フェキム。
意識に関してのコラムに反応してくれている人がいて、ちょっとびっくりです笑。
ただでさえつかみ所がない問題を、また概念的な言葉を介して書くので俺の文章読んでも(俺の書き方のせいもあって)わかりづらいところが多々あると思うのに、予想外のつっこみをもらったりと笑、なんかすげえリスナーたちだな!
おぬしら、できるな。
モーリーのブログ読んで、コメント読んでたら答えてみたくなるものがあったので、さらに思考をかぶせてみよう。
弁証法的ですな。まず↓
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hozzyさん、意識を持っている人間は本当に生物の中で『高度』なのですか?
生物の中で人間が1番お高い存在なのですか?
引っ掛かります。。
というコメントを読ませてもらって(勝手に文章引っ張っちゃってごめんね)、これに俺の見解を述べるのならば、
「その通り、人間は一番お高い存在だとは俺も思えません!」
です笑。
私の書いた文章が中途半端なせいで、ややこしくなってしまったのだと思うのだけれど、
おそらくこないだのコラムの
『なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから』
というところから、上記のコメントのような感想が生まれたのだと思うのだけれど、どうだろう。
まあとりあえずそうだとしたら、この『なんだかんだいって、180万分の1だとしても、この「意識」はやはり地上トップクラスの優れものであるのだから』
という文章の本意は、決して人間が生物の中で一番優れているということを言いたいのではなくて、人間の「意識」の精度はやはりトップクラスだろうということです(書き方が分かりづらいですね)
俺も究極言うとアメーバにも意識はあると思っている(とても微弱なもののような気がするけれど)
猫や鳥なんかは、当然見ていて(飼っていて)人間に近い意識のあり方をしているのがわかる(コミュニケーションがまあとれる)
人間を中心にして見た場合(人間の意識しか俺は知らないので)、グラデーションのように、人間からアメーバまで意識のあり方が変わっていっていると思う。
180万種類の意識のあり方があると言い換えてもいいかもしれない。
そして意識の精度がトップクラスだというのは、人間の子供と猫とを見ていたら、俺はやっぱ、人間の方が意識に奥行きがあるとどうしても思ってしまうからだ(これは俺が人間だからなのかもしれないけれど笑)
なかには猫の方が、深遠な意識をたずさえていると思う人もいるかもしれない。それはそれで詩的で素晴らしいね笑。つーか猫も180万種中トップクラスの意識を持っているとおもうけどね俺。
つまりそういうことなわけで、更に付け加えるならば、意識の精度がトップクラスだということが、生物として優れているとは言えないとも思っています。
いつだか、結構前にコラムでも書いたんだけど、アメーバの方がもしかしたら生物としては進化しているかもしれないって話、、、。
これは完璧SFみたいな想像でしかないけれど笑、意識が強くあるってことは、その分迷いとか、想像による苦しみがまで常に身にまといながら生きなければならないということでもあるんじゃないか。
それに、身を滅ぼすようなもんまでガンガン造ってしまったり、お金とか株とか、実体のない約束事の上での価値に、右往左往させられているある意味滑稽な状況だったりだとか。
それに比べて、意識があるんだかないんだかわからない植物がなんか神々しく思える瞬間もあったりして、今日もひまわりに水をあげて拝んでる。
そんでアリや、ハチは、また俺たちとは違う「本能」的な部分がえらく発達した、人間並みにそっち方面で高度に進化してる生き物らしいよ(哲学者ベルクソンいわく)
スペックがいいからって、使いこなせないから、結局役立たずの穀潰しってことなんだ今のわたくしは。
ただ、この人間の「意識」の持つ幅に可能性はもの凄くやっぱあると思いたい(じゃなきゃ人間やってらんない)
想像力ってやつは、マイナスに働くことがたんまりあるけど、まだこの世界を全然理解できていない、開発不足の我々の意識使用方法にこそ問題があるのではないだろうか?!?!←ヤバい人みたいかい笑。
って、思って、原発依存を脱却するために、太陽光発電に可能性があるのなら、ためしてみようとか、自分でセットアップする方法とか勉強中!
金さえあれば、すぐにでもつくりたい。と、金という虚妄の価値にひれ伏す人間、わたくしでした。ありがとう。
と、こういう考えであります!
そしてもう一個、
この人はなかなかの強者ですな笑。
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1生きているから意識があるのか。
2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。
1と2での「生きてる」の意味が違うんじゃないですかー
生物学的な「状態」、事実説明(科学的な説明?)と、意味や意義に価値などの「認識」(哲学的認識?)の問題の違い?
意識があるのに必要な「前提条件(科学的な説明)」と、意識が捉える対象の
意識が捉えるものは概念的で、言葉(記号や意味)だけど、事実説明は言葉で説明する(記述)が言葉にする以前の事柄を言葉で説明することがある(記述する以前の事柄を記述する(メタ的?))。
客観的な説明と主観的感覚。
その「客観的」が「科学的」で、「主観的」が「哲学的」、かなと。
レベルの違う問いかなと。
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このコメントにも考えを述べるのならば、
「確かに、その通りでございます笑!」
そう、この問題二つを並列させること自体が、そもそも問題である。
俺も自覚あるですよ、、、笑。
けれどまさか突っ込まれるとは、今までのケースから考えてなかったので、なんか興奮しました、、、。
1生きているから意識があるのか。
2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。
この二つは、上記のコメントを書いてくれた方が指摘している通り、1と2はそもそもの問題提起している出発点が異なっている。
その相違点もこのコメントに書いてある通り。
1が客観的視点から、2が主観的視点から、「意識」と「生きていること」を問題としている。
なので本当だったら、どっちが間違いでどっちが正しいという、二者択一の結果を導きだすこと自体が、論理的ではないですよね。
この方が書いている通り、両方とも「正しい」言明であると言えてしまう。
これは確かに矛盾だね笑。
あのコラムの根本自体を停止させる見事な指摘!!
