オルタノイマン。
くすぐったいってことを考えてみるってことをさっき思いついた。
ので考えてみよう。
くすぐったい。
なんで自分で首とか、脇の下とか触ったり、はたまた自分への褒め言葉を発してみたりとかしてみても、くすぐったくならんのだろうか。
子供の頃から私は相当のくすぐったがりやで、大人に高い高いとかしてもらえないほどだった。
脇の下を意識した瞬間、背筋から蒼い火花がほとばしるようでよく悶絶していた。
人をくすぐった時も、やはり不思議な反応を見る事に気づく。
例えば、まず相手に軽く触れ、くすぐるかくすぐらないかの微妙な振動を腰などに指先で与える。
この時点で相手にくすぐったさを感じさせてはならない、会話が余裕で出来る程度の振動である。
そしてあるタイミングで「くすぐったくないか?」というニュアンスのメッセージを相手に伝える。
すると相手は十中八九は身悶えする(中には動じない人もいるけど笑)
これは誰にでも思い当たる節があるんじゃないかと思うんだけどどうだろう。
不思議じゃね?
物理的にはずっと感覚神経が同じ刺激を受け続けているにすぎないのに、時と場合(条件)が揃うとなぜにこんな「くすぐったい」という状態があらわれるのか。
オシロスコープみたいので、腰への指による刺激の波形を記録してみても、そこには淡々とただ一定のリズムがあるだけで「くすぐったくなった一撃」と「まだくすぐったくない一撃」の違いはおそらく無い。
なのに押される側が「くすぐったいということ」を意識したとたん、その刺激がくすぐったくなるのだ!
波形はただただ一定を記すのみなのに。
ためしにその瞬間の脳波を計ってみたらどうなるか。
きっと、くすぐったくなった瞬間に大きくその波形は乱れ、大きな「ビンッ!」ってやつを描くだろう。
けれども、頭を思いっきり引っぱたいたときにもその波形は大きな「ビンッ!」を描くだろう。
波形計測の問題点は、何の刺激に対しても前の状態に対して過剰になれば(いきなりくすぐられようが、いきなり殴られようが)波形は大きく「ビン!」って反応してしまうところだ。
もし記録だけをみたら、極論、その波形が、くすぐられたものなのか殴られたものなのかが、結果、スコープ上ではわからなくなる可能性がある。
そんなバカなって話だけど、数値状の記録を解析してそれに解釈を与える事が厳密な科学なのだとしたら、これは本質的な問題だ。
その記録された数値から、起きた現象(くすぐったいか、痛いか)を再構築できなければ科学の“科学的”たる意味がないからだ。
さらに面倒な事に人によっては、「くすぐったい」と「いたい」が即、性的快感に変わってしまう場合もあるかもしれない。
その時は波形による「くすぐったい」と「いたい」の選別さえ絶望的に困難になるだろう。
つまり完璧なる「くすぐったい一撃」なるものは物理的には(波形的にも)存在しない。
なのに俺たちは「くすぐったい一撃」があることを現実として知っている。
つまりこれこそが心があるということだ。
この科学に対する矛盾こそが「心」の存在の証明でもあると言いたい(かたくるしいな)。
科学的観点からは解決できない現象だ。
くすぐったさはよくよく心と直結した現象だって。こう言えるのではないかな。
と本日結論づけて眠ろう。
そもそもくすぐったいって、なんなんだろう。
痛いとか面白いとか悲しいとか嬉しいとかよりもずっと出会う機会が少ない状態なもので、よりふわっとしている。
そんななか12/7にニューシングル「生命のシンバル」がでます。
今も曲作りに沈没している。
今年も残りわずかなり。
がんばろう。
YES.oscilloscopes/hozzy