて、直接的に教えてくれる。

気がつかないうちにどんどん一元化していく感覚が、これで分散される気がする。

一元化していく感覚。
それは、結果をすぐに原因に結びつけたがる俺たちの習慣だ。

当たり前のように、俺たちはあらゆる出来事には原因があると思っていやがる。
それはある範囲では間違いない。
むしろ、反省をすることによって、その後の行動の精度をあげるにはとても有効な手段である。

しかし、よく考えてみると、原因が結果を作っているとは言えない。

いつだって、原因は結果から推論されて、作られている。
つまり原因は、結果ありきの産物じゃあないか。

ちがうかい?

原因てのは、現時点からの反省によって生み出されるものだ。
そしてそれを生み出すのは人間の思考によってだ。
その思考は、様々な推論を束にして、どうにかそれらしい確実さを得る方向に、原因を作っていく。
そんな原因は、完璧な原因っていえるんだろうか。
数学ならば、完璧に表記できるだろうか?
それも無理な話だ。
なぜならば、数学を使っての計算も、現時点からの反省に過ぎないからだ。
数学はその構造上、本来的な時間を欠如している。
いつだって、1678年だって、2010年だって、1は1だ。
1+1はどの時代だって、2になる。
そういうルールの上に数学は存在している。
時間の感性が数学には存在しない。
だから、今食べているドーナツも、二日前に食べたドーナツも、同じ1という数字に還元できてしまうんだ。
でも大事なのは、今食べているドーナツと、二日前に食べたドーナツが、明らかに違うものであるし、その違いが俺たちの人生を限りなく豊かにしているということなんだ。
1678年に存在したドーナツと2010年に存在するドーナツが同じ1で表されるなんてありえない。
でもそれが現実に、あり得てるんだよ。
数学だとそれが可能になるんだよ。
たとえそれが積極的作用ではなく副作用的な性質としてでも、有害な現実を作っていっているんだよ。

更におかたく考えてみる。

芸術が何故、芸術として人々に必要とされているのか。
それは、この原因と結果の逆転的混乱(つまりは今まで書いてきた通り、あくまで結果的地点が原因を作り出しているという現実が、順序逆に落ちいっているという常識に染まっている)に対しての精神的安定のためではないかと思う。
絵画に関して言うと、この絵画は何を示しているんだろう?
そもそも絵画が絵画として成立するのはなんでなんだろう?

俺はしっかりとした意見を持っているぜ笑。

まず、絵画には、原因と結果が重要ではない。
現実世界に冒された時間のねじれの感覚を越えた地点に絵画はある。

絵画を、現実的に分析してみると、原因は「絵の具、キャンバス、水、筆、画家、湿度、年代、、、、、」とくだらなく羅列できるし、結果はそのまま「睡蓮(モネの絵)」と例えば記せてしまう。
だけれども、本当に重要なのは、そんなもんじゃないと多くの人が知っている。
その中間にこそ示されるものが絵画の本質だ。

モネの睡蓮の良さは、見た人ならばきっと心に刻まれると思う。

そこにある感覚は、原因や結果には収まらない、中間的な感覚の層。
時間を無視した数学的模様ではなく、時間さえ内包した心に訴えかけるなにものか。

芸術を人間が何万年もまえから高く評価してきたのは、やっぱりそこに人間の本来的すがたが投影されているからと思うのです。

そのかんじが、きれいな水質にも限りなく凝縮されていると思う。

すげえ、強引かな笑。

まあなんでも見ようによってはよく見えてくるのさ。

ふわふわした中間層が、俺には水槽の水質にこびりついているように見えてきてしまったのだ。

で、うだうだ芸術論かましたけれど、おれの水槽はそんな高級なモンからはまだまだほど遠い、、、。
まだ全然うまくレイアウトできないし、死んだ魚もたくさんいるし、簡単なやつしか飼えないし、それでも科学的に水槽を作っているけれど、あくまで原因が結果を作り出すとは思っていない27歳です。
だって、魚が動くのに原因なんてないもん。
そこへ、そこへ、そこへ。
それだけが続いていっている。
効率よく、それは反省して大事に通り越せば良い。
だけど、水質は効率を超えて生きている。
全く困ったもんなくらい手に負えねえや。

底面濾過と上部濾過、60センチ水槽にかましてやった。
その結果やいかん。

YES.nisso/hozzy