自由研究。
何度見ても生き物というものはすごい。
「生き物というもの」って言う表現が適切かどうかはわからないが、生き物というものはどこまでもとどまらないのがすごい。
細かく言ってしまえば、この世界に在るあらゆるものは、留まっているものなんてなにひとつないんだけど(石もガラスも常に風化を繰り返してる)人間である自分の目から見える日常世界においては生物の留まらなさを確認するのが限界なので、やはりそれを素直にすごいと思うのである。
哲学や理論系に浸った時間は決してむだではないけれど、やっぱり無機的な言葉の連続の中に身を置くことで見えなくなってしまうことも多かった。
哲学はどうにも世界の事象の核になるものを見つめる作業になるから、言葉も色彩的表現を欠いて(ウィトゲンシュタインだけは例外的に詩的!)、建築物で言うなら鉄骨のような骨格的言語の繰り返しが主になる。
ここまでに書いてきた文章のように、硬いものにどうしてもなる。
日常的言語では芯の部分にどうしても迂回的になる。
理詰めで余分なまとわりを省き続けなければならない。
それはそれでものすごく情熱をかき立てられる作業だけれども、人と喋ったりするとなんか変なふうになったりする。
会話には理論なんて必要ないのに(まるでそれはただ面倒な人間の独り言のような)、そっちにどうしても導かれるようにバイパスが出来上がってしまうんだよ。
それが面倒で、攻撃的になったりもしちゃったな(俺の世界はまさに白い柱が荒野に無数に打ちつけられているような光景だった、、、、とかカッコつけてみる、、、、)
そんな状態は決して日常生活にとっていいものではない。
たった一人で山の中に棲んでたりしたらとってもいいことなのかもしれないけど、ニーチェのツァラトゥストラのように(俺は自分はそうなると昔は思っていた)
哲学が人生を駄目にする、ってどっかで聞いたことがあるけど、何となく解った気もする(言うほど極めたわけでもないんだけど笑、あえて言わしてもらいます)
ただ、人生を違う方向で豊かにするのも事実であって、ただ悪いものでもない。
毒と薬は紙一重って正にこのことだと思う。
自分で言うのもなんだけど、俺は哲学的センスは悪くないと思う、だってパッションが半端ないもの。
向き不向きで言うなら、もの凄くむいてる。
中学の頃から予感を感じていたのよマジで。
当時の現状と自分の感覚のずれについてひどく悩んだものでした(今も、そしてこれからもそれは続くと思うけど)
端から見たら、それは普通の生活を送っている人間のそれに見えるであろう日常が、俺の方から見るとどうにもこうにも整理しないと生きていけない風に映ってしまってしょうがなかった。
人間は誰もそんな感覚を持っているのだろうと思うけど、要はそれが日常生活において大きい障害か、まあまだ我慢できるか、ちゃんと無視して過ごせるか、のそれぞれ受け取る側の感覚の違いだろうといえる。
俺は無視できなかった。
いつもなんかのどの奥に魚の骨がつっかえているような気持ち悪さがあった。
もうあらゆる物事に細い光しか当たっていないようにしか見えなかった。
真実はどこだ、って気になって気になって仕方が無かった。
真実なんて、いまならもうどこにも無いって言い切れるんだけど(あくまで私見です)、何もよりどころが無い14歳とかには厳しいよね、常にわけがわからく不安なのは。
まあそんなで何か時間を置いて本がちゃんと我慢して読めるようになってから、マジで勉強を始めたのでした。
好きなことを、自ら学ぶってのは実に気持ちがいいことだとその時始めて知った。
何年かぶりにノートとかにメモとか書いたりしてたからね。
ボールペンに違和感が、鉛筆とか普段握らないもんね、このご時世。
キーボードで打っちゃうもんね。
すげえ世界がそこには広がっていた。
ぶっちゃけ音楽より衝撃受けちゃったと思う。
音楽が変えられなかった、この世界を見事に、静かに、めちゃくちゃにしてくれた。
無音があんなに恐ろしいと思ったことはなかった。
音楽で発狂しそうになったことはさすがに無いけど(いや、ニルヴァーナで一度ある)
文字は人間を本気で殺せる勢いがある思った。
限界ギリギリで電車を降りたことが3度ある。
その度生きてるって(意識があるということ、時間があるということ)なんてすごいんだろうって理屈の方向から思ったのでした。
もし宗教心というものを俺個人が提示するのだとしたら、哲学から受けた感覚を、俺は礎にして生きているって言えるかもしれない。
そこに神様みたいなものは、ないのかもしれないけど、遠藤周作の「ディープリバー」にでてくる『たまねぎ』のたとえに相当するものだと言える。
この本面白いからおすすめです(たくろうさんは遠藤周作大好きです)