素晴らしいパンクス笑。
わくわくをありがとう。
では、なんで俺がこの二つの問題を並列させたのか。
ただの馬鹿だったのか笑。
まあそうなんだけど、一応ちゃんと根拠はありますので、書かせてもらおう笑、偉そうかい?
まず、これをあえて並べてしまった俺の本意としては、客観というものも主観というものも、まとめて「意識」のテリトリーに収まっている「概念」だと思っているからです(そしてこれをいちいち書いて、前回の話を展開させるとそれはもうたこ足配線のような文章になって、めんどかった笑。ので、ここから主観と客観に関する俺の哲学的な見解を述べていきます)
客観という科学的なものの見方はともかく、主観という立場は、その名前からしてもうすでに感覚とか、自分というものそのもののような概念としてなっているけれども、その「主観」も、意識に対して立ち現れて客観的に捉えられた現象として概念化していると言えないか(これは自分の感覚を言語化したり、そうしなくても『コレはなんだ?』と反芻したり、いうなればボーッとしているのと、ぼーっとしていないときがその境目で、意識そのものの状態であるか[ふと我に返るときのその前のところってのが一番いい得ているかもしれない]、主観という自分の存在が定立している状態になっているかの違いというか、膨張して生命そのものである意識状態と、それが現実に収束した主観状態の違いというか、ふと我に返るときのその前が、主観と客観をまとめて概念としてこの世界に存在させることを可能にするというか、その領域というか、そういう感じのことです)
これはカントという近代の哲学者の考えに、俺なりに西田哲郎とベルクソン、フッサールという19世紀後半20世紀頭あたりに活躍した哲学者の考えを織り交ぜながら進めていっている考えです。
これだけの説明では、到底説明不足、根拠不足になるけれども、上記に記した哲学者たちの考えの上に、脳の中の電気効果というのを意識という点にしてまとめあげられたら、何か新しい扉が開くんではないかと笑。
俺の哲学的な問題は、この方法で解決するかもしれないという期待を抱いてまた、今この文章を書いています。
で、続き。
上記のコメントをくれた方は書いているけれど
意識が捉えるものは概念的で、言葉(記号や意味)だけど、事実説明は言葉で説明する(記述)が言葉にする以前の事柄を言葉で説明することがある(記述する以前の事柄を記述する(メタ的?))。
この部分を俺なりに書き換えるならば、「意識が捉えるものはこの世界のすべてであり、言葉やその概念や、感覚や、言葉にさえできない感覚で(これは概念が追いつかないけれど確かに存在している感覚だろう)、事実説明は、その意識に現れた諸々の現象を言語で記述すること。メタ的なものも概念に相当するため、意識より後になければ損ざし得ない」といっちゃいます。
なんか、もう意識ありきで考えを展開させてしまっているところがずるいと思いますが笑、まあこれは私のコラムなので、そこは許してください。そういう思想なのです。
ちなみに意識って、これも概念なんじゃねーの?って突っ込みもあり得ると思うので、言っときます。
概念です笑。
なので、「意識」って書いているけれど、別の言葉でもいいのだべつに。
「フェキム」とかでもいいのだ笑。
ベルクソンは記憶といい、西田は場所といい、フッサールは現象という。
それぞれ厳密には全然違うものを言っているんだけれど、見ようとしているポイントは一緒だと思ってる。
つまり、意識ってのは、始まりの場所っていうか、命が湧き出ている瞬間の連続っていうか、こここそ、メタ的な概念の最終地点というか、言葉で言うと概念なんだけど、いうなれば目を閉じれば感じる場所だ。
目を閉じれば感じる場所、、、、、。
これです笑。
目を閉じて耳を閉じて感じる場所。
湧き出る意識の流れ。
これは感じているのか、それを感じさせているのか、きっと両方を同時に行っているところなんだろう。
まさに主観も客観も混じり合っている、未分離の場所だ。
今書いてることは言葉によって概念化されているけれど、わかってもらえるだろう?そんな意識の感じってあるじゃん。
だって流れているんだ。
このおかげで時間というものがあるんだ。
こういうのを俺はめんどいから「意識」っていってしまっているので、上のコメント書いた方のように違和感を感じられる人もいるかと思いますが、ゆるしてちょ。
1生きているから意識があるのか。
2意識というものがあるからそもそも生きているということを認識できているのか。
この二者択一の論路的矛盾は、1を2に収束させるためだけの笑、わたしの幼稚な並列のさせ方でした。
技術不足、すみませんでした。
どちらも言明記述的には正しい!
その通りです!
ですが
1は2に収斂されると思っています。
事実説明というものは、意識というものから出発しなければ、事象を客観的に把握することが原理的に不可能だと思いますが、どうでしょう?
提起したかった部分はそこです。
記述不足で申し訳ない!
だってこんなに説明すんのめんどいんだもの笑。
けれど楽しかったですありがとう!
以上、すてきなコメントがあったのでテンションあがってばっと書いちまった。
もうこんなことしないかもしれないけど、するかもしれない笑。
なんだこれ、バンドのコラムじゃなくなってんな笑。
曲つくんぞ。
YES.aufheben