私の骨はモアイの欠片かもしれない。

水戸ライトハウスのMCでしゃべった、死んだら無になるってありえないって話を、改めて考えてみた。

フランスで30年まえに死んだポルノ女優の元素をライトハウスの空間で吸っているかもしれないという話。

本意は、あまねく元素というもので構成されている俺たちの世界と、それだけじゃあ補足できない「生命」という現象の話。

うまくいえなかったけど笑。

悲観的な科学的っぽい、よく聞く最もらしい死に関する言葉に、

「死んだら無になる」

「死んだらただの物質になる」

ってのがある。

対して、スピリチュアルな人の言い分は

「死んでも生き続ける」

「次のステージに向かう」

とか。

こっちの方はもう信念の問題だと思うので、考察してああだこうだいったところで、確かめる術もないし、そもそも科学ではないので、万人が平等に理解できなければならない、という地平にはたっていない。ので、議論そのものが成り立たない。
信じるか信じないかの選択でしかない。だってしょうがない。信教とはそういうものなんだから。
そして世界中には、そのように何かを信じる人々が大半である。
無宗教と言われているこの国の感じが特別なのだとも言える。そして俺も俺なりに信じているものがある。

けれど科学はそうはいかない。

世界共通で誰もが道筋をたどれば、同じ結果にたどり着くものでなければ科学とは言えないからだ。

科学の定義はそれほど厳しいから、逆に現代では絶対的な威力も持っている。

そしてたまによくわからなくなってしまったりもする。

以下、「死んだら無になる」「死んだらただの物質になる」
という二つの言葉への俺なりの「科学的」に見た反対意見。

「死んだら無になる」→俺たちが死んだら無ではなく酸素や水素や窒素や炭素等の元素に分解され、大気や土に還る。この世界から我々が完全に消えることは科学理論的に不可能である。質量保存の法則と言う、鉄壁の科学法則があるからだ。無からは何も生まれないように、何ものも無に帰すことはできない。

「死んだらただの物質になる」→その通りだけれど、それで何か特別なことを言っているようには思えない。生きているときから我々は物質だからだ。
けどおそらくそのことを言いたい訳ではないんだと思うんだもちろん。
生きていることはただの物質ではないんだから。

ならば死ぬということを科学的な物言いやろうどもはどういう風にいいたいのだと。
理解してみようと思った。

まず医学的な死の定義。

それは脳死。

じゃあ脳が死ぬということはどういうことか。

1. 深昏睡(JCS300またはGCS3)である。
2. 瞳孔固定 両側4mm以上。
3. 脳幹反射(対光反射、角膜反射、毛様体脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳嗽反射)の消失。→よって失明、鼓膜損傷などでこれらが施行できない場合は脳死判定はできない。眼球が損傷していると対光反射、鼓膜が損傷していると前庭反射(カロリック試験)の有無が判断できないためである。
4. 平坦脳波。(刺激を加えても最低4導出で30分以上平坦)
5. 自発呼吸の消失。(100%酸素で飽和したのち呼吸器を外し、動脈血中二酸化炭素分圧が60mmHg以上に上昇することを確認。脳に影響を与えるため、必ず最後に実施する。)  

  (wikipediaより)
 
というのを基準に
お医者さんが、「脳が死んでいる」と判断したときが脳死。つまり「死」
お医者さんが職業的プライドをかけて判断する。
たまに間違うときもあるらしく、そのまま臓器提供に移ってしまった、、、、なんて恐ろしいこともあるらしい。

と、やはり現代では脳が死ぬということが、人間が死ぬということになるらしい。

つまり法律上の約束にその判断はのっとっているはずなので、法律上でも医師が死と判断した瞬間に、人間の死が決定づけられることになっている。

お医者さんは、想像以上に重い立場にいるんだな。

科学的な死とは、脳死。

で、命、意識、魂。

これがすなわち「生きている」ことを表している言葉だけど、脳死が死なら、これらはやはり脳の中にあるんだろうか(脳の中に魂的なものがなければ、理論上、脳死=魂の死が成り立たない。そして科学ももちろん論理が支配する学問であるからそこからは逃れられない)