今日もキリスト教会の人がうちに訪ねてきて、聖書を読み合う会があるからいかかがですか?といわれたんだけど、
「哲学があるからいいです」と断った。
こういう場面でも便利である。
そして冒頭の生き物ってすげえって話に戻るんだけど、お魚さん飼ったりサンゴ飼ったりクラゲ飼ってみたいって思うのって、直にそれを体験したいと強烈に思ったからなんだよね。
むしろしなければならないと思ったの。
最後は理論を超えなくてはならない。
なぜなら、理屈はどこまでいっても生命そのものではないからだ。
日常生活は理屈こねてたら過ごせないからだ。
一番大切な感覚することが、わからなくなってしまうからだ。
それを理解するための哲学に呑み込まれてはいけないからだ。
おれは職業的哲学者ではないんだから、そこまでする必要は無い。
ちゃんと生活をしなければならない。
人と触れ合って、血を通わせて、認め合って生きなければならないからだ。
やっぱり一番美しいのは、日常を素晴らしく思えること。
疲れても頑張れるようになれること。
当たり前にいわれるこの文句をしっかり受けとめられること。
悩みはつきないけど、ぶれがなくなればなくなるほど、この世界の現象を斜に構えること無く受け入れられるようになると思うんだよ。
ぬるい、とか思わなくなると思うんだよ。
エコも許せるようになると思うんだよ。
そこまでいったら、愛の人になれるんだろうか。
べつにそんなもんにはなりたかねえけどな。
『非線形科学』って日本人の科学者の人が書いた非線形科学ってものを紹介する本を今読んでるんだけど、なんか哲学の100年遅れた考え方を今科学に当てはめてるって感が否めない。
内容はとても勉強になりそうな予感がぷんぷんするけれど。
俺は専門家ではないから思い切って書かしてもらうが(責任が無いってなんて楽なんだろう、批評家ってこういう立ち位置なんだろうね)、現代の世界の常識、求めるもの、それを100年から50年前に哲学は既に示してたと思う。
みんながおかしいと思うこと。
そのうち時間に対する人間の定義は180度変わってゆくと思う。
アインシュタインの相対性理論も、100年後には時間に関して否定されていると思う。
物理学そのものの欠点が問題になってゆくと思う。
原子爆弾は創れても、タイムマシンは創れないと思う。
時間と、物質の違いが、そこでおおきな問題になると思う。
脳科学は、50年後、心霊科学と同じ位置づけになると思う。
あれは科学なんかじゃないよ。
そもそも生理学と何が違うんだろう(生理学は科学的です)。
魂を科学が結局扱えなかったように、
意識の本質は、科学的方法じゃ扱えないと思う(京極夏彦の『鉄鼠の檻』にでてくる禅僧が悟りを開くとき、それを脳波の観測によって記述、解明できるのか、というくだりはとても本質的だと思う)。
本当に、本当に新しい分野の登場を待つしか無いと思う。
それを人間が果たして創造できるかどうかはわからないと思う。
でもそれができる超天才がいつか現れることを俺は楽しみにしている。
生きてるうちにそんな方法に出会いたいと思う。
コラムってらくちんだな。
思ってることかきたい放題だね。
この世界にほんとの自由が在るとしたらこの平面の空間かもしれない。
福岡伸一さんって「生物と無生物の間」って本を書いた学者が俺はとても好きです。
この方の生命と科学との触れ言う部分の謙虚さが、もの凄く共感できる。
科学者、生物学者がこんな人ばかりだったら、俺もそうなりたいと昔思ったかもしれない。
俺の幼稚園のときの将来の夢は「博士」でした笑。
鉄腕アトムのお茶の水博士みたいな絵を画用紙に描いた記憶があります笑。
エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則の雰囲気を今日、『非線形科学』からなんとなくつかんだ。
この二つのフレーズを何となく知っていても、どういうことなのか今までよく知らなかった。
これに数式が出てきたら、もう私には解りません、アウトです笑。
カクレクマノミ(ファインディングニモの魚)と、うちにいるネコはなんか似ている。
形は全くもってちがうけど、しぐさがなんか似ている。
このカクレクマノミにあって、初めて魚に対して本気で死んで欲しくないと思いました。
他の魚の命が彼に対して決して軽いわけではないはずなんだけど、情が命を重くするんでしょうな。
ちなみにカクレクマノミは、彼や彼女になったりする変わった魚です。
ペアになるためには性転換も辞さないんです。
うちのは一匹しかいないから、今どっちなのか、男か女か、わからない。
たぶん男。
YES.nagaibun/hozzy