コライ。
けつの穴が二個あったなら、かたいっぽには風船をねじこもう。
ぼくのおならがヘリウムだったなら、それを青いそらへと解き放とう。
髪が一生伸びなかったのなら、抜けるたびにお墓をたてよう。
三輪の野草の花と、蟻の歩幅の献辞をそえて。
このおよそ四方各15センチほどの薄弱なわが意識においては、世界の革命も、言葉とLED粒の可変にすぎずのっぺらぼう。
それよりも腹が減った。
はらがへった。
はらがえった、
はらがへった、
はらがへった
はらがへった
えらがはった
えらいはった
はらがへった
腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った腹が減った
こんだけ書いてんのに、はらが減っても、この腹が減った感じは、画面のLED粒以下に、直接的にさえ作用せず、なんらかによって腹もふくれず、一番腹立たしいのが、夕方6時くらいのTVの食い物のニュースの展開の仕方である。
どんなに腹をすかせて、こっちは一生懸命自分なり家族なり恋人なりが愛情を込めてこの時間に飯をつくっているとおもっているんだ。
できたてのコロッケが食卓に並んだ瞬間、テレビでうまそうにじゅーじゅーしたステーキ肉とか、笑顔でうつしてんじゃねーぞこら。
「こんなに良いお肉で298円!なんとまあ信じられませんねー、おいしいですぅー」
食卓のコロッケの前で、うまそうな、しかもうまそうにテレビ的にわざわざ「じゅわっとろける感」満載で箸でつまんでるだけの映像とか、よくやりますが、湯気がほんと憎らしいほどうまそうでゆるせねえ。
うまそうなステーキの映像みながらコロッケなんて食いたくねえんだよこっちは。
コロッケおいしいのに、30パーセント減しちゃうでしょうが広がり感が。
その時間に台所に立っている作り手に、敬意などないのだろう。
だからけつの穴が二個あったら、そこに風船をつけて、
ヘリウムのおならで各テレビ局にとばしてやれたらいいのになって。
マジックでゴムの表面に「夕方にはまっずそうな食いもんばっか映し続けてください、けど嫌悪感を抱かないようなレベルで。例えば給食に出たパッサパさのコッペパンみたいな無力感たっぷりなやつを希望します」って書いてとばすのだ。
けつの穴が三個あったら、「穴があったら入りたい」って極限の羞恥を覚えたときにその第三の穴に丸まるはいっちゃえば良いんじゃないか?
岩場にいるイソギンチャクを指でぐりぐりしたときみたいに、人の形もああやって丸くなって内蔵の方に引っ込めば良い。
そうしたら、「あの人は今とても羞恥の真っ最中にいるんだわ。ならば見て見ぬ振りをして、放っといて通り過ぎましょう」って一般常識人あたりならやさしく「言わない優しさ」を発現させてスルーしてくれるかもしれないし、ジェントルマンなら自らのコートをさりげなくその球体にかけて目立たなくしてくれるかもしれない。
中にはキレたやつもいるからボールみたいにその「羞恥の形態」を面白がって蹴りとばすやつも出てくるかもしれないが、そこはどの世界も同じで、常識が非常識人をバッシングするごとく冷たい視線を投げかけるであろう。
蹴るやつは、いわゆる羞恥を知らない恥さらしであって、けつの穴があっても2こ止まりのガキなのである。
3つめがないから、蹴ってごまかすのである。
そんなとき、常識的なジェントルマンは言うであろう「君よ、彼をけるのなら、私を蹴りなさい。さきほどの3つめの肛門に収まっていた羞恥状態の男性を蹴ったように、わたしを蹴りなさい。さあ、どうだい、わたしのこの4番目のけつの穴を蹴ってはみないか少年よ」
4つめのけつの穴とは、高貴なるものにしか発芽しない(第2から4までの肛門は発芽という過程を経て内部に腸への道筋を作るのである)いわゆる「目覚めた穴」と呼ばれる神聖のあかしである。
少年はたじろぐであろう。
「あなたの聖門を蹴ることによって、私は、肛門イソギンチャクに変態できるのでしょうか?!」
「さよう、君も立派な羞恥の人と成長できるであろう」
「ありがとうございます!!!」
「では先に、50000円よこしたまえ」
「50000円ですか?今3000円しかないのですが、、、、」
「なら、そこらへんのイソギンチャクから奪ってきなさいよ。じゃなきゃ君はいつまでたっても2つめのままだよ情けない」
「ですよね、、、では!言って参ります!」
少年は羞恥の肉壁に包み込まれている3つめの肛門をもつ人々を次々に暴行し、一日かけて47437円をかつあげした。
よって、彼は警察につかまり警棒でしこたま殴られて絶命した。
そんな時代がきっとこの世界の歴史にはあったのだと思う。
それはもう遠い過去すぎて、ラスコーの壁画あたりにちょっと描かれているくらいだ。
しかもその絵の牛の角あたりを顕微鏡でよおくみないとみれないくらい小さい文字の伝記であるから、知っているのは漂い続ける黴びた空気と私の直観だけだ。
こんな悲劇が、われわれのけつの穴を排便にだけ使用させるように「ただ1つ」へと退化させたのである。
穴があったら入りたい。
その衝動は、何十万年前の我々の身体構造の名残である。
便秘気味の人は、その方法で、まさにこの時代に抵抗しているのかもしれない。
ピジンよ。我に力を。
YES.lascaux/hozzy