ここで冒頭の問いに返ると、

「死んだらただの物質になる」

ってのと問題がかぶってくる。

ただの物質と、ただの物質じゃない脳ってどこがどう違うんだろうか。

いまも、脳みその研究を汗水たらして研究している学者の人たちがたくさんいるだろうけど、未だに脳みそのどこに「魂」があるかはわかっていない。
わかっているのは、においを嗅いだら、ここの脳みその部分が反応する、だとか。
恐れを感じるとここが反応する、だとか。
脳みその、タンパク質と脂質の固まりの中に、これがまさに「命」の核心だ!と例えば心臓のように取り出して、僕らに見せてくれるようなところまでは至っていない。
そしておそらくそんなものは何年たっても見つからないと俺は思う。

命のコア。

それが脳にあるという法律、医学上の決まりとは裏腹に、命「そのもの」という、形状ある証明自体(この部分のタンパク質のかたまりが意識の部分です!というような)が、発見されたことは未だかつてない。
補足→こうこうこういう意識下ではこの脳の部分がこのように反応します。というのはよくある。けれどこれは俺たちがそもそも「生きている」という前提条件下での脳の反射行程を補足したにすぎない。
脳のこの部分が、命そのものを作り出しているのです。というような箇所のように表現されているとしたらそれは非科学的なインチキ脳科学である。そのレベルでものを言うのならば、心臓や、肝臓も同じように命を作り出しているということができてしまう=「脳に」魂があると、局所的には言えなくなる。

「死んだらただの物質になる」

というよく聞く科学的やろうの発言!

しかしながら生きているということが、どうただの物質じゃないのかは、どうもうまく言ってくれない。

代謝する(生命維持する)
自己複製できる(コピーをつくれる、子孫を残せる)
環境適応できる(周囲に合わせて変化できる)

コレあたりがいわゆる科学的な生きている生物の定義らしいが、誰かも言っていたけど、これじゃあ昨今のコンピューターも適合するんじゃないかと。
燃料さえあれば自ら発電機を動かしエネルギーを得て(→代謝する)、自分と同じ型を造るのなんて得意中の得意(→自己複製できる)、それに加えてプログラミングで自動アップデート(→環境適応できる)

この定義に照らし合わせれば俺のパソコンも頑張らせれば、数日は「生物」に変われるかもしれない。
見た目はいつものパソコンだとしても笑。

結局、言葉遊びでしかないんだ。
本質の核心を表してはいないから。

どう、生きていることは、「ただの物質」じゃないんだろう。

俺たちは、生きていても物質であるし、死んでも、腐敗しても、粉塵と化しても物質(元素)であることには変わりがない。
人間としての形が変わるだけで、構成元素は消えやしない。

もとから物質である我々が、「死んだらただの物質になる」ってのは、結局なんも言ってないのと同じなのじゃないか。

唯一深淵に転化できるとこがあるとしたら「ただの」という部分だろう。

「ただの」じゃない物質としての命。

これが結局分かんないうちは、いくら科学風にものを言っても「死」を定義することは陳腐にならざるをえない。

ただ、生きていること、それを脳の中の現象として局所的に捉えるのならば、電気的反応における『効果』という風に言うことでクリアさせようとしている考えがある。

これは一番俺は納得できた科学的な答えかもしれない。

詳しくはまた今度にしないと夜があける。

けれどね、それを認めるならば、まさにコンピューターも生きていることになってしまう、という考え方にもなってしまうんだ。
石も月もガラスも。
生きているって。

そっちの方がファンタジックですてきだとは思うがね。

俺たちの世界は想像以上にあやふやだよ。

よくリンゴに値段がついてるなって、思ったりするもん。

あれがなんなのかもよくわかっていないのに。

YES.effect/hozzy

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