column

彼の目は蓮のある池かもしれない。

前回、生きていることを、脳の中の電気反応的な「効果」うんぬんという話を最後にしたけれども、

これは端的に言うと、俺の表現方法が中途半端だったです笑。

「生きていること」そのものではなくて、正しくは「意識があるということ」が脳の中の電気反応的な効果であると、そこが共感できるという話でした。

とはいっても、この「生きていること」と「意識があるということ」の線引きというか、二つの違いってのもまたよくよく考えなければならない問題であったりして実に難しい笑。

生きているから意識があるのか。
意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

ちょっと考えてみよう。

おそらく単細胞生物には意識というもがないと俺たちは考えている故に、意識よりも当然、生きていることの方が先だろうと普通は推論する。

しかしそうなると「待った!それでいいのか」という声がいつも、常識を疑っている僕の心の奥底からもくもくとわき上がってくる。

そもそもだ、この「生きている」とか「意識がある」とかいうふわふわとした物事を考えているのは、おそらく人間だけだ。
「生きている」という概念。
「意識がある」という概念。
これはなんとなく、どういうことか、言葉があるという時点で、人間(日本語理解者)にはわかるが、アメーバにはどういうことだかわからないのは確実だ。
なぜなら、アメーバと人間は、言葉では繋がれないからだ。アメーバの言葉があるとしても人間にはわからないように、アメーバの思考も人間にはわからない(そしておそらくアメーバには思考がない[意識がない]と我々は一般的に判断している)

つまりだ、結局その「生きている」とか「意識がある」って言葉と概念で、その感触を理解して感じているのって人間だけだ。

この世界に180万種近くいる生物種のうちのひとつ、人間という種の感じ方にすぎない。

1800000分の1の生命感受パターン。

逆に言えば、この感触から先に俺たちは人間であるが故に行くことができない(人間という型にはまっていて、思考方法もこのケースからは抜け出せない)

そこから1800000分の2へ行くことは、俺たちが人間やめるか、生まれ変わるか、しなければ想像を使ってしかいくことができない。

この想像が、推論になり、客観的考察になり、系統別な記述になり、学問の成分になり、研究の分野になり、~学という名前が着き、そしてあたかも生物そのものを掌握したかのような錯覚に陥り、結果として「単細胞には意識がない」という一般通念、常識的な科学的知識として俺たちのもとにインスタントで届く。

そしてそのインスタントにお湯をかけて、たくさん食べた人間が、頭がいい人になり、そのいい人が、さらなる想像から、新たな推論を生み出し、恐ろしかったり素晴らしかったりのより人間的な結果をもたらしてゆく。

このループがしっかりと俺たち人間の知識に組み込まれ、その起源への疑念など、つゆほども生まれなくなっていく。

このむなしさがわかるかい。
俺は、ずいぶん空しくなる。

どれほど、理解を物事に深めようとしても、それは人間としての(人間側からでしか)理解を超えることができねえ!ファック!

180万分の1だぜ。

何が、単細胞には意識がない。だよ馬鹿野郎。

「意識」って概念ってさ、180万分の1の感じ方の1っこでしかないじゃん。

なんか学校の勉強がうまくいかない人は、もしかしたら無意識的にこの空しさを感じているのじゃないのかい笑。
俺は学校ってところに行かなくなってから、こんな風に理由がわかったよ。

だけど、勉強しなければ、この空しさに納得することもできない。
社会的にうまくやってくこともできない。
働くのがばかばかしくて、やってらんなくなっちゃうから、適度にごまかさなくてはならない。
この空しさは、逆に言えば人間の可能性であることにも気づけば、なんとかやりすごせるかもしれない。
なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから。

そして、冒頭の問いに戻る。
きっと常識とは違う見解が見えてくる。

1生きているから意識があるのか。
2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。

通常の考え方にそうならば、やっぱり1の方にやっぱなるよね。

1生きているから意識がある→アメーバみればわかるけど、奴らには意識があるとは思えないので、意識がなくても命が生きているいい例がアメーバ。だから人間みたいに高度な生物になった時に、生きているというフォーマットの上に意識というものが乗っかっているんだろう、と理解できる。これがまあ常識的だ。

けれど、俺は2だと思うのだよ。

そのものずばり、この「生きている」が先か、「意識」が先か、という『問い自体』が(そしてこれはどんな問いにおいても共通する)、180万の1の人間という種の思考回路から生み出された、オンリーワンの問い方なのだ。
そして一番決定的なのが、「意識」がなければ「生きている」ということがなんのか、その概念を理解することがそもそも不可能だ。
それでも「生きているから、子供の頃のいつごろからだかに意識が生まれて、そこからこんなわけわからんことを考えるようになるのではないか」っていう人もいると思う。
けれども、その反論として言うならば、その推論も、それを言う人の記憶も(おそらく自分の記憶から、子供の頃の意識の発芽を予想するんだろう)、やっぱり意識がなければ、「生」そのもの自体を考えることも、生きること(この生きることとはあくまで概念としての生きること)もできないと俺は思う(生きることの二重性の問題についてはまた今度書きます、、、、もうめんどいかい笑)
意識があるから、風を感じたり、生きていることを感じたり、記憶をたどれたり、問題提起を起こすことができる。
生まれたばかりの子供は、もちろん生きているけれど、「生きている」ということを考えたりはしない。
そこには彼の意識があるだけだ。
その意識はまだきっと、自分と世界さえもが融合していて離れてはいないだろう。
その赤ん坊が、「生きている」と感じるのは、その親であったり、医師であったりであって彼はまだ「生きている」という概念でこの世界を生きてはいない。

ただ本当にまっさらな状態でそこに居るだけだ。
そして我々赤ん坊でない人間は、例外なくもうまっさらに生きていることができなくなっている。
仏教における悟りへの道は、この赤ん坊のまっさらさにもどるための常識との格闘なのかもしれない。

その赤ん坊の感覚はきっと「生きている」という言葉(俺たち思うような概念)には当てはまらないものじゃないかと思う。

いうならば、意識の躍動。

と、わたしこう思うわけです。

そしてなぜ長々とこんな意識の話を持ち出したかというと、前回のコラムや、この出だしの文章とつながるんだけど、やっぱり命とは「意識」であるといってしまえるんじゃないかと言うことだ。

命も、魂も、「生きていること」も、なんとなく「そういうものである」と、ぼんやりした概念である。

そういうものである、ってなんか言いづらいけど、生の核的なものかな。

そしてやっぱりこの言葉も、言葉であるからには、人間が考えだしたものであるわけで、180万分の1の感じ方でしかないと思うのだ。

なので、そんな概念であるからには、やはりそれを映し出しているのは「意識」だと、こう集約的に結論つけられると思う。

「意識」をどこかに集約させることってできるのかな。

俺には今のところ想像できない。

意識は、この世界のすべてをつくる場所で、また映す場所だと言える。

命や魂は、見ることはできないけれど、意識は見ることができる、聞くことができる、感じることができる。

意識を見るって書き方は変だけど笑、見ることが意識であり、聞くことが意識であり、考えることが意識である、と言えるってことか。

そして、脳の中に意識があると局所的にみるのならば、電気反応的な「効果」として立ち現れるって、前回の最後の話につながる。

けれどまた長くなったので今度にする。

意識って、とても幅広いありふれた言葉だけれど、世界の謎を一手に引き受けている、キーになっている言葉だと思って考察中。

さあ、ちょっと時間があるので、旅に出よう。

ではまた。

YES.ameba/hozzy

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